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夜と春  作者: Cessna
8/12

八、水面にたゆたう

 空では無秩序に散らばった星だけが、嘲笑うでもなく、ひっそりと慎ましやかに瞬いていた。

 煙草の火が揺れている。吐き出すと、白い煙がふわりと部屋の中に広がった。

 静かな夜だった。いつものように粗末な夕食を食べて過ごした。部屋は変わらず古かったし、重たい家具たちも、沈んだ流木のように動かなかった。変わっていることと言えば、女がいることだけだった。

 透明でも何でもなく、ただ現実だけがここにある。

 自分の中に存在している女の姿は、ひどく生々しいものへと変化していった。

 透き通るような指先は、温もりを宿した人の肌に。

 幾何学的なほどに整った容姿は、血の通った生ある物の四肢に。

 透明な視線は、そのまま、不思議と質量を持った、孤独な柔らかさを宿していた。

 よくいる奴に過ぎなかったとは思わない。話す言葉は抽象的かつ自分勝手で、心の冷たさが透けて見えた。ただそれは利己的や独善的といった類のものではなく、どちらかと言えば、どうしても自分の中に他人が住めない、そういう生まれ持っての性であるかのように思われた。

 正直な奴だった。透明な嘘ばかりついているのだと、俺には思えた。

 似ているな、と思う。

 きっと、俺たちはお互いの中に自分の姿を見ていたのだろう。人が鏡をのぞくように、歪な、こうありたいという願いを込めて。

 俺はこいつに何を求めていたのだろう。

 辿り着く結論は、結局は、単純な憧れだと感じる。

 煙草の先の、赤い灯。

 水底に届く、一筋の光。

 冷たい、グラスの透明。

 ささやかで、しかし触れ得ないもの。

 俺はそういうものに魅かれていて、だから、こういう形で女と重なり、それに触れようとしたのだ。

 …………なぜ魅かれていたのか? それは、暗い窓ガラスに映った己の姿が教えてくれた。

 満足したか、と俺は幽鬼に尋ねる。

 幽鬼の瞳は未だ耽々として、やがてゆっくりと首を振った。

 しんと夜が響く中、微かな寝息が俺の耳をくすぐる。

 触れることで壊れるのではないかという心配は、今から思えば見当はずれなものだった。

 元から存在しないモノに、壊れるも何もない。それは水面に映った月を掬うようなもので、所詮何も変わりはしなかった。

 手に残る冷たさも、薄く伝わる波紋も、やがて虚ろに消えいくことだろう。あたかもそこには初めから何もなかったかのように。

 俺はゆっくりと煙草を吸ってから、そっと傍らの女に呼びかけた。

 華奢な肩が動いて、少し濡れた瞳がこちらを見つめてくる。

 帰ろう、と俺は告げた。

 女は毛布ごと身体を起こして、少し唇を噛んで頷いた。細い髪は肩のあたりで揺れて、ふと見た時、その顔には澄んだ微笑みが浮かんでいた。

 三日月の形の唇が緩んで、溜息のような声で俺の名を呼ぶ。

 俺は答えず、代わりに笑って見せた。

 夜の深い頃、荒れた桜並木の下を俺たちは歩いて行き過ぎた。

 朔の夜空に無数の星が瞬いている。見下ろす暗い谷間には、頼りない街の明かりがぽつぽつと灯っていた。

 暗い坂道を下って行く。

「また会えるかな」と女は呟いた。

 俺はまた、何も口にすることができなかった。

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