5.思い出を靴として
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たった1人で箱根駅伝を走破するようなものだった。
坂を越え、谷を越え、峠を越えて七曲り、場合によっては藪の中。走って、走って、ようやく整備された車道に出ると、全力のすべてを振り絞って走っていく。
呼吸を整え歯を食いしばって疲れを殺し。ただひたすらに足を動かして、前へと体を運んでいく。喉からひゅーひゅーと、限界を知らせる笛のような音がした。知るか。知ったことか。
亀井一年生は、トラックに跳ねられてでもオレから逃げることを選んだ。それにオレが応えないでどうする。疲れなど、痛みなど、アドレナリンで殺してしまえばいい。走って、走って、走って……その先にあるものを掴むために、オレはなんだって投げ捨てるつもりでいた。
辿り着いた場所は、地上の大詰め、浜辺だった。
水平線、暗い海。もう陽はとうに沈んでいる。
「いるんだろう、亀井一年生」
オレは駅前を出発する前、後東顧問に渡されていたもの――イヤホンマイクに向かって語りかけた。ノイズの走る音がして、亀井一年生からの返答。
「はい」
「携帯のライトを掲げてくれ。さすがのオレも夜目は利かない」
「……そうですね。分かりました」
波打ち際から二十メートル弱。淡く光っている小さなライトを、オレはしっかりと捉えた。亀井一年生は海の中にいた。おそらく浅瀬の、いちばん遠いところに。怪我した体で海に入って、自分の体をなんだと思っているのか。
だが攻める気にはなれなかった。彼女は、全力なのだ。オレのためにすべて捧げる覚悟を持って、彼女はあそこに立っているのだ。
聞いた話では。今回のこのレース、持ちかけたのは後東顧問だが、作戦を考えたのはほぼすべて亀井一年生らしい。最初の言葉の駆け引きから、逃げる方法の基本案まで、彼女は一晩で考えてきたのだという。
素直に天晴だと思う。グラウンドという小さな世界に捕らわれないその視点。水中に逃げれば追ってこないという発想を実行してしまう度胸。そしてなにより、それでもオレが追ってくると確信している信頼と期待。
ここまでのことをされたのは、人生で初めてだった。
ここまでオレを見ているやつがいることを、オレは見ていなかったなんて。
「それがプランEってやつか」
「ええ。今は浅瀬の端にいますが、先輩が追ってきたら深いとこまで逃げるつもりです。――これで”掴まえろ”というのは、少し卑怯ですか?」
「野暮なことを聞くな。分かっているんだろう。”掴まえてやるよ”、とオレが言うことくらい」
オレは光るライトの方に向かって指を差し、宣戦布告をする。
「そんなに近くにいないで、水平線の向こうまで逃げるがいい。地球を一周するまで逃げようが、宇宙の果てまで逃げようが――必ず追いついて、掴まえてやろう」
オレは靴を脱いだ。
そして背中に結び付けていた、もう一つのアイテムを取り出す。
こいつを見ると昔を思い出して嫌になるから、なるべく見ないようにしていた物だ。
だが今、オレにはこれが必要だった。
思い出を乗り越えてコントロールすることで、オレは水平線を越える。
「……亀井一年生は知らないだろうが、一年のころのオレは、陸上部でも最弱だった。何をどうすれば良く走れるのか全く分からなかった。だから放課後になるとよく、この大詰の浜に来て走っていた」
「後東先生から、少しだけ聞いてます。先輩は天性の才能を持ってたわけじゃなくて、人より多く努力した結果、みんな持ってる才能に目覚めたんだって」
「そんな大層なものじゃない。練習風景を見られたくなくて、逃げた先がここだっただけだ。まあ、だから亀井一年生が電車に乗って逃げるのであれば、ここだと思ったんだが」
背中に括り付けていたアイテムを、縛っていたヒモで、今度は足に括り付ける。ルールに「靴を変えてはいけない」という縛りはない。亀井一年生がルールの穴を存分に利用したように、今度はオレがルールを利用してやる。
昔は背中に括り付けていた”それ”は――さすがに靴にするには無理があるサイズで、多分周りから見ればオレが”それ”の上に乗っているだけに見えるだろう。
もしオレが忍者の末裔だったりしたら、こんなことをしなくともいいんだが。生憎オレは、アキレスだった。
「さあ、ラストスパートだ」
オレは靴を替え終わった。砂浜を少し後退してから、身体をぐっと縮めてスタートの体勢を取る。
3。2。1。
脳内でピストルを鳴らした。海へ向かって、駆け出した。
「オレが何を履いているのか分かるか、亀井一年生?」
「いいえ……でも、まさか……」
「そのまさかだ」
オレがわざとらしく、ぼむっと弾性のある音をさせると、亀井一年生が息を呑んだ。動揺したらしい、ばしゃばしゃと音を立てて後退していく。察しがいい。
だが、遅い。
「古きよきスタミナ獲得のお供。丁度駅前に事故ったトラックが一台あったから、そこから拝借してきた。こいつ――タイヤの浮力があれば、あとはバランス感覚と脚力の問題だ」
二つの大型タイヤを足輪として、オレは海へと突入する。助走の勢いを殺さないよう、尋常じゃなく重い足を動かして、足だけで水面を進んでいく。言葉にすれば簡単だが、
「そんなの、無理です! プールならともかく、波のある海でそんな繊細でぶっつけな作業」
「普通ならその通りだ。だがオレは言った。お前を掴まえる、と」
ぐらぐらと揺れる視界。どうしても沈む足。
理想と現実はまったく違って、オレはバランスを保つので精いっぱいだ。
でも、宣言したことを取り消すつもりはない。オレは約束は守る。自分の言ったことの責任は、絶対に取って見せる。その精神がぶれない限り、
「オレは絶対、倒れない」
歯を食いしばって海に立ち、向かうは仄かな光の下の勇敢な亀。
感覚を、手に入れた。一歩ずつ一歩ずつ、オレは海を渡り歩いていく。いいや、歩いてはダメだ。走らなければ、泳ぐ亀井一年生には追いつけない。
前へ。
前へ。
もっと、前へ!
「う、あ」
「あと5メートル」
「いや……掴まえないで、先輩」
「あと3メートル」
「掴まえられたら、私の願いが、叶わないのに」
「あと2メートル!」
「……でも」
「あと。1メートル……!」
「私は、そんな先輩のことが、好き、なんですよね――」
手を伸ばして――掴もうとした手が、亀井一年生の髪に触れた、突然。亀井一年生の姿が、オレの目の前から消えた。
「なっ」
ここにきてまだ、奥の手が?
いや、違う。気泡が弾ける音が耳に入った。――急な深瀬に、落ちたんだ。