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夜と春  作者: Cessna
2/12

二、ハイヒールの獣

 ちぐはぐな違和感はもちろん、女の靴のせいだろう。

 女は中性的な顔で、落ち着きのあるよく通る声とすらりと長い手足を持っていた。小さな顔と、滑らかに反った背筋が美しい。姿勢が良く、店に似つかわしくない独特の上品さを漂わせていた。

 いつも、ヒールの高い靴を履いている。

 似合わないわけではない。しかし、整った身体にそれは何とも言えず奇妙で、幾何学的な、どこか落ち着かない不釣り合いを俺に感じさせた。

 歩くと特にそれが目立つ。調和された筋肉の弾みが、世界とのアンバランスをより強調するからだった。

 狭い廊下は鈍い橙色のランプに照らされて、室内には材木の香りと外からの夜気がうっすらと立ち込めている。

 俺は決して目を合わせないように、こちらへ歩いてくる女の姿から顔を背けた。かわりに椅子に深く腰を沈めて、煙草に火を付けた。

 大きく煙を飲むと薬が効いてきて、感覚が無防備なほど冴えてクリアになった。俺はその感覚を楽しみながら、努めて煙草の赤い灯だけを見つめた。

 やがてテーブルの傍らに女がやってきて、直線的な脚が隣できれいにそろった。

 俺はこの時、相手の存在を最も強く感じる。

 それは距離の問題ではなかった。ある意味では、同じベッドの中に誰かがいるよりも、もっと強く、近しく感じられた。

 神経に染み入ってくる息づかい、それから、静謐な視線。女は口をきいた。俺はその声の透き通った響きを頭の中で転がしながら、いつものように短く返した。

 女は透明なグラスをコースターの上に置く。水滴がフェルトのコースターにぽつりと滴り、小さな染みを作った。白く滑らかな手が添えられて、冷えたソーダ水の瓶がゆっくりと傾いていく。細かな水泡が白く瞬き、触れるよりも速く、聞こえるよりも鋭く、満ちていく。

 …………俺はこの瞬間が好きだった。

 この女が好きなのか、それともこいつにまつわるあらゆる透明が好きなのか。それはどちらでも構わなかった。

 ふいに女の細い髪が揺れ、小さな頭がわずかに下がる。

 俺との間にわずかな距離がうまれて、女はそのまま、するりと離れていった。

 ソーダ水の泡が浮かんではじけ、仄暗い天井だけが後に残される。その頃、俺はもうその女にあっけないほど興味を失っていた。

 歪な木目を辿っているうち、ふとグラスに映った幽鬼の顔を見てしまう。

 そいつはひどくやつれて、病人のように青かった。異様にギラつく瞳は人らしく思えず、額の傷にかかる前髪はやけに黒かった。

 乾いたそいつの唇の隙間から、擦り切れた吐息が漏れている。

 そんなに憎いのか、と俺は鬼に問うた。

 そうだ、と直ぐに低い声が返ってきたのは、意外なことではない。

 ややしけった煙草をくゆらせながら、俺は幽鬼から目を逸らして向かいの絵画を見つめた。

 それは大きくも小さくもない、妙なサイズの絵だった。

 色は美しい。淡い緑や橙の曲線が幾重にも折り重なり、一筋、青い風が拙く吹いている。風景を粉にして、そのままキャンバスに溶かしたようだった。画面を埋める物狂おしいうねりを眺めているうちに、何かが澱のように心に降り積もっていった。

 しばらく見つめていると、先の給仕がふと足を止めるのが目についた。彼女は横を向き、しばらくその額縁の前で立ち止まっていた。

 綺麗でしょう、とカウンターの女主人が静かに話しかけている。

 振り向いた女の顔は、肯定とも否定ともつかない、風のように空虚な、柔らかな笑みを浮かべていた。

 つと、口元で透明な牙が光る。

 ……………きっと、誰も気付いていないことだろうが。

 やがて女は淡々と仕事に戻っていった。深い森の中のように、その所作は粛々として厳かだった。

 それは、獣が見せる、これ以上もなく自然な所作である。

 ヒールは一歩歩くごとに、紅い絨毯に少しだけ沈んだ。

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