四、透き通った空
ずいぶん昔の話だ。
あなたには人の心が分からない、と言ったのは、誰よりも人の心がわからない女だった。
俺は女の話が続く間中いっさい口を利かず、ただその首筋に刻まれた、微かな皺だけを眺めていた。
同じ話を繰り返す度に、身体の方がきちんと記録しておくのだろう。一筋々々の皺はまだ微かなものであったが、これから時を経るにつれて徐々に深くなることは想像に難くなかった。
あなたはもう子供じゃない、と女は何度も言った。
その頃の彼女はもうすっかり大人だった。昔のようには泣かなくなっていたし、笑わなくもなっていた。植物に似てきていた。植えられて真っ直ぐに生き延びる術を、俺などには遥かに及ばないほど上手く、美しく身に付けていた。
彼女の成熟につれて、俺は彼女から遠ざかっていった。
離れれば離れるほどに、俺には女の言うことがわからなくなっていった。理解できないと言うより、在り方自体がもう異なってしまったと感じた。
俺は話の最中に、女の後ろにぽかりと開いた窓を見た。
空は高く澄み渡り、晩秋の晴天はどこまでも青かった。
透明だ、と感じた。
理解しえないものは、あそこにはない。
女はなおも怒り続けていた。
どす黒い、段々と悪意に染まっていく言葉を聞き流しながら、俺は静かに、入口も出口も見つからないひどく陰惨な気分に陥っていた。
酒も、煙草も、喧嘩も、セックスも、この混沌を掻き消しはしなかった。
目の前の女が時々はっと怯えたような目をするのも、純粋にそれらの行為のためではないとわかっていた。さらに言えば、俺への憐憫の情ゆえでもない。彼女は、己の「外側」そのものを怖がるようになっていた。
聞いているの、と、そんな時、決まって女は問うた。自分でも本当は俺に向かって話しているわけでないと、知っていたろうに。
俺たちはなぜ「外側」を恐がるのだろう。
そもそも何から、逸脱するというのだろう。
彼女もきっと俺と同じように考えて、傷ついているに違いなかった。すまない。
俺はまた外を眺めた。ソファの端に頬杖をつくと、まだ火照ったままの傷が少しだけ痛んだ。
死に損なった後の喪失感は、それからいつまでも俺に纏わりついて、やがて鬼の形になった。
彼女の背後では深緑色の木々がざわめいていた。
青の中にひそむ夕暮れの気配が、校舎をひっそりと浸していく。
女は唐突に泣き崩れた。
どうして…………、と掠れた声で言ったきり、続く言葉はなかった。
俺には未だに、何と答えるべきだったのか分からない。