五、鴉
チリン、チリンと安っぽいベルが響く。
やたらと雑多なものばかり並んでいる商店街で、私はなぜかあの自転車の音ばかりを、やけにはっきりと覚えていた。
聞こえたらいいな、って、ずっと待ち望んでいたからだろう。
音が聞こえるなり私はすぐに振り返って、母の押して来る自転車に駆け寄ったものだった。思い出すといつも、母の懐かしい笑顔が春霞のように記憶の中へと広がっていく。
買い物袋の詰まった前かごと、私を乗っけるための後ろかご。前かごの袋からはよく野菜がはみ出していたので、私は何気なくそれらの名前を呼んだ。母は笑って、呆れることなく、いちいち頷いてくれた。あの人はそんな優しい人だった。
いまいち立てつけの悪い、後ろかごから見る景色は淡い色に包まれていた。
正面には丸い、小さな母の背中があった。どんな色のセーターを彼女が気に入って着ていたか、もう覚えていない。
脇を流れる川沿いの堤防はゆるいカーブを描いて、私達の走っている土手の上の道は、遠くまで続いていった。対岸の西向きの傾斜は茜色の陽を一杯に受けて、風が流れされた芝生が柔くおおらかに、ひとつ滑らかな波になって揺らいでいた。
川面はひっそりと夕空を映して、時々波立つ部分が冷たそうに白く瞬いた。山際は夕焼けに滲んで、赤く影を染めた浮雲が遠く、高く、空の向こうまでずっと細くなびいていく。
空の果ては薄紫色だった。大きな翼を広げた鳶がそちらへ向かって音もなく滑って行く。
私はその時ふと、足元に目を落とした。
草むらに真っ黒い影がひとつ、必死に何かをついばんでいるのが見えた。動くたび、小さな肩が小刻みに揺れている。
それは鴉だった。
小さな頭がふいにこちらに向けられる。
その嘴には、赤い、濡れた屍肉が垂れていた。
自転車が通り過ぎる刹那のことだったので、私はその屍の正体を知ることができなかった。あの烏はその後すぐに飛び去ってしまった。
燃え滾る夕陽を背負う小さな黒い影は、しかし、火傷となって、幼い私の目に焼きついた。
西日が強く差し込む寮の自室で、私はそんな光景を脳裏に浮かべていた。
それは昨日の残したスープに母の好きなトマトが入っていたせいかもしれないし、目の前の夕陽があんまりにも美しく、哀しげなせいかもしれない。
静けさが耳の奥で、ずっと音を立てて震えていた。
私は橙色に染まる窓辺に腰を下ろして、土埃で汚れたベランダに足を延ばした。窓のアルミサッシは冷たくて気持ち良く、見下ろす中庭に落ちる女子寮の影は、さながら灰色の海のようだった。
投げ出したつま先にあたる、自然な陽の暖かさにそっと目を瞑る。こうしていると、安らぎに似たものが心に染みて、少しだけ気持ちが楽になった。
…………じっとしていよう。
心地良いのは、きっと、やがて陽が沈むからだろう。そして、似ているというだけで、これが本物の安らぎではないからだろう。
静寂だけが身も心も満たしている。
少し、店のことを思った。
ヒールのことを言われた。歩きにくいから思い切って脱いでしまったところを、細かいところまで見ていたあの子が「似合うのだから履けばいいのに」と。
私は困ってしまって、またどうしようもなく笑ってみせた。いつだって見せてきた、あの曖昧な、我ながら気味の悪い笑顔で。
あの子はせっかくの親切をはぐらかされて、ひどく不快に思ったことだろう。触れないでください、と表情で伝えたつもりだが、陰湿過ぎただろうか。
本当は、私だって、笑いたくない。でも考えるより先に、感じるより先に、勝手に作られてしまう。
生きている、ただそれだけのことがつらかった。変に馴らされた、いや、自分で馴らした習性が、身体中の血を絞りながら、締め付けてくるのだ。
環境のせいにするのはたやすく、しかし、何の慰めにもならない。それは自分で痛いほどにわかっていた。
こんな痛みを感じているのは、きっとあの子だって同じだ。生きている人はみんな、同じように血まみれなのだ。
みんなそれぞれに抱えて、それでも黙って暮らしている。だからこそ時々、どうしても避けられない摩擦が起きるのだけど。
あの子はいつも、私と背比べをしたがったから。
放っておけばいいと思っていた。でも最近は、すんなり行動できないことが多くなってきていた。
理由はわかっている。私たちはどちらもよく自覚している。
…………そうしてまた、私たちはヒールを履いて背伸びを始める。
たとえ欲しいものが無かったとしても、欲しいものが手に入るべくもないものだったとしても、生きていくってことは、それしか道がないのかもしれない。踵を高くして、暖かなつま先をいじめて、逃げ続けるしかないのかもしれない。
…………ああ。
夕陽が、沈んでいく。
私は空を行く黒い点が陽の中に消えるのを眺めて、ささやかな思いを馳せた。
こんなに昔が恋しいのは、あの人が…………、あの人の真っ黒な瞳が、あの烏に似ているからだ、と。
窓際に掛けられた制服のシャツが風ではためいて、バタバタと音を立てていた。
私は、他人だけでなく、自分をも騙そうとして生きている。嘘のつき過ぎで、日々はもう血反吐で真っ黒になってしまった。母の代わりにあの店で働き始めた時から、もうすっかり全部を濁してしまった。
「今日は店に来るかな」
誰にともなく、私はこぼした。
時には正直になって、それで何か救われるような錯覚がしたのだろうか。
それは苦くて甘い、どうしようもない妄想だった。