八、水面にたゆたう
空では無秩序に散らばった星だけが、嘲笑うでもなく、ひっそりと慎ましやかに瞬いていた。
煙草の火が揺れている。吐き出すと、白い煙がふわりと部屋の中に広がった。
静かな夜だった。いつものように粗末な夕食を食べて過ごした。部屋は変わらず古かったし、重たい家具たちも、沈んだ流木のように動かなかった。変わっていることと言えば、女がいることだけだった。
透明でも何でもなく、ただ現実だけがここにある。
自分の中に存在している女の姿は、ひどく生々しいものへと変化していった。
透き通るような指先は、温もりを宿した人の肌に。
幾何学的なほどに整った容姿は、血の通った生ある物の四肢に。
透明な視線は、そのまま、不思議と質量を持った、孤独な柔らかさを宿していた。
よくいる奴に過ぎなかったとは思わない。話す言葉は抽象的かつ自分勝手で、心の冷たさが透けて見えた。ただそれは利己的や独善的といった類のものではなく、どちらかと言えば、どうしても自分の中に他人が住めない、そういう生まれ持っての性であるかのように思われた。
正直な奴だった。透明な嘘ばかりついているのだと、俺には思えた。
似ているな、と思う。
きっと、俺たちはお互いの中に自分の姿を見ていたのだろう。人が鏡をのぞくように、歪な、こうありたいという願いを込めて。
俺はこいつに何を求めていたのだろう。
辿り着く結論は、結局は、単純な憧れだと感じる。
煙草の先の、赤い灯。
水底に届く、一筋の光。
冷たい、グラスの透明。
ささやかで、しかし触れ得ないもの。
俺はそういうものに魅かれていて、だから、こういう形で女と重なり、それに触れようとしたのだ。
…………なぜ魅かれていたのか? それは、暗い窓ガラスに映った己の姿が教えてくれた。
満足したか、と俺は幽鬼に尋ねる。
幽鬼の瞳は未だ耽々として、やがてゆっくりと首を振った。
しんと夜が響く中、微かな寝息が俺の耳をくすぐる。
触れることで壊れるのではないかという心配は、今から思えば見当はずれなものだった。
元から存在しないモノに、壊れるも何もない。それは水面に映った月を掬うようなもので、所詮何も変わりはしなかった。
手に残る冷たさも、薄く伝わる波紋も、やがて虚ろに消えいくことだろう。あたかもそこには初めから何もなかったかのように。
俺はゆっくりと煙草を吸ってから、そっと傍らの女に呼びかけた。
華奢な肩が動いて、少し濡れた瞳がこちらを見つめてくる。
帰ろう、と俺は告げた。
女は毛布ごと身体を起こして、少し唇を噛んで頷いた。細い髪は肩のあたりで揺れて、ふと見た時、その顔には澄んだ微笑みが浮かんでいた。
三日月の形の唇が緩んで、溜息のような声で俺の名を呼ぶ。
俺は答えず、代わりに笑って見せた。
夜の深い頃、荒れた桜並木の下を俺たちは歩いて行き過ぎた。
朔の夜空に無数の星が瞬いている。見下ろす暗い谷間には、頼りない街の明かりがぽつぽつと灯っていた。
暗い坂道を下って行く。
「また会えるかな」と女は呟いた。
俺はまた、何も口にすることができなかった。