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夜と春  作者: Cessna
3/12

三、黒い瞳

 黒い瞳は、それでも深く透き通った気高さを宿していた。

 あの人の噂は絶えることがない。あの店で、彼について何も尋ねない子は今まで一人もいなかった。時にはいい相談であり、多くは悪い相談だった。

 あの瞳が「恐い」という。

 雰囲気が「やばい」という。

 しかし、その近寄り難さはいつしか彼女たちの中で一種のブランドと化し、より感覚的な部分で、あの人はあの子たちにもてはやされるようになっていった。

 やがて自然な着地点として、彼への接近がタブーとなるのに時間はかからなかった。

 鴉の羽みたいに黒い髪。あの人はなぜかそれだけでも人目を引いた。長身で、どこか佇まいが都会じみている。あるいは峠を越えた先の、私たちの知らない港からやってきたのかもしれない。

 ひどいヘビースモーカーでもあった。この界隈では珍しいことではないけれど、あの甘ったるい香りが気を引くのだろう。ああいう禁止に対する憧れが強い少女ほどあの人に憧れ、寮を抜けだしてまで、この店で働きたがった。

 男はいつも、二十五時を少し過ぎた真夜中にやってきた。

 今夜も侘しいドアベルが響いて、ひび割れた風と共に薄手のコートに身を包んだ彼が現れた。

 男は淀みのない歩調で通路を抜けると、壁沿いの、いつもの隅の席に腰を下ろした。動作のすべては雪に似て、見るものを自然と沈黙させた。そうして霜のように尖った静寂だけが、彼の周囲に降りていくのだ。

 彼はいつも一人だった。

 そして、静かである。

 ほどなくして、私はいつもの品を彼に届けるよう主人に言いつかった。私はカウンターの裏の冷蔵庫を開け、奥からよく冷えたソーダ水と、その隣の棚から栓抜きを取り出した。

 霜を崩さないよう、そっと席へと向かっていく。

 彼の声を聞くのは一度だけだ。

 本当に、短い返事だけ。

 低く、落ち着いた、少しハスキィな声。

 私はそれを耳にすると、いつも少しだけ胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

 テーブルの傍らで、私は瓶のまわりの水滴を丁寧に拭き取った。視界の傍ら、煙草の揺れる火がソーダ水の深緑色の瓶に小さく灯っている。

 影はあるけど、綺麗な横顔。仮面よりも凍てついた無表情。私は沈黙の帳の中にそっと息をひそめて入っていった。

 私はとても緊張していた。

 胸がぎゅうと締め付けられて、倒れそうなほど苦しくなる。そこにはいつも、裸足で歩く獣のような自分がいるからだ。

 あいつはいつも黙っているから、誰にも見えないし、聞こえない。あれと見つめ合う瞬間に走るのは、素足のままの、生の刃だけが漂わす緊張感だ。

 自分自身と向き合うのは、いつだって殺し合いという感覚を私に思い起こさせる。そこには向かい合う衝動があって、必ず、どちらかが死ぬ。

 囁くような己の息遣い。

 ソーダ水の泡とか。

 光る滴とか。

 断片的に覚えているものはたくさんある。

 しかし、そんなものは結局、最後に出会う彼の存在に掻き消されてしまうのだった。

 そう…………。

 ほんの一瞬だけ、彼は私を見る。

 私は見逃さない。気を抜けばすくむほどに鋭い視線を、私は、ほんの一瞬、針の穴ばかりの隙間を通して、感じることができる。

 深い、水底から見つめてくるような暗い瞳。

 ほんの一滴、苦い蜜の味がする。

 私はともすると乱れそうな呼吸を押し殺しつつ、すぐに身を引いて彼の前から立ち去った。夜の猫のように、滑らかでしなやかな動きを意識した。

 後ろを向いたら、絶対に振り返ってはいけないと決めている。今一度射抜かれたなら、きっと瞬きもできずに私が死んでしまうとわかっていたから。

 そして何より、心のどこかでそれを望んでいたから。

 この瞬間、私と男の距離は限りなくゼロに近く、同時に果てしなく遠い距離の彼方にあった。例えるなら、湖面に映る月のようなものかもしれない。ひとつの次元で月と湖は同じものであり、ひとつの次元では全く異なる場所に存在している。

 それは完成した平衡。

 私は他の仕事に戻るため、沈むカーペットの上を慣れないヒールを踏みしめて歩いた。

 カウンターの奥で同僚のあの子が見つめていた。水飴のようにねっとりと感情の絡んだ瞳で、私を睨みつけている。

 私は視線を真っ直ぐにして、無意識に背筋を伸ばしていた。こんな時、私にできることはいつもそれしかなかった。

 彼女が見ているのは、湖面の月。

 虚構に過ぎない。

 今日も夜が更けて、月はどこかへ消える。

 幻の湖のありかなど、知るべきではないのだ。

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