宝物
家から自転車を走らせて、五分ほどいったところに海がある。
窮屈な靴を脱ぎ捨て砂浜に足を踏み入れると、光をぎらぎらと照り返す水面が見えてくる。数歩も歩けば、素足に砂がついてくすぐったいような不思議な気持ちになる。
家と浜を往復。これが佑也の日課になっていた。
波打ち際から望む海は、静かに蒼を称えて雄大で、めまぐるしい瑣末事など忘れさせてくれる。ここに来た目的さえ見つめる視線の彼方へ置き去りそうになって、佑也は首を振って思い出す。
足元に広がるお宝の山を。
とはいえ真珠やダイヤモンドといった、お店で並んでいるようなぴかぴかの宝石が転がっているわけではない。
割れた貝殻や壊れた何かの部品。硝子の欠片。嵐が過ぎた後には流木が――波が運んでくれる様々なガラクタ。
他人にとってはただのごみでも、佑也にとってはそのすべてがかけがえのない宝物。
大海原を漂流し、長い航海の末、何の偶然か浜辺に辿り着く。それに浪漫を感じずにいられなかった。
砂浜を渚づたいに歩いていくと、ゴツゴツした鎧のような岩に囲まれた磯にたどり着く。
足場も悪く、周囲を岩盤に阻まれているせいか、ほとんど人が訪れることはない。来るものといえばさざ波に潮風だけ。秘密の隠れ家みたいでお気に入りの空間だった。
小学生最後の春。誰にも教えたことがないその場所へ、今日初めて友人を連れて行った。
そいつは正志といって、佑也のクラスに転校してきたばかり。とても気さくな少年で、瞬く間にクラスの中心として溶け込んでいた。
友人が少ない佑也でさえ珍しく気が合った。だから、海を見たことがないと言う彼に、何かしてあげたいと思った。そんな気持ちになったのは、初めてのことだった。
「どう? すごいだろ」
「うわぁ、すげぇ! きれいな場所だな」
正志は入り口に自転車を乗り捨てると、一目散に浜を駆け下りていった。佑也にとっては当たり前の事実を確認した彼が、しょっぺぇっ! と大声を張り上げるのが聴こえた。
眼前に広がる白砂で、鋭い光がキラッ、キラッと跳ね踊っている。まるでちりばめられた宝石が自己主張しているかのようだ。そして光彩を飲み込んだ海の、碧く透き通った水が、奥底からゆうらゆらと浮び上がって見えるのが、これまた幻想的で美しかった。
海も岸辺も光溢れんばかりの色彩で、二人を歓迎していた。
佑也は後を追いながら、自分だけの秘密を誰かに教えるなんて、思い切ったものだなぁとぼんやり思う。
しかし、関わりたかったのだろう。瞳をキラキラ輝かせる彼と。
身体をこちらに向け、手を犬のようにぶんぶん振る正志を見て胸が温かくなった。連れて来てよかった。そう自然に思えた。
「海岸は、海からきた素敵な贈り物が詰まった宝箱なんだ。ほらっ、見てよ!」
佑也は砂の中から拾い上げた小さな貝殻を、手のひらでころんと転がしてみせた。
「うわっ! 小っさ。それも貝殻なの? 可愛いな」
「うん、他にも綺麗な硝子片とかいっぱい落ちてるんだ。ねぇ一緒に探そうよ」
「面白そうだな」
二人は競い合って、浜辺を散策した。
日が西に傾き始めた頃、遊び疲れた二人は岩の上に素の足を投げ出して、拾い集めた戦利品を見せ合っていた。
穏やかだった海は少しずつ勢いを増し、
パシャ。
