140.声
「アルトさん! アルトさん!」
「危ない、主」
崖に身を乗り出したわたしを捕まえたのは、グロムだった。
後ろから羽交い締めにされては、抜け出す事もできなくて。
濁った空。怨嗟の声。
何も変わらないのに、アルトさんがいない。
あの優しい東雲の瞳がわたしを見てくれる事はない。力強い温もりがわたしを抱き締めてくれる事も、穏やかな声でわたしの名を呼ぶ事もない。アルトさんはいなくなってしまった。
わたしを置いて。
「ひとりにしないって、言ったのに……っ!」
分かっている。わたしを守るために、彼は落ちてしまったのだと。
わたしが居たから、わたしのせいで。わたしと会わなければアルトさんは今も生きていてくれたのに。
ああ、やっぱりわたしは忌み子だ。
わたしのせいで両親も囚われた。わたしのせいでアルトさんもいなくなってしまった。
わたしは、存在してはいけなかった。
何を泣いているんだろう、わたしは。そんな資格なんて、ないのに。
『クレア』
聞こえた声に振り返る。
そこにいたのは、モーント様と――リュナ様だった。
リュナ様はまだ顔色が悪いけれど、しっかりと自らの足で立っている。
『私の天使がすまない事をした、クレア』
憐憫を含む、労るような声でリュナ様が言葉を紡いだ。
気を失って倒れているマティエルの傍らに膝をつくと、その手に白銀の光を集める。集った光はマティエルを捕らえる檻となる。
『アルフレート君は……』
モーント様の声が紡ぐアルトさんの名前に、心臓が早鐘を打つ。その場に踞って嗚咽を漏らすしか出来ないわたしに、モーント様は全てを悟ったのか「そうか……」と小さく呟いた。
「クレア……」
グロムがわたしの背を撫でてくれるけれど、アルトさんとは違う温もりに、アルトさんがもういないのだと突き付けられているようで。
アルトさんがいないこの世界に、光なんてない。
ああ――マティエルはこんな感情を抱えていたのか。
昏い感情に心が凍てついていく。
だめ、これ以上は……だめ。それを思っては、願ってはいけない。
そんなわたしを押し留めたのは、『声』だった。
声が聴こえる。『生きたい』と願う、声が。わたしの名を呼ぶ、優しい声が。
……何を泣いているんだ、わたしは。
わたしは両頬を勢いよく両手で叩いた。パン! と高く響いたいい音に比例するように、ひりひりと痛むけれど、気合いを入れるにはこれくらいじゃないと。あんなぐじぐじした自分じゃ、自分の出来る事さえ見失ってしまいそう。
わたしは、わたしに出来る事をする。そう決めたでしょう。わたしにまだ出来る事があるなら、それをやらなくちゃいけない。
驚いたように目を瞠るグロムに笑いかけ、勢いをつけて立ち上がる。濡れた顔を手で拭うと深呼吸を繰り返した。それから空間収納を開いて回復薬を取り出すと、一気に呷った。
「……主?」
「アルトさんのところに行ってきます」
「な、っ! 無茶を言うな!」
「無茶じゃないんですー。わたしが人助けを使命にしている事は、グロムだって知っているでしょう?」
そう、今日も今日とて人助け!
その場所が混沌の中だろうが何だろうが、わたしのやる事は変わらない。『生きたい』という声が聞こえたんだもの、それに応えるだけ。
魔力も戻っている。大丈夫。
「行ってきます!」
「主!」
『クレア!』
焦りを含んだグロム達の声を背に、わたしは結界を張ってから意識を集中させて転移をした。
わたしの名を呼ぶ、混沌の中へと。
結界を張っているのに、自分が揺らいでいく感覚。
わたしが、わたしである証明が出来ない。
これが混沌――すべてを飲み込む、この世の真理。
いつしかわたしが纏っていた結界も泡沫のように消えてしまって、わたしは背中の両翼を羽ばたかせて混沌の中を潜っていた。
大丈夫、声が聴こえる。
わたしはその声が呼ぶ方向へ進みながら、目を凝らした。
そして――見つけた。目を閉じて深く沈んでいく、アルトさんを。
「アルトさん!」
背中の翼に力を込めて、アルトさんの元へ進んでいく。
「アルトさんってば! 返事して下さい! わたしの声、聞こえてるでしょ!」
声の限りに叫ぶと、アルトさんがゆっくりと目を開ける。
――どうして。
唇が、そう動いた。
「どうしても何も『生きたい』って願ったでしょう? わたしはその声に応えて来たんです」
――戻れ、今すぐ。
「何言ってんですか。わたしが来たからもう大丈夫ですよ」
わたしはアルトさんに両手を伸ばす。
東雲の瞳が迷うように揺らいでいるのがわかった。何を迷っているんだ、この男は。いつもの行動力は混沌に溶けてしまったんだろうか。
わたしは更にアルトさんに近づいて、その体に抱きついた。
混沌の中でも、確かな温もりが伝わってくる。わたしの、大好きな温度。
「行きましょう、アルトさん。わたしをひとりにはしないんでしょう?」
「……そうだったな」
落ち着いた、いつもの低音が耳を擽る。
わたしを包み込むように、アルトさんが抱き締めてくれる。心地よさに吐息が漏れる。
アルトさんと触れていたら、自分が自分で居られるのが分かった。
混沌の中で自我が揺らいでも、この人と一緒なら大丈夫。そう、自信をもって言える。
「好きですよ、アルトさんの事が」
溢れた想いが勝手に口から零れ落ちた。
アルトさんが目を瞠る。その珍しい様子にくすくすと肩を揺らしてから、わたしは意識を集中させた。
この混沌から脱出する。
わたしたちが、共に在る未来へと向かって。