一、月の歌
まあるい月が見える。
黄色くて鮮やかな、小さな月だ。紺青色の夜空にぽつりと浮かんでいる。時折、細くたなびいた薄雲がその月影を曇らせては、音も立てずに去って行く。
街はしっとりと濃い静寂に満ちていた。まるで深く澄んだ湖の水底にすべてが沈んでしまったかのような、肌寒い心持ちがする。
私は仕事を終えて寮へ帰る途中、冷たいアスファルトの上で、そっとつま先を埋めるハイヒールを脱いだ。
つぶらな満月が見下ろす道を、そうして、ひそひそと歩き出す。
私はこの靴が心底苦手だった。この靴は履く人間に、必ず背伸びを強いてくる。私は背伸びなんかちっともしたくなかった。
届かないものがあるわけじゃないし、欲しいものがあるわけでもない。私にはそういう理由がどこにも見つけられない。私はただみんなを真似ているだけだった。
私は根っからの子供で、それ以外にできることが何もない。しかも愚かだから、それすら実は満足に出来ていないのだけれど。
私は十一の頃に独りになって以来、ずっとこんな危うい、つま先立ちのバランスを維持してきた。
誰にも頼らなかった。怖がりで、ちょっと拒絶されたらもうお終いのような気がして、相談すら出来なかった。そのうち意地になって、まるで辻褄の合わない、ぐちゃぐちゃの頭になっていった。
情けない、なんて弱いことだと思う。
私はよく黒いものを吐いた。それを目の当たりにすると、さらに何も考えられなくなった。被害者ぶっている自分の身体が憎らしくて堪らなかった。誰かに訴えて心配されるなんてことは、何としてでも避けなければならないと感じた。これ以上惨めになれば、私はもう生きていけないと思った。
つま先がまだ、いじいじと痛みを訴えている。大丈夫。叱りつける代わりに、私は励ましてやった。だって帰るためには、動いてもらわなくちゃいけない。なんて馬鹿馬鹿しい欺瞞だろう。
背伸びをする人は大抵、手を伸ばす。月が欲しかったり、星が欲しかったりする人は、背伸びだけではとても足りない。だから手を伸ばす。
私は、でも、さすがにそんな真似は出来なかった。
欲しいものは、むしろ、距離だったから。
私は今の私と夜空の間にあるような、圧倒的な距離が好き。
物事を落ち着いて見つめるための距離。何も望まれないことと、何も望まないことを私はいつだって祈っている。
一歩踏み出す度に、疲れた足に敷石の欠片が食い込んだ。少し痛くて、それがかえって心地良かった。
帰ったらまたすぐに明日がやって来る。
そしたら私は、私たちは、また、背くらべを始める。背伸びはやめられない。みんながするから。
昼でも、夜でも。
子供でも、大人でも。
いっそ崩れて、何より下に堕ちたらどうなるのだろうと考えなかった日はない。蜘蛛の糸だって垂れてこない薄暗い日々に身を埋めて、いつか、あの黒いものをうっと喉の奥に詰めて、生温かい部屋の中、泥みたいに、静かに横になることを考えた。
乾いた風が隣をすり抜けて行く。私のいじけた身体は縮こまり、甘ったるい自虐はきゅうと戒められた。
仰ぎ見た月は、おぼろに滲んでいる。淡く、頼りない。
こんな時耳を澄ませば、音楽が聞こえてくる人もあるだろう。静かで、無音の、私には聞こえないメロディ。
微睡みを誘ってくれる安らかな子守歌。