理想の相撲、理想の力士 どういう状況の相撲界が最もドラマチックか
2015年に書いた文章です。
理想の相撲、理想の力士。どういう状況の相撲界が理想的でドラマチックか。
そして今、私は、その理想についてどう考えるかについても記しております。
理想の相撲、理想の力士。そして現実の相撲
相撲における諸相のその各々の理想を考えてみる。
取り口については、その理想は三つ。
圧倒的な力により相手を寄せ付けない超常の相撲。
相手のどんな攻撃も悠然と柔らかく受け止め、自然に勝利する円の相撲。
立ち合いから最短距離で押し出す直線の相撲。
土俵上の所作については、体を叩いたり気合を入れたりの無駄な動きは無く、研ぎ澄まされていながらも悠然かつ優雅な仕切りが理想。
人としては、謙抑、静穏な性格。中庸をわきまえた高潔な人柄で、おのずから最高度の品格が備わる、というところか。
ではどういう状況の相撲界が理想か。
力士の理想像を体現し、強さの極みに達した第一人者が屹立。
それに挑む若き天才力士とその同世代のライバルたち。
彼らは、その力士姿も美しく、詩情に満ちた流麗な四股名をもつ。
そして彼らの対戦には、ドラマチックな様々な背景が存在する。
色々と書いてみたが、我ながら類型的で平板だなと思う。
理想というのは、ある種の退屈さを伴う。自足していて、気持ちがそこから広がっていかない。
出来過ぎたドラマというのも、いささか鬱陶しい。
大切なのは現実。
ドラマチックなものより日常的なものが気持ちにしっくりする。
作られたようなドラマを見せられるよりも、日常的なもののなかにドラマを見出していくほうが楽しい。
例えば白鵬。
その強さはあるいはひとつの理想の域に達しているかもしれない。
が、その取り口、土俵の所作、言動に批判は尽きない。
肘打ちに関する批判等には私も意を同じくする。
あれだけの実績を残しながら、色々と批判を受けてしまう第一人者。
だが、無責任な第三者としては、それもまた楽しい。
土俵入りで手を広げる際に、ぐっと力を入れる一拍の動き。
最後の仕切りで小走りになるところなど、あまり大力士らしくないな、という感想を持ってしまうが、それもまた白鵬の個性と、何やら好ましく思ってしまう。
世界は、そして相撲は、現実を受容するだけで充分に豊かだ。あるべき相撲より、今ここにある相撲を大切にしたい。
このサイトに投稿しております相撲小説「金の玉・(四神会する場所)」のシリーズは、理想の力士、理想の相撲界を描くという構想で書きはじめた小説です。
でもそれでは話が動かなかったので、違う要素を取り入れて物語を進めました。