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夜と春  作者: Cessna
9/12

九、青い風

 よせばいいのに、私は空を仰いだ。

 明かり取り用の小さな窓に切り取られたわずかな空が、そこにはある。青がどこまでも高く、鳥が一羽、大きく滑らかなラインを引いていた。

 寮の片隅にあるこの倉庫では、それはありふれた日常の風景だった。

 黒い翼を眺めていると幼い日の記憶がよみがえってくる。火傷は今もじっくりと熱く刻まれていたけれど、なぜか自転車のベルはもう遠く聞こえた。

 少しずつ、こうやって記憶が薄らいでいく。久しぶりの感覚だった。代わりに今は、あのついばまれた屍がとても近しく感じられた。

 やがて記憶は、夜空の下の黒い瞳へと重なった。夜の透き通った気配は私を包みこんで、徐々に緩やかに溶けていく。

 心臓の音が心持ち緩やかになった。

「母さん」と、私はどこかに呼びかけた。

 私には彼女が今空にいるのか、水底にいるのか、見当がつかなかった。もはやどっちにいて欲しいのかもわからなかった。あの人が残したのは私がこの学校にいるための楔だけで、あの笑顔も、夕焼けの自転車も、何もかも遠い昔のことだった。

 そう。私には、わからない。

 母だけじゃない。誰のこともよくわからなかったように思う。

 なぜだろう。いつだって答えは出ない。「何かを大切にする」みんなの真似ばかりしていた。そうやって、だましだまし、自分も何かを大切にしている気になっていた。

 あの夜の後、あの子が私を見据えて言った。

「あんたなんか仲間じゃない」と。

 どこかで噂を聞きつけたのだろう。あの子には大切なものがあって、それがあの人なのか、私たちの間での約束事なのかはわからないけど、それを踏みにじられたから、あんな風に怒っていた。

 そんなに大切ならば、どうしていつもあんなに離れたところにいたのだろう。

 大切にすること。その本質が理解できていないから、私の下手な真似ごとはいつもどこかずれているのだ。私はとても生きにくい。

 大切にすること。それは愛情であり、執着でもあるのだと思う。複雑で、ただ傍にいればいいというものではない。離れてはならないし、かといって、なくしてはいけない。

 …………わからない。

 私は何を捨ててもいいと思っている。

 むしろ、周りのものは全て、何もかも、ない方がいいと思う。常にクリアでいたかったし、それが何にしても、大切にしなければならない理由が見つからなかった。

 どうしてみんなは、無条件に自分が大切だと思うのだろう? このボロ切れみたいに弱い身体の、意味のない、価値など、どこに見出しているというのだろう?

 あの子があんまりうるさいから、私はあの時、私を捨てることにした。

 あの子を捨てるより早いと思ったから。だけどナイフは取り上げられて、そして私はこの部屋に閉じ込められた。

 最後に教師が何か言っていた気もするが、私には聞こえなかった。どうしてわからないのか、とか、そんな拙いことだろう、きっと。

 部屋は木と黴の匂いが入り混じって、隅には薄ぼんやりとした影が静かに溜まっている。

 私はただぼうっと存在していた。呼吸をしている以外は、その辺の箱と変わりがない。生きているのも、そうでないのも、あまり変わらないような気がした。

 空が目に眩しい。

 私は窓を眺めつつ、そっと頭上に掌をかざした。天井の窓には遠く届かなかった。

 だけどもしあの窓に触れられたなら、たぶん、冷たくて気持ちが良いことだろう。

 あの瞳に触れるみたいに。

 私が彼に魅かれたのは、あの瞳のせいだった。今となってはもう、それは疑いようもないことだった。

 あの奥には、何かを終わらせてくれるような、鋭いものが潜んでいたから。どんなに優しい言葉や笑顔で繕っても、隠しきれない狂暴な感情の塊が彼の中には渦巻いている。私はその仄暗い灯に魅かれて、知りつつ、炎に手を伸ばした。

 あの夜以来、彼は店に来ていない。

 それは多分私への優しさなのだろう。そっと遠くでいてくれる、さりげない距離。私はこの距離が、何よりの愛情だと信じている。

 強い風が吹いて、古い窓の木枠が大袈裟な音を立ててガタついた。少し肌寒いと思ったが、身を縮めるより他はなかった。

 この風はきっと遠くまで雲を飛ばして、大気を氷のように研ぎ澄ましていく。そしてまた、街に冬を連れてくるだろう。

 綺麗だな、と私は呟いた。

 弱々しい日差しが冷たい床を照らして、ローファーのつま先を微かに温める。陰った踵には黒く乾いた血糊が今日もこびりついていた。

 夕暮れの予感が空に染みていく。

 私は窓の向こうを仰ぎながら、もう一度だけあの人に会いたいと願った。

 それは愛情でも執着でもなく、自然な青い風の流れだった。

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