7.走り出す、400メートルトラック
・7・
結論から言えば、オレは亀井一年生に敗北した。
最後の最後、海に飲まれた彼女を追いかけて何も見えない海に潜ったとき、オレは「走って」はいなかったからだ。
それで屁理屈だと思うのであれば、もう1つの理由の方も明示しておこう。タイムリミットも、過ぎていた。
彼女が持っていた携帯電話……あのときライト代わりにしていたそれが、偶然にも岸に流されていた。相当古い型を使っていたようで、水に落とした時間を表示したままに携帯は壊れてしまっていた。
表示されていた時間は、レースが始まってから3時間と4分を差していた。思い出話をしている時間などなかったのだ。思い出の良し悪しを決めることができるほど、オレはまだ大人ではないというのに。
ただ。あのときあの話をしたことは、おそらく後悔しないと思う。
「先輩、時間です」
「ああ」
ロッカールームで待機していたオレを、亀井マネージャーが呼びに来た。前髪をヘアピンで上げてウインドブレーカーを着て、快活な笑顔で笑っている。これが彼女の願いだった。オレだけの専属マネージャー。少し気恥ずかしい響きだが、陸上部自体にはすでにマネージャーが居たし、実質そうだと言って違いない。
長い廊下に出て、舞台へと向かって歩いていく。
隣に並んでいる亀井マネージャーに、オレはふと話しかけてみた。
「本当に、良かったのか」
「え?」
「その……オレに付いてきて。しかも、マネージャーまでやってもらって。なんだか申し訳ない」
「もう。何言ってるんですか先輩。本番前だからって弱気になりすぎです。去年負けたのってそのせいじゃないんですか」
「な、なんだと! それはない。断じてないぞ」
そうですかね、と含み笑いをひとつして。亀井マネージャーが今度はオレに言う。
「知ってますか。先輩は、勝つんですよ。先輩をずっと見てきた私が、先輩の努力の証人です」
――歓声。
丸く切り取られた大空と、たくさんの観客見守る競技場。オレと亀井マネージャーは、廊下を終えてここへ戻ってきた。
予選は1位で、通過した。今から決勝レースが始まる。
去年は全く気にならなかった歓声が、今年はずいぶんと耳に入った。
誰かのために、走ること。
その誰かが、走る人を応援してくれること。
自分のためだけにずっと走っていたオレに、あまりにも足りなかったもの。
今のオレには、それがあるのだから。弱音を吐いてる、場合じゃ、なかったな。
「そうだな」
亀井マネージャーの頭に手を置く。ヘアピンがずり落ちない程度に、髪の毛をわしゃわしゃと撫でてやった。
「オレは、大神秋廉。神のアキレス腱を持ち、亀に追いつこうと走りつづける男だ」
「そうですよ。これが終わったら――いいえ、いつまでだって。私は先輩に恋し続けて、先輩はそんな私を追うんです」
地球を一周してしまおうが、宇宙の果てまで辿り着こうが。
あるいは、地獄の果てまでも。
アキレスが亀を追い続ける代わりに、亀は常にアキレスのそばにいる。
だから、それに比べれば。あのゴールテープを切ることだって、オレには容易いはずなのだ。
クラウチング・スタートの体勢。
ピストルの音。
走り出す、400メートルトラック。
(終)