13/12/11 チョコレート
話の都合上ほぼ会話です。
「以前住んでいたアパートの近くに、傾斜のきつい坂があったんです。わたしはその下を通るだけなんですが、妻とはそこで出会いました。彼女が躓いた拍子に買い物袋を落としてしまい、中身がゴロゴロ……そこへちょうどわたしが。本当にあるんだなあ、と。運命的なものを感じて」
「ドラマティックですね。ご結婚までのお付き合いはどれくらい?」
「二年弱でしょうか。当時、妻はまだ会社勤めを始めて一年目でしたし、わたしも転職したばかりだったので」
「なるほど。お子さんの出生年からして、妊娠はご結婚前ですね」
問診票を確かめてから、相談者に視線を戻した。男性、四一歳。整った身なりで中肉中背より少しふくよか、顔色は良く健康そうである。
「子供を作る目的は無かったんですが、その」
相談者は言い難そうに顔を顰める。
「恐れ入りますが、正確に状況を把握したいので」
「いえ、その、なんと言えば良いか」
「ここに居るのは女性ではなく、あくまで弁護士です。医者やカウンセラーに話すのと同じと思って、どうぞ続けて下さい」
「はあ。その、若気の至りと言いますか、避妊をせずにセックスを。結果的には、お互い一歩を踏み出す良いきっかけにはなったんですが。世間的には、あまり褒められた事ではないですよね」
「何事にもきっかけは必要でしょう。それでは、お子さんは今どちらが?」
「妻です。彼女の実家で一緒に」
そこでやや言葉に詰まった。私は問診票を片手にして構わず続けた。
「別居の期間は三ヶ月、原因は『相手方の不倫』となっていますが、間違いございませんか」
頷きながら、はい、と口を動かしたが、声にはなっていなかった。
「お子さん自身の意志で相手方を選ばれたのですか。それとも無理矢理?」
「自分で選んだんです、『ママがいい』って。娘は妻によく懐いていますから。わたしなんか仕事ばかりで家に居るのは土日だけです、それがいけないんでしょう。子供が生まれて主婦になった妻の方が、一緒に居る時間は長いですから」
次第に表情が歪んでいく。
「なのに……なのにどうして浮気なんか。どうしてあんな裏切りを……」
震えた声で嘆き顔を覆った。私はデスクの引き出しから銀色の包みを取り出し、勧めた。
「よろしければどうぞ。甘い物には気持ちを落ち着かせる効果があるんです」
しかし相談者は、いえ結構、と首を横に振った。
「すみません、もう大丈夫。娘に言われたんです。『太ったパパはきらい』らしくって。確かに子供が生まれてから段々太ってきていて。だから甘い物は控えているんです」
手を外した顔は平静を装い、湿った目で苦笑いを浮かべていた。
「辛いお気持ちはお察しします。質問を続けて宜しいですか」
「ええ、大丈夫です、どうぞ」
「浮気相手についてはご存知ですか。心当たりでも構いません」
「実は、その、お恥ずかしい話なんですが……妻の言動に不審なところがあって、興信所に依頼を。相手はパート先のスーパーで店長をしている男でした」
問診票に書き足しながら次の問。
「という事は、決して一夜限りの浮気ではないと。期間まではご存知ありませんか」
「はっきりとは。ただ怪しいと思い始めてから発覚まで一ヶ月ほどありましたから、最低それくらいでしょうか」
最低一ヶ月、と繰り返しながらまた書き込む。依頼主が覗き込んで首を伸ばすのが解った。
「あの、今のはここだけの話にして頂けますか。探偵を雇ったとまでは言っていないので」
「勿論。守秘義務がありますから、それも含めてこの部屋での会話は全て秘密ですよ」
微笑み返すと、依頼主はほっとした様子だった。
「離婚を切り出したのはどちらからでしょう?」
「一月前、妻からでした。浮気を指摘したら、逆上されてしまって」
「そうですか。やり直そうと思う事は?」
それは、と相談者は声を上げた。
「やり直せるなら、やり直したいと思いますよ。子供の将来もありますし、何よりわたしは、まだ妻を愛してますから」
真剣な面持ちで私を見詰める。
「失礼しました。結婚指輪を外されている様なので」
相談者の太い左手薬指は、付け根の辺りでくびれている。
「ああ、これは無くしてしまって……その事も、理由かも知れません」
「そうでしたか。不躾な物言いをして申し訳ありません。お詫びします」
「離婚を申し出た相手方が協議離婚に応じないのは、何故でしょう?」
「妻の要求は娘の親権と養育費なんです。問題は妻の浮気ですし、先程お話しした通りパートタイマーですから、収入面にも不安があります。しかし妻は断固として譲らなくて」
