十二、春
吹き抜けるような春である。
新しく引っ越してきたのは若い夫婦で、たくさんの荷物を抱えて来た。たくさんとは言っても、この部屋の従来の住人と比べての話で、家族二人の割には多くもない。
のどかな風が草花の匂いをやんわりと運んで来て、小さな部屋に、土の香と爽やかな日の温もりが一杯に満たされていく。
開け放たれた窓からは大きな桜の木が見えた。どの枝にも桃色の花がふわりと開いて、舞い散る花びらは通りをまんべんなく覆っていた。
淡く澄んだ、優しい青が空を彩っている。
備え付けの家具は今回、大幅に立ち位置を変えた。
代々一人暮らしの住人が何年も動かさずにいたものを、二人は手間をかけて移動させ、窓の前に二人分のベッドを置くスペースを作り上げたのだった。
「少し、眩し過ぎやしないか?」
夫が窓の外に目をやって、妻に尋ねた。
少し眠たそうな顔をしているが、人相は悪くない男だった。どこか人懐っこい目つきが優しげで、遠くを見つめるような仕草は癖である。真っ黒い髪が印象的だった。
「いいの、いいの。隣街まで出て、いいカーテンを買ってくればいいだけだから。それより、ほら」
溌剌とした表情の妻はそう言って笑うと、ベッドの上に乗り、そのまま上半身を窓から投げ出すようにして乗り出した。
上気した頬を風が撫で、花びらの霞みが彼女を穏やかに包みこんだ。
「綺麗!」
「そうだが、落ちるなよ」
呆れ気味の男の声は、だが、少し嬉しそうでもあった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
はしゃぐ彼女につられて、そのうち夫も窓に身を寄せた。二人は寄り添うようにして一緒に外を望む。
見上げた空はどこまでも青かった。勢いよく伸ばした白ペンキのような雲が高くさっと一筋伸び、山々は鮮やかな新緑に萌えて、風と共に騒いでいる。
裾野に、街が広がっていた。
「…………そう言えば、この街は雪が降るらしいな」
ふいに夫が呟いた。なぜ急にそんなことを思ったのか、彼自身にもよくわからなかった。
静かな気配が部屋に満ちている。しんとして心地良く、誰もがつい目を瞑りたくなった。
「積もる雪って見たことないけど…………」
そう言いながら屈託のない思案顔で妻は首を傾げた。そのあどけない動作は生き生きとして、これから始まる生活の楽しさを抑えきれないといった風だった。
「悪くないと思う。白くて、冷たくて、透明で」
「透明?」
「うん、凍ると、透明になる。綺麗」
夫は少し考えてから、ややあって頷いた。六角形の結晶を思い浮かべて、その清らかな様子と、冷たくて透明という表現に納得がいったのだった。
「ああ、でも…………」
夫はふと妻の方を見た。
「溶けても、透明になるな」
彼女はふいに向けられた視線に頬を染めつつ、そうだね、と目元をほころばせて頷いた。
「溶けて、流れて、春になる」
「春になる」
「夜になる前に、片付けちゃおう」
二人は知らないが、その日の夜は一段と美しく輝いた。
空には、無数の白い星が瞬いていた。
街を見下ろす夜は深く澄んでいて、穏やかな濃紺色の水が、山麓のアパートから仄暗い路地の裏に至るまで、ひっそりと満ちていた。
聞こえない言葉で、誰かが歌っている。
それは優しく、遠い、永遠を紡ぐ柔らかな声だった。
(了)




