九、青い風
よせばいいのに、私は空を仰いだ。
明かり取り用の小さな窓に切り取られたわずかな空が、そこにはある。青がどこまでも高く、鳥が一羽、大きく滑らかなラインを引いていた。
寮の片隅にあるこの倉庫では、それはありふれた日常の風景だった。
黒い翼を眺めていると幼い日の記憶がよみがえってくる。火傷は今もじっくりと熱く刻まれていたけれど、なぜか自転車のベルはもう遠く聞こえた。
少しずつ、こうやって記憶が薄らいでいく。久しぶりの感覚だった。代わりに今は、あのついばまれた屍がとても近しく感じられた。
やがて記憶は、夜空の下の黒い瞳へと重なった。夜の透き通った気配は私を包みこんで、徐々に緩やかに溶けていく。
心臓の音が心持ち緩やかになった。
「母さん」と、私はどこかに呼びかけた。
私には彼女が今空にいるのか、水底にいるのか、見当がつかなかった。もはやどっちにいて欲しいのかもわからなかった。あの人が残したのは私がこの学校にいるための楔だけで、あの笑顔も、夕焼けの自転車も、何もかも遠い昔のことだった。
そう。私には、わからない。
母だけじゃない。誰のこともよくわからなかったように思う。
なぜだろう。いつだって答えは出ない。「何かを大切にする」みんなの真似ばかりしていた。そうやって、だましだまし、自分も何かを大切にしている気になっていた。
あの夜の後、あの子が私を見据えて言った。
「あんたなんか仲間じゃない」と。
どこかで噂を聞きつけたのだろう。あの子には大切なものがあって、それがあの人なのか、私たちの間での約束事なのかはわからないけど、それを踏みにじられたから、あんな風に怒っていた。
そんなに大切ならば、どうしていつもあんなに離れたところにいたのだろう。
大切にすること。その本質が理解できていないから、私の下手な真似ごとはいつもどこかずれているのだ。私はとても生きにくい。
大切にすること。それは愛情であり、執着でもあるのだと思う。複雑で、ただ傍にいればいいというものではない。離れてはならないし、かといって、なくしてはいけない。
…………わからない。
私は何を捨ててもいいと思っている。
むしろ、周りのものは全て、何もかも、ない方がいいと思う。常にクリアでいたかったし、それが何にしても、大切にしなければならない理由が見つからなかった。
どうしてみんなは、無条件に自分が大切だと思うのだろう? このボロ切れみたいに弱い身体の、意味のない、価値など、どこに見出しているというのだろう?
あの子があんまりうるさいから、私はあの時、私を捨てることにした。
あの子を捨てるより早いと思ったから。だけどナイフは取り上げられて、そして私はこの部屋に閉じ込められた。
最後に教師が何か言っていた気もするが、私には聞こえなかった。どうしてわからないのか、とか、そんな拙いことだろう、きっと。
部屋は木と黴の匂いが入り混じって、隅には薄ぼんやりとした影が静かに溜まっている。
私はただぼうっと存在していた。呼吸をしている以外は、その辺の箱と変わりがない。生きているのも、そうでないのも、あまり変わらないような気がした。
空が目に眩しい。
私は窓を眺めつつ、そっと頭上に掌をかざした。天井の窓には遠く届かなかった。
だけどもしあの窓に触れられたなら、たぶん、冷たくて気持ちが良いことだろう。
あの瞳に触れるみたいに。
私が彼に魅かれたのは、あの瞳のせいだった。今となってはもう、それは疑いようもないことだった。
あの奥には、何かを終わらせてくれるような、鋭いものが潜んでいたから。どんなに優しい言葉や笑顔で繕っても、隠しきれない狂暴な感情の塊が彼の中には渦巻いている。私はその仄暗い灯に魅かれて、知りつつ、炎に手を伸ばした。
あの夜以来、彼は店に来ていない。
それは多分私への優しさなのだろう。そっと遠くでいてくれる、さりげない距離。私はこの距離が、何よりの愛情だと信じている。
強い風が吹いて、古い窓の木枠が大袈裟な音を立ててガタついた。少し肌寒いと思ったが、身を縮めるより他はなかった。
この風はきっと遠くまで雲を飛ばして、大気を氷のように研ぎ澄ましていく。そしてまた、街に冬を連れてくるだろう。
綺麗だな、と私は呟いた。
弱々しい日差しが冷たい床を照らして、ローファーのつま先を微かに温める。陰った踵には黒く乾いた血糊が今日もこびりついていた。
夕暮れの予感が空に染みていく。
私は窓の向こうを仰ぎながら、もう一度だけあの人に会いたいと願った。
それは愛情でも執着でもなく、自然な青い風の流れだった。