荒岩に、寄せてはかえす波がしぶきを上げて跳ねる。
「あっ!」
突然正志は声を上げ、水の中に手を突っ込んだかと思うと、キラッと光る何かを取り上げてみせた。
「え?」
一連の動作は流れるようで、一瞬、佑也には何が起こったのかわからなかった。
「ほらっ」
濡れた腕を突き出す正志。
その手に握られているものを確認した瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
瑪瑙だった。
別名、石英というそれは、別段珍しいものではない。けれど正志が拾い上げたそれは小指の先ほどもあり、長年浜拾いを続けている佑也も見たことがないくらい大きな、宝石だった。
光を通して鮮やかな紅を彩る様は、まるで小さな太陽だ。
「すっげぇー!! でけぇ! こんなの初めて見た」
無邪気に喜ぶ正志の横顔に、黒い染みがぽつりと落ちて広がった。
「そっ」
そんなのたいしたことないよ。僕は、もっときれいな石を拾ったことがあるんだ! 危ういところで言葉を飲み込んだ。もし、振り向いた正志の視線に射抜かれなければ、この勢いは止まらなかっただろう。
「へへっ、いいもん見っけ。今日の記念にしよう! もらってもいいんだろ?」
「う、うん。」
何も知らない正志の笑顔から、自分を隠すように目をそらした。
「やっ……たな! 初めてにしては凄い大物じゃないか」
やたらでかい声で、白々しい賞賛が飛び出した。歯を食いしばる代わりに、空を掴んだ拳を白くなるまで握り締めた。
薄暗いと思えば、太陽が西の彼方で海に押しつぶされるようにしぼんでいた。
「わぁ、すご~い!」
「きれいねぇ」
翌朝、佑也が登校すると、教室に人だかりができていた。
話題の中心は正志だ。
クラスでは誰一人、佑也に声をかけてくる者はいないのに、いつも彼の周囲には絶えず人が集まっていた。近寄ることすらできない。
裕也はため息をつき、勢いに任せて席につく。
ガタンっと大きな音がして数人がこちらを見たが、俯いた裕也の眼中には入らない。
(なんでっ!)
(あの場所は僕が教えてやったのに!)
激しい憤りが胸中を支配した。
何も考えられなくなり、頭にサァッと血が昇る。
正志の周りを囲む生徒に、いつもよりやけに女子が多い気がしていたのはそういうことだったのか。
前髪の隙間から覗く正志の笑い顔を見れば、息苦しさに目の前が霞む。
人手に渡るたびに、瑪瑙の紅が一瞬姿を見せる。
「ねぇ、もっとよく見せてよ」
「私にもぉ~」
「ねぇ、ねぇ。見せて見せて」
佑也は耳をふさいでうつ伏せる。
見たくなかった。
あの石が正志の手にあることも。こんなにもあっけなく、秘密が秘密でなくなってしまったことも。
「ねぇ、それあたしにちょうだい」
騒ぎ立てる女子たちの耳障りな歓声の中で、一際甲高い声が聞こえてきた。
(あの子だ)
聞き間違えるはずがない。クラスで一番可愛いと評判の女子で、佑也は一度も話したことはなかったが、以前からずっと憧れていた女子の声。
その彼女が、聞いたことのない甘い声で正志にねだると、佑也の気持ちはいよいよざわついた。
しかし、対する正志の返事はつれないものだった。
「悪いな。それ、俺のじゃないんだ」
(――え?)
