2.どんなアスリートでも赤信号では止まる
・2・
ガザザッ。
とノイズ交じりの音とともに、沙理奈の右耳につけられたイヤホンから高いソプラノの声が入る。
「亀ちゃん、調子いいみたいね。アキレスとの距離500メートル。やっぱりあなたは天才だわー、あのアキレスと自転車で渡り合うなんて」
「自転車でないと渡り合えないあの人が化け物なんです」
沙理奈はイヤホンに備え付けのマイクで、ソプラノの声の主に言葉を返す。今回の企画の立案者、陸上部顧問の後東先生だ。
先生は始まる前に言っていた通り、アキレスの服か何かに発信器をつけたらしい。そうしてアキレスの位置を割り出して、どこか別の場所から沙理奈に伝えてきている。
沙理奈との距離が分かるということは、沙理奈の服か、この自転車にも発信器が付けられているということだ。
あるいはこのイヤホンマイクか。
それが最もありうるかな、と沙理奈は笑う。
自転車を全力で漕ぎながら、沙理奈は楽しくて仕方がなかった。このままずっとこの時間が続けばいいとさえ思っていた。それほどに沙理奈は、今日のレースを楽しみにしていた。
一週間前の放課後に持ちかけられたこのレース。沙理奈は二つ返事で引き受けた。後東先生にも考えがあるらしいが、それは沙理奈には知らされていない。ただ、「逃げ切れたら1つ願いを聞いてもらえる」という条件を付けていい、と言われたのが効いた。沙理奈の動く理由としては、その1つだけで充分だった。
初めて見たときからの、想いを伝えたかった。
でも想い人はいつも走ってばかりで、普通では沙理奈の言葉なんか届かないだろう。
だからずっと秘めてきた。先生の助力を貰って、彼と同じ舞台に立つことが出来た今日この日まで。
今日。この想いを伝えるチャンスは、今日しかない。だから、走る。
――目の前の信号機が青から赤に変わろうとしている。間に合うか?
「間に合う」
沙理奈は叫んでペダルに力を込める。これは間に合うコース。そのあとは少しゆっくりでもいい。次の信号はそれでも青で通過できる。その次は一気に漕いで、そしたら右に曲がってさらにダッシュ。
勝つためのコースは、頭に叩き込んである。
……実は、グラウンドから町へとレース会場を広げた今、必要なのはスピードより何より、ペース配分だ。どんなアスリートでも赤信号では止まる。つまり、相手が赤信号で止まりつづけ、自分が青信号で通過しつづければまず追いつかれることはない。
最初に貰った30秒分のアドバンテージ。そのアドバンテージと、先生と二人で一週間の間に検証した赤信号の間隔表。それがあれば、沙理奈を生かしアキレスを殺すようなルートを作成することは可能だ。今頃、アキレスは1つや2つどころではない赤信号に引っかかって地団駄を踏んでいるだろう。
それくらいのハンデがなければ、やってられない。本当に、アキレスは早いのだ。
ガザザッ。
しかし、再びノイズ交じりの音とともに聞こえた先生の声は――焦っていた。
「やばいわ亀ちゃん、アキレスが、空、飛んでる」
「え?」
それはイカロスじゃないのだろうか。
「誤算だったわ……こっちの動き、読まれてるみたい。早くあの場所に向かったほうがいいわ! パターンD、奥の手よ!」
「わ、分かりました……?!」
どういうことなのか分からないが、とにかく沙理奈は針路を変えた。今までのパターンAは、あくまで自転車で追いつ追われつを繰り返すパターン。それで追いつかれるようなら、B~Eまでは別の手を用意してあった。
パターンDはそのうち、2つある奥の手のうちの1つ目。まさかこんな早く使うことになるなんて。
空を飛んでる、と後藤先生は言った。
いったいそれは、どういう――
「ああ、もう来てる! 上! 避けて!」
イヤホンから声。つんざくような大きな。上を見ると、夕暮れの朱に染まった空に、鷹の目のように鋭い瞳を光らせてこちらを見ているアキレスの姿があった。空中に。まるで、空から落ちてきたみたいに。
ううん、空から落ちてきたんだ。正確には、そこのビルの3階から。
大神、秋廉。
アキレスの申し子は、短距離や長距離だけではなくて。
走り高跳びと走り幅飛びにおいてもその才能を遺憾なく発揮していることは――沙理奈が一番よく知っている。
でも、だからって。
「家の屋根を飛び渡って……信号どころか道そのものを無視して、ショートカットしてきたっていうの!?」
沙理奈は驚くが早いか、方向転換を試みる。
でも出来ない。大通りに面した狭い歩道には近くに脇道もない。
多分これはアキレスの術中。完全に、狙われている――!
予想くらいはするべきだったのかもしれない。差がある程度開けばアキレスは沙理奈を見失うこともありうる。
だが、高い場所、家の屋根の上に居続ければ。走り幅跳びや走り高跳びの要領で屋根を渡り続ければ、アキレスは沙理奈を見失うことなく、しかも差を縮められる。
アキレスには、それが出来る。
……沙理奈が恋をしたのは、そういう人だった。
「これで終わりだ、凡百なる亀よ!」
いまだに涼しい顔で、これが当たり前だっていうみたいな顔をして、アキレスは亀に、手を伸ばす。
沙理奈はその手に掴まれたかった。
でもそれはまだ、今じゃダメだった。