六、冷たいところ
夢がとろける。
女が駆けていく。
俺は手を伸ばそうとして、そこには何もないことに気が付いた。
消えたのではない。最初から何もなかったのだ。
俺は叫んだかもしれない。
だが、そもそも、言葉なんてものはここになかったかもしれない。
上を見上げると、差し込む月明かりが水面のさざ波に青白く揺れていた。
身体を包む冷温。
細かな泡がいくつか、音もなく昇っていく。
静謐に降り注ぐ、一筋の光。
ここには何もない。
ただ透明だけが、広がっている。
どうしようもない喪失感だけが、水底の砂に朽ちていく…………。
俺は夜明け前の暗い自室の中で、泥のように重たい瞼を持ち上げた。
風がせわしく窓を叩いている。俺は固いベッドに横たわったまま、枕元の煙草を引き寄せた。
気だるい半身を起して、しばらくブラインドから差し込む月明りを眺めた。宿舎の外には古い桜の木があり、空っぽの枝が寒々しく夜風にさらされていた。
なぜか底知れない孤独が心の内に残っている。
煙草に火を点けながら、夢を見たのだ、と思い返した。
女の白い指先がつたう、身体の存在。それが俺自身の身体なのかどうか、深い水底を漂う意識の中では定かでなかった。
やがて女はつと離れると、口元を三日月型に歪ませてくらりとよろけた。
俺は慌てて手を伸ばした。だがその甲斐もなく、細い指先は離れていく。
それは、あいつのハイヒールのせいだった。
女は倒れなかった。折れそうなその靴はそのまま、崩れるような歩みで駆けだした。
…………気付く頃には、いない。
広がる意識の波に掻き消されて、夢の追憶は途切れた。後には白く濁った、煙草の甘い香ばかりが残されていた。
俺はもう寝つける気がしなかったので、台所まで歩いて湯を沸かした。煙のせいで喉が渇いたし、夢の冷えた感触のせいか、とにかく熱いものが飲みたかった。
暗い部屋の隅には、物言わぬ家具が佇んでいる。
俺は湯が沸くまでの間それらを見渡して、最後に、壁にかかった時計に目をやった。傾いた針は割れたガラスの向こうで四時を指していた。
わざとらしい苦みの溶けたコーヒーは味がせず、それでも、飲むといくらか気分が落ち着いた。
黒い液体は何も映さずにただ黙ってカップの中でたゆたっている。俺はもう少しだけ口を付けた後、窓のブラインドを持ち上げた。
広がっていたのは一面、重い藍色の空だった。
茶色い鳥が二羽ばかり飛び去るその下、遠くの国道を一台の軽トラックが走り去っていく。
山裾に広がる道路沿いに、街が見えた。
街では何もかもが谷間に沈み、しんみりと息づいていた。生活の貧しさがどの建物にも滲み込んで、陰気としか言いようがない。
湿った低地を埋めつくしている住宅は密集して、もはや巨大な小屋とも、虫塚ともつかなかった。女学校も近くにあるが、それすらもどこか物悲しい影を背負って墓標のごとく立ち尽くしている。
冷たい窓に触れて、俺はもうすぐこの土地に雪が降ることを思った。耳鳴りがするほど静まり返った外気が連想させる銀世界は、楽園とは程遠い。
大地から巻き上がる粉雪と、凍る土。芽。
…………ふいに、俺はあの給仕の女に会いたくなった。
それも眺めるだけではなく、あの肌に、髪に、この手で触れたいと思った。
それは良くない徴候に思えたが、厄介なことに、しばらくしてもその思いは離れることがなかった。
俺はまだ残り多い煙草を灰皿に押しつけ、ブラインドを下ろした。なぜか無性に気分が悪くて、吐き出しようのない悪寒が胸に淀んでいる。
薬の作用かもしれない。
沈む気分は、不味いコーヒーに溶かして飲みほした。