思わず、突っ伏した顔が宙に浮く。
どういうことだろうか。拾った瑪瑙を、宝物ものにするんだと喜んでいたはずなのに。
「なにそれー。どういうことぉ~」
「しんじらんなぁい。だれなのよぉ!」
それを聞いた女子たちは口々に不満を露わにするが、耳に入らないくらい驚きで満たされた。
体育の授業が終わり、佑也はいち早く教室に戻ってきた。
誰もいない室内はほの暗く、静まり返っている。
それぞれの机の上にはもっこりと服の山。何気なく正志の席に目を向けると、真っ赤な光が瞳に飛び込んできた。脱ぎ散らかした服の脇に、無造作に置かれている。
正志の無用心さにカッとなり、気がついたら石を取り上げていた。
(こんなもの、隠してしまおう)
いけないこととは知りつつも、悪魔の囁きが頭にすとんと落ちて、急に胸が軽くなる。それが自然な動きであるかのように、瑪瑙をポケットに突っ込んだ。
瑪瑙がなくなったことに正志が気付かないはずなかったが、彼は何も言わず、佑也も何も言わなかった。
次の日。
正志は相変わらず人垣に囲まれて、前日起きたことがユメだったかのように、すれ違う二人の間には何もなかった。
だから、これですっかり終わったのだと、心のどこかで安心してしまっていた。
時折、誰かが瑪瑙を話題に上らせては、正志がごまかしているような会話を耳にした。
帰り道、とぼとぼ歩いていると思いがけず正志と一緒になった。クラスの人気者が誘いをすべて断って、佑也を待っていたらしい。胸の中で喜びが小さくはじけたのは一瞬で、すぐに暗い気持ちが包み込んだ。
実際、何も無かったことになるはずないのだ。
瑪瑙をこの手の中で転がせた時の高揚感はすっかり消えうせ、今となっては盗んだことに対する罪悪感しかない。
「なぁ。俺、あの石、なくしちゃったんだ」
「・・・・・・っ」
覚悟していたはずなのに、思わず足が止まる。
どうせお前が盗ったんだろうと責め、笑いにきたんだろう。屈辱で体が震え、唇を噛みしめて罵倒の声を待つ。
だが、
「ごめんな」
ぽつりとささやく彼の声が、涼やかに耳の奥で響いた。
「お前と一緒に見つけた瑪瑙、なくしちゃってごめんな」
「なんで……」
謝るのだろうか。
「あの場所も、お前が俺だけに教えてくれた秘密なのに、みんなにばらすようなことしちゃってごめん」
何で彼はこうもすまなそうに謝るのか。
本当は知っているんだろう? 僕が盗ったことを。知った上でそんなことを言っているんだろう?
問いただしたかった。たとえ知らなくても、全てをぶちまけてお前のせいだと罵倒してほしかった。けれど彼の真摯な瞳を前に、罪悪感だけがのしかかり、どうしても声が出せなかった。
「本当はあの石、佑也に渡そうと思って持ってきたんだ」
「どうしてっ!」
「わかるよ」
正志は瞳を細め、浅く笑った。
「お前、欲しがってただろ」
あまりにもさらりと告げられて、何も言い返せなかった。
「言ってくれたらよかったのに。俺たちが見つけたんだから、別にお前が持っていてもおかしくないだろ?」
「何だよそれ」
「それに佑也は自分の宝物を見せてくれたじゃないか……ほら、俺は引っ越してきたばかりで何にも持っていないからさ」
空っぽの手をひらひらと広げるその鷹揚な身振りはおどけているようにも見えて、気付けば佑也はくっくと笑っていた。
そんな理由で、せっかく見つけた特大の瑪瑙を手放そうとするなんて。
(バカみたいだ)
ポケットに手を突っ込み、硬い異物を握り締める。
こんな石ころひとつの事で、何をあんなにも苛立っていたのか。
殺してしまいたい。こんなつまらない僕なんて。
俯いた耳に、ざざ――と静かな波の音を聞いた。
「僕こそごめん! あの石をとったのは僕なんだ」
握り締めた石を正志の目の前に突き出した。
彼はこれを見て軽蔑するだろうか。
そうなってもかまわない。それよりも嘘をつき続けることの方がつらかったから。
だが、彼は何も言わなかった。
代わりに、ふっと笑う声がして、むっとなって顔を上げる。
「ほら、見てみろよ。宝石なんかよりももっと素敵なプレゼント」
佑也は正志の指差す方向に目を向ける。
「うわぁ――」
その美しさに思わず感嘆が洩れた。
「気付いてたか? あんなところにも大きな……」
まるで特大の――
「「瑪瑙!」」
交じり合った二人の歓声はやがて大きな笑い声へと変わり、誰もいない浜辺に広がった。
西の空に沈む夕日は周囲を巻き込むほどに紅く、美しかった。
わだかまりは手のひらからころころと転がって、いつの間にか波に飲まれて消えていた。
これも三つのお題からイメージして考えた三題話小説です。
やったことはないですけど、砂浜で貝殻やシーグラス拾ったり、それらを使って何かを作ったり。ビーチコーミングって言うそうですけど、そういうの楽しそうだなー。と思いながら書いてました。