七、蜜
靴ずれのするローファーのせいだろう。ストッキングに血が滲んでいる。見ながら私は金属の味を思った。
ふくらはぎの青い血管と踵に掠れた血の跡は、凍えて、うち捨てられた死体とそっくりだ。違いと言えば、私の足がまだ温かいことだけだった。
路傍に転がるネズミの轢死体を眺めて、つくづくそう思った。いつか私もああなる瞬間、遠のく加速度に身をゆだねて目を閉じたい、とも。
あの男が現れたのは、そんな私の悪趣味がグラスの淵からぷつりと溢れだす、その寸前のことだった。
私は思わず目を疑った。考えてみれば当然なことではあるのだが、彼もまた、私と同じように、この街で生きているということが信じられなかったのだ。
男は着古されたシャツを着て、こちらを見下ろしていた。少し崩れた襟元から漂う生活感がなぜかやけに目に付いた。
見上げる私は公園のベンチで、制服のままだった。
店とは違う、あの子と同じ、もうひとつの制服。
秋の風が吹いていた。カサカサと足元の枯れた葉を散らして、私と彼の間を上手にすり抜けていく。上空には途方もない青空がぶちまけられていた。
鼓動が速い。
私は食べたくもないランチをいじる手を止めて、彼を見つめた。油まみれで死に絶えたチキンが行き場を失い、無造作に転がった。
くしゃり、と音を立てて、男の足が落ち葉を踏んだ。
会いたかった、という内容の言葉を、彼は伝えてくれた。
もっと当たり障りのない挨拶があるはずなのに。男の雰囲気に飲まれてか、どういうわけか私にはそれができなかった。心も身体も、何もかもがぎこちなかった。
私はこの姿を誰にも話さないで欲しいと思ったので、そう告げた。
男は少し眉間に皺を寄せ、口元を奇妙な形で釣り上げた。やがて小声で気にするなと言い、珍しいことではないと言った。
冷たく貧しい風が、山から吹き下ろす。
私は自分の似合わない制服に、ふと吐き気を催した。いつもの黒いモノがお腹の中で蠢いて、何だかとてもいたたまれなくなったのだ。
子供ぶっていることがひどく不自然だった。母の屍を食べて立つ、制服の私が嫌いだった。私にとって、この服は矛盾と理不尽の、薄っぺらな象徴だった。こんなくだらない自分は、誰にも、特に彼には、絶対に見られたくなかった。
低い声がかかる。
それは、私を気遣う言葉だった。その言葉が実際に意味するところを察して、私の中にやるせない寂しさが広がっていく。
それはとても悲しいことで、身体が一気に重たくなって、濁った世界の内にかき消されてしまいそうになった。
だが彼の目を見て、私は直ぐに気が付いた。
湖の上には波があった。
深い静寂を一点にたたえた彼の瞳を見て、彼はきっと、見えない私を知っているのだと理解した。
男は吸っていた煙草を放り投げると、何も言わずに背を向けた。
私は浮かれていたのかもしれない。だが一方で、不思議なほど落ち着いてもいた。今言わなければ、永遠に離れていってしまうと感じた。
やっと振り絞って出した声は、自分でも驚くほど微かなものだった。
振り向いた男はわずかに目を見開き、しばらく私を見つめていた。そして、やがて恐ろしく沈んだ声で囁いた。
私は思わず言葉を詰まらせ、その場で俯いた。
男の気配が、離れていく。
風が、秋を連れて去っていく。
私は食べかけの弁当を急いで鞄の中に押し込んだ。立ちあがって、スカートの裾に埃がついているのも構わない。気がついた時には、息を弾ませて、男の腕を掴んでいた。
彼がゆっくりと振り向く。
大きな手だった。
私は男の顔を覗き見た。
声は出ない。こうしているうちに、震えているのが伝わってしまうのが恥ずかしかった。
男は一瞬だけためらいの色を見せたが、ややあって、少しだけ微笑んだ。
…………風が流れる。
冷たくて、青い色をしていた。
遅咲きのコスモスが足元の花壇に咲いている。
ひっそりとして、大人しい色に染まっている。
宿るのはきっと、ほんのわずかな甘い蜜。
廃墟みたいな学校の寮を、私は幽かに思い出していた。
あの子が見ている。睨んでいる。
見ているのは湖面の月?
違う、水底の月。