33.悪夢ー蜘蛛ー
辛い。
眠れないのは思った以上に辛い。
勇者がわたしと夢を繋いだあの夜から、まだ四日。
最初は良かったのだ。昼夜を逆転させて、日中にうとうとすれば勇者が干渉してくる事はなかった。やっぱり勇者も眠っていないと回路を繋げられないようで、夜に起きていればよかったのだから。
でもそれも一日だけだった。日中に眠ろうとしたら、勇者が出てくる。朝でも、夕方でも、一周回って夜でも、いつ眠っても夢に勇者が出てくるようになってしまったのだ。
その度にわたしが欲しいとか気色悪いことをほざくし、唇は守っているものの、髪やら頬やら首やら太腿やら触られてわたしの精神力はゴリゴリと削られている。
誰かにこの気持ち悪さを零したくとも、零した相手が不快になるのは間違いないし、わたしもこんな恥ずかしいことを口にするのは憚られる。
何もかも勇者のせいだ。
「クレアさん、また魘されてましたよ」
「うん……もう目を閉じるだけで勇者の顔が浮かんで来るんだけど、末期ですかねぇ」
「勇者じゃなければ恋ですかって楽しめたのに、非常に残念です」
「その恋愛脳もブレないですねぇ」
昼食を食べた後に惰眠を貪ろうとしたのに、ものの数分で魘され始めたらしい。レオナさんが起こしても起きなかったようで、駆けつけてくれたアルトさんに揺り起こされたらしい。レオナさんには水を掛けてもいいと言ってあるのだけど、流石に出来ないようだ。構わないんだけどなぁ。
眠れないと驚くくらいに食欲も無くなる。気力さえ奪われているようで、四日目の今日は眠ることも出来ないのに、ベッドから起き上がるのも億劫になっていた。
神殿の人達はみな、親切にしてくれる。少しでも食べられるようにと、摘みやすい軽食や果物を用意してくれたり、気晴らしになればと部屋に花を飾ってくれる。
用は無くとも様子を伺いに来てくれるし、レオナさんは付きっ切りで側にいてくれる。
わたしの為に皆の時間や労力を割いて貰うのは非常に心苦しいのだけど、それを口にしたらレオナさんにこっぴどく叱られてしまったので、それからは謝意ではなく感謝を伝えていくことにした。
ベッドにクッションを重ねて貰って、起こした上体を預ける。その姿勢で父の魔導具帳をめくるけれど、文字が頭に入ってこない。体が重いし頭にも霞がかかっているようだ。この本を開くのはいつだって楽しかったのに、今は文字を目で追うことさえ辛い。
「もう勇者のところに乗り込んで、その息の根を止めた方が早い気がしてきました」
「それには非常に賛成なんですが、神官長の許可が下りなくて……」
「いやいや、誰か提案したんですか」
「アルト様が。神官長も『個人としては賛同するし力も貸すけど、神官長としては許可出来ないよ。すっごい残念なんだけど』と、仰っていました」
「あはは、皆さんにそう思って貰えてるなら、まだ頑張れます」
わたしとしても討ち入りは結構本気だったんだけど。
気分が少し明るくなったところに、ノックの音が響いた。レオナさんが対応し、ノックの主であるライナーさんを招き入れる。
「クレアさん、お加減は……宜しくないですね」
ライナーさんが眉を下げている。
顔色が悪いのも、目の下の隈が凄いのも、肌が荒れ荒れなのも自覚しているから、苦笑いだけ返しておいた。
「朗報になるか分かりませんが、夢について色々と調べてきました」
「すみません、お手数をおかけしています。何か良い方法はありましたか?」
レオナさんの用意した椅子に座り、ライナーさんは持ってきていた本を開く。
「繋がっている回路を強制的に切るには、術者だけでなくクレアさんにも何らかの被害が及ぶ可能性が高いようです。二度と目覚めずに、一生夢に囚われる事も考えられます」
「それはもう絶対に勘弁して頂きたいです!」
「うまいこと、勇者だけを夢に閉じ込められたらいいんですけどね。今回の主導権を握っているのが勇者なもので……」
わたしの勢いに苦笑しながら、ライナーさんが答える。
そう、主導権を握られているから難しいのだ。それを奪えるのが一番なんだけれど、それもなかなかに難しい。
「それでですね、回路を切るというよりも……悪夢を寄せ付けないようにするというのはどうかと思いまして」
「悪夢を……」
「見ているのは悪夢になるでしょう? それなら悪夢を遠ざけて、良い夢だけを見られるような魔導具を探してきました」
「これはまた、随分と古い本ですねぇ」
ライナーさんが指し示した頁は、今にも破けてしまいそうなほど劣化している。変色も凄い。
その頁に書かれているのは、今は失われている古代文字。誰も扱う事の出来ない、古い言葉だ。これを扱えるのは神々かエンシェントエルフくらい…ああ、読める人がいたわ。
わたしには古代文字は読めないけれど、その描かれている魔導具の意匠くらいは読める。
「蜘蛛の巣ですか」
「ええ、蜘蛛の巣が悪夢を絡め取る。この図に描かれている蜘蛛は実在するものではないのですが、神話の世界には伝えられています。名を『アラネア』といい、夜神ドゥンケルが化身した姿だと言われています。夜神の神殿に仕える巫女が呪いを受け、毎夜悪夢に魘されていた。それを憐れに思った夜神は蜘蛛に姿を変え、その悪夢を巣で絡め取ると食べてしまったのです。この魔導具はその一場面をモチーフにしています」
夜神はその巫女を妻に娶ったのだけど、それは神話として伝えられていないのだろうか。仲睦まじいおしどり夫婦を思い浮かべるも、今は魔導具だ。
「随分と魔式が分散化されていますね」
蜘蛛の巣は八つの頂点から作られていて、その頂にはそれぞれ異なる魔式の刻まれた鉱石が使われている。
蜘蛛に使われている魔式はひとつ。腹部に埋め込まれた鉱石に刻むようだ。これが悪夢を食べるのだろう。
「八つの鉱石、その全てがそれぞれ複雑に組み重なる事で、悪夢を捕らえると書いてあるそうです」
「悪夢なんて抽象的なものを捕らえるには、やっぱり並大抵の魔導具じゃ出来ないんですね」
ライナーさんが指で示しながら説明をしてくれて、レオナさんがそれに頷いている。二人並ぶと良く似ているのは、やはり双子といったところか。
「でも兄ぃ、この魔導具をどうやって用意するの?」
わたしが魔式を刻める事を、レオナさんは忘れているのだろうか。
不思議に思いつつ存在を主張しようと挙手するも、持ち上げた手が酷く重たく感じた。
「わたしが作りますよぅ! 銀細工はアルトさんにしてもらうとして…」
「だめですよ! いまのクレアさんには厳しいでしょう? これ以上無理をさせるわけにいきません」
確かにこの魔式は複雑だ。でも他の魔導具師を探している暇はないだろう。
レオナさんの気遣いは嬉しいけれど、わたしが出来ることならやらなければならない。
「レオナさん、ありがとう。でも、わたしに出来る事があるなら何でもやっていきたいんです。正直、この状態が長引くのはわたしとしても厳しいので…」
困ったように言えば、レオナさんも渋々といったように頷いてくれる。
そんな空気の中、ノックもしないでアルトさんが部屋に入ってきた。