117.影神の正体
薄雲が太陽にかかる。
東屋に一瞬影が掛かってから、すぐにまた陽光に照らされる。
「ケイオス様が眠りについて、もうどれだけの時が経つのかは私にもわからん。エールデ様からお聞きしたのか?」
「そうです。エールデ様は『愛しい夫は影と共に眠っているよ』とおっしゃっていました」
「そうか……」
ヒルダは椅子の背凭れに、体を預けると深く息をつく。イーヴォ君は何も言わずに、ティーカップに視線を落としていた。
「貴方達がそれを知りたいというのは、勇者に関係しているのか?」
「ああ、俺達は勇者の出身地にて伝承を確認してきた。里の者に話も聞いたが……どうにもキナ臭くてな」
ヒルダの問いに答えるアルトさん。わたし達は顔を見合わせて頷いた。すべて話そうと。
「わたしは勇者に『理から外れる混ざりもの』の気配を感じていたんです。それで色々調べて貰っていたんですが……エルステの伝承を自分でも確認したくて、エルステに行ってきました。
それでエルステの石碑に刻まれていたのは『聖剣が輝く時、混沌が世界を飲み尽くす』という一文と、『剣を抜く者、我が宿願を成就させる者なり。称えよ、偉業を成す者を』というものでした」
「聖剣が実際に輝いて、それを抜いたのが勇者なのだろう。その宿願とは、我ら魔族を滅ぼす事か?」
ヒルダは呆れたように溜息をつく。カップを呷ってジャスミンティーを飲み干すと、そのカップにイーヴォ君がまた花茶を注いだ。
「エルステの民はそう思っているようです。でも、わたし達が思うのは……また違うんですよね」
「ほう?」
「まず、その宿願という一文を残したのは、エルステを拓いたシャーテという青年でした。
エルステではその青年は神様だったと言われています。……わたし達が話を聞いた人によると、シャーテというのは人々を守る為に地に降り立った神様だと。それによって主神に目の敵にされて、魔族に虐げられたのだと言っていました」
「ざけんな! ケイオス様がそんな――」
「イーヴォ」
声を荒げるイーヴォ君を、ヒルダが小さく制した。それでもイーヴォ君の眉間には深い皺が刻まれているし、不快感を露にしている。
「わたしもアルトさんも、それを信じているわけじゃないですよ。エルステではそう伝わっているってだけです」
わたしは両手を顔の前で合わせて、イーヴォ君にごめんねと言った。不快な思いをさせてしまったのは申し訳ない。
隣でお茶を飲んでいたアルトさんが、音もなくカップをソーサーに戻した。
「シャーテという青年は、シャルテという神だったと調べがついた。シャルテは主神と争い、敗れた。恐らく主神はそのシャルテを封印するべく眠りについている。シャルテがエルステに伝えた宿願とは主神を討つ事ではないかと、俺達は思っている」
「主神を討ち、本体である影を解放して復活しようとしているんじゃないかって」
わたし達の言葉に、イーヴォ君が表情を無くしていく。
ヒルダはテーブルに頬杖をついて、大きく息を吐いた。その表情は、不敵。
「勇者が相手にしているのは私達ではなく、もっと強大なものだったということか」
「シュトゥルムがそれを知っているかは分からんがな」
「それで、わたし達の仮説が合っているかをヒルダに聞きたかったんです。ケイオス様はシャルテを封印する為に眠りについているのかを。もしそれが当たっているなら、ケイオス様とシャルテは何の為に争ったのかを」
わたしの言葉にヒルダは小さく、何度も頷いた。まるでわたしの言葉を自分の中で反芻しているかのように。
固まっていたイーヴォ君は我に返ると、フォークを手にしてケーキを食べ始めた。わかるよ、糖分が必要なんだよね……。
わたしもカップを口許に寄せ、香りを楽しんでからお茶を飲む。ふわりと抜けるジャスミンと、その後に残るのは柔らかな花香。
「……わかった。私に伝わっている主神の話をしよう。……まず、主神が影を封印しているのは間違いない。それは貴方達の言う通り、影神だ。私に名前は伝わっていなかったがそれがシャルテなのだろうな」
「……ヒルデガルト様、俺は席を外します」
