9.護衛との初めての転移
宛がわれた部屋は客間だという。
ダブルベッドに、書き物机と椅子一式。小さいながらも本棚があるが、それはまだ空っぽだ。クローゼットもそれなりに大きくて、ドレッサーが用意されているから、ここは女性用なのかもしれない。
トイレはあるが浴室は共同だという。うん、それは全然構いませんよ。なんせ、ここは温泉が湧き出ているという話だもの……!
レースのカーテンと、厚手のカーテン。全体的に色が薄緑で統一されているのは、母神エールデを意識してるのかもしれない。
「そういえばクレアさんのおうちって、どこにあるんですか? ご両親に神殿に居る事をお伝えしたほうがいいですよね」
レオナさんが窓を開けて、空気の入れ替えをしてくれる。
あとで家に帰って、服や化粧品、こまごまとしたものを持ってこないと。
「両親はいま、留守にしていて。暫く帰ってこないから、気にしなくて大丈夫です。家は山の上にあるんですが……ちょっと物を取ってこなくちゃいけないですねぇ。……ぱっと行ってぱっと帰ってくるだけですが、やっぱりアルトさんと行った方がいいんでしょうか」
転移で一瞬。必要な荷物を纏めて、また転移で一瞬。
それだけだから、正直、アルトさんを連れていかなくてもいいと思うのだ。あんな山の上に勇者だって用事は無いだろう……というより、あんな山に登れる人はいないのだから。
「アルト様と行って下さいね」
レオナさんはにっこり笑っている。これはわたしが否と言っても、押し切られるやつだ。というよりアルトさんは何者なんだろうか。神官には見えないのだが、彼からも聖浄な気配がする。
考えを纏める暇も無く、掃除をするからと部屋を追い出されたわたしは、外で待っていたライナーさんに引っ張られてアルトさんの元へ連れて行かれた。ほんっとにこの兄妹は押しが強いし、コンビネーション抜群だな!
転移した先は、誰も近付けない、空に最も近い山。
初めての転移で唖然としているアルトさんの手を離すと、さっさと家の中へと入った。我に返ったアルトさんも後をついてくる。そういえばこの家に人が訪れるなんて、久し振りだ。まぁお客さんではないし、荷物を纏めたらすぐに行くけれど。
「いい家だな」
灯りのついた室内を見回し、アルトさんが呟く。それを聞いて私は得意げに胸を張った。そうでしょうとも。
「父のお手製なんです。手先の器用な人でねぇ、家だけじゃなくて家具も作る人でした。料理も上手で、家事一切は父がやっていたんですよ。……掛けて待っていて下さい」
リビングのソファーを勧めると、アルトさんは大人しく腰を下ろす。
キッチンに向かい、魔法を使ってお湯を沸かすとコーヒーを淹れる事にした。そう時間は掛からないけれど、待っている間は暇だろうと思う。
「あそこの本を少し見せて貰っても構わないか」
リビングの本棚を指差すアルトさんに頷いて答える。本棚には父と母の愛書が並んでいる。天使文字と悪魔文字で綴られている物の他、共通言語で書かれた本もある。様々なジャンルがあるとは思うが、興味を引くものはあるだろうか。
「どうぞ。少し待っていてください」
「ああ、ゆっくりで構わない」
コーヒーの香が強く漂う。カップをテーブルの上に置くと、本を選んだアルトさんがソファーに戻ってくるところだった。手には建築の本を持っている。父の蔵書だ。
退屈しのぎは出来るだろう。そう判断してわたしは、二階にある自室に向かった。
外出着に部屋着、下着も数着。靴も何足か纏めて、あとはバッグと化粧品と僅かばかりの装飾品と……。思いつくままにぽいぽいと空間収納に放り込んでいく。
お気に入りのウサギのぬいぐるみ、積み本になっていた小説達、家族の小さな肖像画。まぁ足りないものがあればいつでも戻ればいい。そんなに長居もしないだろうし。
自室を出たわたしは、今度は階段を地下へと降りていく。母の作業部屋が目的地。
部屋の中の作業机は散らかったまま。物を動かすと怒られるから、わたしは今も片付けることが出来ないでいる。
棚に詰め込まれた、回復薬が入ったガラス瓶。それを何本かまとめて空間収納へ。作り足さなきゃいけないだろうから、母のレシピも一緒に入れる。
母は優秀な薬師だった。優秀すぎて人間には効きすぎるから、神族や精霊族、魔族に向けて販売する事が多かったけれど。
この部屋には母との思い出が多すぎる。
それを言うならこの家自体、家族の幸せな思い出に溢れているのだ。エールデ様を始めとした神族が遊びに来て賑やかだった記憶、酔っ払った魔族が家を半壊にして父が激怒した記憶、妖精族の女の子達と花摘みをして遊んだ記憶……。
だめだ、心が囚われる。わたしは首を横に振ると急ぎ足でリビングへと戻った。
戻ると、アルトさんはソファーで本を読んでいた。足を組み、時折カップに手を伸ばす。うん、この人も整った顔をしている。口元を隠すようなマントだったり、眉辺りで留められたヘアバンドで中々表情が伺えないが、綺麗な人だと思った。
「終わったのか」
「はい。本はお気に召しましたか?」
「ああ、珍しい建築様式だ。見ていて飽きない」
「宜しかったらお貸ししますよ」
「……いいのか?」
嬉しそうに表情が綻んだ。この人が笑ったのを初めて見た。とりあえず隣に座って、彼が選んだ本のタイトルを確認する。父が読むことは暫く無いし、彼はきっと本を大事にする人だ。
わたしが頷くと、笑みは更に深まるばかり。とっつきにくいかと思っていたのに、この人も気のいい兄さんポジションか。
ヘアバンドの下から覗く前髪が目に掛かって鬱陶しそうなので、指先でよけてやると不思議な色の瞳と視線がかちあった。
「……不思議な色をしてますねぇ。朝焼けのような東雲色です」
「東雲?」
「あなたの瞳のような、朝焼けの中の黄赤色のことですよ。とっても綺麗です」
「……そうか。もういいのか? 荷物は?」
「空間収納にぽいっと、で終わりです」
「本当に便利だな、その能力」
「何を入れたか忘れちゃう時もあるんですけどねぇ」
アルトさんが立ち上がったので、コーヒーカップをささっと片付けてしまう。その間に彼は本を丁寧に纏めて小脇に抱えた。
二人揃って家から出て、しっかりと施錠。こんなところに来る人はいないだろうが、来たとしたら余程の力を持つ存在。備えはしておかなければ。
手を翳すと、掌から溢れた魔力が魔石となった。その数は……七個、うん、いいところでしょう。それを天にぽいと投げると自分の意思を持つかのように、散らばって家を囲んだ。魔石から生まれた膜が結界となって家を包み込んでいく。
「見事だな」
「これも空間能力のひとつですよ。それ以外の魔法は本当にぽんこつなんですけどねぇ」
褒められると気恥ずかしい。人と触れ合うのは久し振りなのだ。
わたしはアルトさんの手を取ると、エールデ教の大神殿を思い浮かべる。来た時と同じように一瞬で、景色が一転した。
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