「それは弱りますね。しかしあなたとしては、お子さんの親権はあなたが得るべきと考えている訳ですね」
「当然です。わたしには娘を養うだけの十分な収入がありますし」
「ご職業は?」
「学校教材の営業です」
「なるほど。ところで慰謝料は請求なさらないんですか?」
「慰謝料なんて、とんでもない。確かにわたしも傷付きましたが、娘の事を一番に考えなくてはいけませんから。なるべく穏便に済ませたいのです。しかし妻がああも頑なだと、もう」
「離婚調停に持ち込むしかない、と。解りました」
ここまでで相談理由については理解した。
ペンを置いた。
「では担当弁護士として同席致しましょう」
「ありがとうございます」
頭を下げようとする相談者を、私は手で制した。
「契約して頂ければ、最低限の利益はお約束しましょう」
「……『最低限』?」
相談者は上げた顔を顰めた。
「そこで私から、こちらが提示する離婚条件の提案ですが」
さて。
「慰謝料は請求せず、親権は相手側に譲ります」
「は」
表情が凍り着いた。
「養育費に関しては支払わない代わり、その条件として今後お子さんとは会わない」
「ちょ」
腰を浮かせて叫んだ。
「ちょっと待ってくれ、どうしてそうなるんだ!」
前のめりになって、見る間に顔が赤くなっていく。
「落ち着いて頂けますか」
菓子の包みに手を伸ばすと、激しく怒鳴った。
「何をふざけてるんだ。あんたそれでも弁護士か!」
「弁護士として最善の提案をしたまでです」
「だから! 何故あいつの所為で離婚するはめになったってのに、どうしてわたしがそこまで」
「それは離婚理由があなたにあるからですよ。お心当たり、あるでしょう?」
焚き火に水を打ち掛けられた様に、相談者は黙った。
「あなたのその指、結婚指輪を長い間着けていた指です。外してから一ヶ月以上も跡が残っているのですから。すると、よほど着けていて邪魔にならない指輪だったはずでしょうから、それを外さなければならない場面は限られます」
「ゆ、指輪は流しに落としてしまって」
「手や顔を洗う程度で頻繁に外していては、そんな跡にはなりませんよ。それにあなたの指では外すのも一苦労だったはずです。ところでその『流し』とは、ご自宅の『流し』でしょうか? 浮気や離婚の理由になるほど大切な指輪なら、奥さんは何故取り出す努力をしなかったのでしょう。主婦ですから、ご自宅なら水道関係の業者を呼ぶくらいできたのでは」
違う、と吠えた。
「そ、そうだ、慰安旅行の時だ。温泉に漬けてはまずいから外して、その時無くしたんだ!」
「なるほど。指輪が銀であったのなら筋は通りますね。お話を二転三転されては信憑性に欠けますが」
もっとも。
「そう慌てて私に弁解する必要はありません。守秘義務があると既にお話しました」
「あ──あんた何なんだ。あんたは、おれの味方じゃないのか!」
「勿論、味方です。ですから、あなたの世間体を守るという最低限の利益の為、最善の提案をさせて頂きました。相手側には、こちら側の落ち度を取り沙汰すつもりがないのでしょう。しかし事を訴訟にまで発展させれば話が変わります。こちら側は相手側の不倫を証明できますので、あなたの離婚条件通りに親権を勝ち取る事は可能ですが、問題は相手側が証明を立てられない事です。民事訴訟にまで持ち込まれ、夫に対するあてつけや復讐から始めてしまった不倫を明らかにされた上、親権を奪われたとなれば、恨みを募らせて当然です。途端あなたの周囲に醜聞が広まるのは、火を見るより明らかです。そうならない為に、最低限の利益に留めるべきとアドバイスしているのです」
暫し唖然としていた相談者だったが、やがて燃えカスの様に椅子に座り込んだ。
そして魂が抜け落ちた声で呟いた。
「……どうしてバレたんだ」
「これは弁護士ではなく女性としての意見だけれど、あなたは嘘を隠すのが下手なのよ。殆どの男がそう、無自覚なだけ。ではこちらの契約書にサインを」
今日の予約はこれで終了。相談者が出ていった後で、私は一息吐いてお菓子の包みを開いた。
この仕事を始めてから体重が増え続けている。
一日二日一話・第四話。
「りんご」「ちょこ」「ゆびわ」の三題をくれたオカン(chuugumi)に感謝を。
書いてたら日を跨いだので素直に今日の分として掲載するぜ。へへへ。
タイトルは相変わらず全く考えてなかったぜ。へへへ。
「りんご」の要素は解りにくいと思いますが、まあ、察して下さい。