「いや、構わない。別に門外秘の話ではないんだ。イーヴォ、お前は主神が眠りについた事について、何と聞いている?」
「この世界を手中に収めようと反旗を翻した神を討ったケイオス様は、その争いにて傷ついた体を癒すべく長い眠りについていると……」
二人の話を、わたしとアルトさんは黙って聞いていた。
反旗を翻した神。それがシャルテ。でも、どうして……。
「二人にも問いたい。創造神でもある主神ケイオスが、眠りにつかなければならない程に力を失う程の争い。相手がそれだけ強い力を持っていたからだと思わないか?」
ヒルダの視線がわたし達に向けられる。その眼差しは力強く、王としての貫禄に満ち溢れているようだった。
彼女の言葉を心の中で繰り返す。主神が力を失う程の相手。
「ケイオス様は影神を封印している。その神は何から生まれたと思う?」
「それは、影……っ!」
問いに答えようとしたわたしは、思わず息を飲んだ。身体中の温度が失われていくような、そんな感覚。ぐらりと世界が傾くように、血の気が引いていく。それを止めてくれたのは、わたしの手を握ったアルトさんの温もりだった。
「影神とは、ケイオス様から生まれた神。……ケイオス様と同等の力を持っている?」
「そうだ。同じ力を持ちながら影である事を不満に思った影神は、ケイオス様を討って成り代わろうとした。二人が争ったのはそれが理由だ」
わたしの声が震えている。それに気付いたのか、ヒルダは表情を和らげて微笑んでくれた。
「じゃあエルステに伝わる宿願って、ただ主神を討つだけじゃない。復活して、自分がその場に座ろうとしている?」
「そうだろうな」
静寂が場を支配する。
合っていた仮説と、それ以上だった事実。シャルテの宿願が叶ってしまったら、この世界は確実に乱れるし、滅びないとも限らない。
そこまで考えて、ふと思った。
マティエルはそれを望んで、勇者に手を貸しているのではないか。
「マティエルも、それを望んでいるんだ……」
思考が口から漏れたと気付いたのは、わたしの手を握るアルトさんの手に力が籠ったからだった。
「マティエルとは、勇者の側にいる天使だったな?」
ヒルダにも聞こえていたらしい。わたしは頷くと、繋ぐ手に一度力を込めてからそれを離した。温もりが手の平から体の奥にまで広がったようで、大丈夫だと思えた。
アルトさんの口許が綻んだように見えたのは、見間違いではないと思う。
「ええ、そうです。……マティエルはわたしの母に執着しているんですが、母はマティエルが近付けない場所にいるんです。でもシャルテが復活してこの世界に君臨したら、神々だって混乱の渦に落ちるでしょう? マティエルはそれを狙っているんじゃないかと」
「混乱に乗じて母君を奪うつもりか」
「あながち間違ってもいないと思うんです」
アルトさんの声が低い。その表情を伺うと苦々しげに眉を寄せていた。
「さて、やはり勇者を討つしかないようだな」
「軍はいつでも動かせますよ」
魔族組の士気が高いな。
わたしは思わず苦笑いが漏れてしまった。とりあえず自分も落ち着こうとケーキを食べる。うん、美味しい。程好い酸味と桃の甘さが、お口の中で見事に調和している。これはまた作ってもいいな。
「わたしとしてはリュナ様がどうしているかも、確認したいんです」
「月女神が?」
「ええ、この戦争が始まった頃から、神々と言葉を交わす事も無くなったと。リュナ月教で大司教様が受け取るお言葉も、戦争と勇者を支持するものだといいますが。……それも何だか怪しいと思うんですよねぇ」
「しかしそれをどう確認するのだ?」
「……一の月に行って――」
「無理だ」
ですよねー。速攻でアルトさんに切り捨てられた。
わたしが盛大に肩を竦めると、ヒルダが笑った。先程までよりも穏やかな笑みだった。
「そういえばヒルダは、精霊王様のところに行っていたんですよね? どんな場所でした?」
「美しい国だったぞ。そうだイーヴォ、あれを」
ヒルダの声に応えて、イーヴォ君が席を外す。不思議そうにしているわたしをよそに、ヒルダは悪戯に笑うばかりだった。
19時にも更新しますので、宜しくお願いします。