105.エルステの谷③
「こんな可愛い子達が訪ねてきてくれるなんてねぇ」
お婆さんはにこにこと笑いながら、お茶を淹れてくれた。レモングラスとローズマリーのお茶だ。わたしは勧められるままに蜂蜜を垂らしてから頂く事にした。
「美味しい。ローズマリーがアクセントになっているんですね」
「お口に合って良かったわ。良かったらクッキーも召し上がって」
ポプリや、動物の小物が沢山飾られている家だった。
賑やかなのに乱雑ではなく、何となく落ち着く雰囲気。穏やかなお婆さんの人柄がそのまま表れているようだった。
「お婆さんは聖剣の伝承に詳しいと、広場にいた方に聞いたのですが……」
「ふふ、おばばでいいわ。皆からそう呼ばれているのよ」
「ではおばば様と呼ばせてください」
アルトさんはそこで一度言葉を切ると、自分の胸に手を当てた。
「僕はディーン。彼女はラウラです」
わたしは軽く頭を下げた。おばば様はにこにこと、その相貌を笑み崩しては頷いている。
「ディーン君と、ラウラちゃんね。それで……伝承についてだったわね」
「はい。あれは誰から伝えられた言葉なのでしょう」
「あれはね、この場所に初めて町を作ったシャーテ様のお言葉なの」
シャーテ様。
それはエルステの祖となった青年の事だろうか。
ライナーさんの言葉が蘇る。『エルステの祖となった青年は、神に等しい力を持っていたとか』
「シャーテ様はエルステの祖となった方ですか?」
「ええ、そうよ。ここに町を作って、移り住んだ女性と子を成した方。わたし達はシャーテ様の血を引いているの」
エルステの民はシャーテという青年の血を引いている。
その青年が神に等しい力を持っていたら、この谷の人たちは神の血を継いでいる事になる。でもわたしが勇者に感じた違和感は、もっとはっきりとした混じりものの気配。
「シャーテ様の宿願とは、何なんでしょう」
「それははっきりと伝えられていないの。でも私が昔、私の祖母に聞いた話だと……シャーテ様は虐げられてこの谷に来たのですって。シャーテ様はこの谷に町を作り根を下ろした。そして自分のように虐げられる事のないように、この町に暮らす全ての者が幸せであるようにと尽力なさったそうよ」
どこか誇らしげなおばば様に、わたしとアルトさんは頷いて見せる。それだけを聞くとシャーテ様というのは人格者だ。
だけど何から虐げられたと言うのだろう。そしてシャーテ様が残した伝承。勇者が達成する宿願とは一体……。
思考の渦に囚われそうになるのを堪え、わたしはカップを口にする。鼻を抜けるローズマリーの香りが心地いい。
「シャーテ様は素晴らしいお方ですね。この谷の方々が明るくて幸せそうなのを、きっとご覧になっていることでしょう」
アルトさんが心から感嘆したように、言葉を紡ぐ。
「これは私が思っている事なんだけれどね……シャーテ様は『聖剣が輝く時、混沌が世界を飲み尽くす』と残しているでしょう? そして勇者が宿願を達成するとも残している。だからシャーテ様の宿願って、混沌――すなわち魔族を滅ぼす事なんじゃないかしら。もしかしたら、虐げられたのは魔族になのかもしれない、なんてね」
気の良さそうに見えて、おばば様はやっぱりエルステの民だ。
世界を飲み尽くす混沌とは主神ケイオスであり、彼を信仰する魔族だと思っている。魔族の事を口にする時、おばば様の瞳に一瞬翳りが差したのをわたしは見逃せなかった。
「なるほど……。おばば様はお詳しいんですね。そういえばシャーテ様はどんなお姿だったんでしょう」
アルトさんが何度も頷きながら、おばば様を持ち上げる。その口上が余りにも勇者を崇めているようだから、わたしまで騙されてしまいそうだ。
「黒い髪に赤い瞳をした、とても美しい男性だったそうよ。そうそう、あなた達には特別に教えてあげるけれど……シャーテ様はね、神様だったのよ」
「……神、さま……?」
悪戯な光を瞳に宿したおばばさまが、内緒だとばかりに口許に人差し指をあてる。その口調に冗談の色はない。
わたしは目を丸くしていたと思う。思わずおばば様の言葉を繰り返すと、彼女はわたしが驚いた事に満足したのか大きく頷いた。
「そう、神様。もう神話にも名前のない、人々を守る為に地に降り立った神様。だからきっと混沌神に目の敵にされて、魔族に虐げられたのね」
「神様ですか……それは興味深い。しかし人々の為にこの町を作ったシャーテ様の偉業を聞けば、それも信じられますね。……そうだ、聖剣とは元々シャーテ様の物なのですか?」
アルトさんが自分の顎を指で撫でながら、感心したように吐息を漏らす。わたしは情報を聞き出すことはアルトさんに任せて、隣でにこにこしている事にした。きっと勇者の熱心なファンには見えるだろう。
「ええ、そうよ。きっとシャーテ様は、自分の死後に魔族が台頭してくる事を分かってらしたのね。それで聖剣を希望として残って下さったのよ」
穏和そうだと、素敵なおばあ様だと思ったのは、ついさっきの事なのに。
もうその体にも心にも刷り込まれているだろう魔族への敵意が、正直不気味だった。そう思うと穏やかそうなその瞳が、狂気にギラついているようで、わたしはもうおばば様の顔を真っ直ぐに見ることができなくなってしまったのだ。