147.美しい世界
「ふふ。ふふふ」
「どうした?」
「楽しみすぎて、笑いが止まりません」
「そうか」
わたしとアルトさんは並んで連絡船の甲板に居た。手摺に掴まり、水平線の彼方を見つめる。波飛沫が光を映してきらきらと眩しい。
わたし達は東国へ向かう船に乗っている。
転移をすればすぐだけれど、それだと旅の風情がない。荷物も空間収納に入れてしまえば身軽でいいけれど、敢えて数日分の荷物は持ち歩く事にした。
「東国では何が見たい?」
「そうですねぇ……美味しいものが食べたいです。アルトさんは?」
「東国の建物は独特だからな、色々見て回りたい」
「いいですねぇ。そういえばレオナさんが東国の恋愛小説を送って欲しいって言ってましたよ」
「翻訳されてネジュネーヴェで出版されるのを、待った方がいいんじゃないのか」
よく晴れた青空を海猫が飛んでいく。可愛らしい鳴き声に顔が緩んだ。
わたしは手摺に頬杖をつくと、傍らのアルトさんに視線を向ける。
「東国の言葉を勉強するんですって。なんでも東国の男性は優しくて結婚相手に最適だって、密かに人気らしいですよ」
「ヴェンデルとライナーが泣くぞ」
「アルトさんは泣かないんですか?」
「俺はそれどころじゃなくてな」
「はい?」
「恋人が東国で他の男に目移りしないようにしないといけない」
「な、っ……!」
恋人。いや、そうなんだけど。それでもはっきり言葉にされると恥ずかしいのは、もうどうしようもなくて。
わたしは顔に熱が集うのを自覚して、手摺に両腕を重ねるとそこに顔を伏せるばかり。それでも耳まで熱いから、アルトさんが笑うのが分かった。
言い返して逆に恥ずかしがらせてやりたいけれど、藪蛇になるのが目に見えていて。わたしはこの件では口を閉ざす事にした。
わたし達が旅に出ると言った時、皆が快く送り出してくれた事を思い出す。ヴェンデルさんとレオナさん、そこになぜか具現化していたエールデ様を合わせた恋愛脳の三人はニヤニヤしていたから放っておくことにした。
ライナーさんは行き先を確認して、船の手配をしてくれた。頼れるのはやっぱり兄神官だね……。お礼にと作ったチョコレートケーキは、やっぱりレオナさんの分と二台になった。
両親は……母は喜んでくれたけれど、父が苦い顔をしていた。わたしのリボンカチューシャを作ったのがアルトさんだと知ると「父さんだって作れるし」なんて張り合って、母に叱られていたのは笑ってしまった。まぁ母が何とかしてくれるだろうし、そこはあまり気にしていない。
シュパース山に戻った事を聞いた神々が、順々に遊びに行くとエールデ様が言っていたから、暫く賑やかになるだろう。
ヒルダも、イーヴォ君も忙しくしているらしい。
戦争が終結して和平条約を結んだけれど、落ち着くのはまだ先になりそうだと溜息混じりの鳥が届いた。東国のお土産を持って、そのうち遊びに行こうと思っている。
グロムは変わらずに北の山を守っている。
時々、守神が討たれた地に行っては、他の守神と協力して澱みを浄化しているそうだ。その浄化が進めば新しい守神が生まれるだろうとも教えてくれた。
彼はわたしとの召喚契約を破棄していない。何かあればいつだって駆けつけてくれるそうだけれど、グロムにも何かお土産を用意して北の山に遊びに行こう。
「……何を考えている?」
わたしの髪を指先に絡めながら、静かにアルトさんが問うてくる。わたしは伏せていた顔を上げ、アルトさんに笑いかけた。
「みんなの事を」
「なんだ、嫉妬させたいのか」
「もう、アルトさん!」
揶揄っているのが分かるから、わたしはアルトさんの肩に拳をぶつけた。超人にダメージを与えられないなんて分かっている。案の上、その拳は簡単に受け止められてしまって、手を繋がれた。
「冗談だ」
「もう……冗談に聞こえないからタチが悪いんですぅ」
「半分以上は本気だったからな」
「えぇ……そうやって惑わすんだから」
呆れた声を作って溜息をついて見せるけれど、この人にはわたしが本当に呆れてなんていない事はお見通しだろうと思う。
わたしは繋ぐ手に力を込めてから、軽く揺らした。思えばいつもこの手に救われてきた。
「東国ではどんな花を贈ろうか」
アルトさんがわたしのリボンカチューシャを指先で撫でながら、優しい声で言葉を紡ぐ。
「もうリナリアも咲いているでしょうか」
「そうだな、東国ではもう様々な花が咲いているとライナーが言っていた。だが俺はリナリアはもう贈らないぞ」
「ふふ、気付きましたからね」
リナリアの花言葉は――【この恋に気付いて】
わたしは繋ぐ手を解くと両腕でアルトさんの腕に抱きついた。肩に頭を擦り寄せると、慣れたムスクが鼻を擽る。
「次はブルースターや、桃の花なんてどうだ?」
「どうだと言われましても……」
あとで花言葉の辞典を開こう。
レオナさんが貸してくれたのと同じものを、買っておいたのだ。
「調べなくても教えてやろうか?」
「心を読むのはやめてくださいよぅ。それに自分で調べるから大丈夫です」
「そうか、残念だ」
だってきっと、そういう意味の花言葉でしょう?
それをアルトさんから告げられたら、きっとわたしはどうにかなってしまうもの。
「ねぇアルトさん」
どうかしたかとわたしを見つめる優しい東雲。わたしの大好きな眼差しが、真っ直ぐに向けられている。
「大好きですよ」
恥ずかしさなんてなかった。気持ちのままに自然と口から溢れ落ちる睦言に、アルトさんが目を瞬かせる。すぐに嬉しそうに笑った彼は、わたしの事をしっかりと抱き締めてくれた。
額に唇が落ちる。優しく触れる唇が頬に滑って――そして唇に触れた。
黄赤の瞳に熱が揺れる。それはきっと、わたしの瞳にも。
進む船に割かれる飛沫の音も、海猫の声もどこか遠くで聞こえた。
さっきよりも深く重なった唇から、アルトさんの熱が伝わってくる。わたしの熱と同化して溶け合う感覚に溺れてしまいそうで、両腕を背に回して縋りついた。
呼吸が出来なくて苦しいのに離れたくない。言葉に出来ない代わりに抱きつく腕に力を込めた。
唇が解放されて、アルトさんが額同士をこつんと合わせる。二人で笑い合っても、寄り添う体が離れる事はなくて。
ああ、この世界はなんて美しい。
東雲の瞳に迷い込みながら、そう思った。
これにて完結となります!
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