1.アキレスは亀に追いつけない
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「先輩。先輩は私に走って追いつけますか?」
いつものように居残り練をした後だった。
部活終わりのグラウンド、ロッカールームから出てきたオレに向かって一年の女子が1人、畏れ多くもそんなことを言ってきた。長い前髪をヘアピンで上げて、学校指定のジャージを着ている。ロッカールームに入る前には見かけなかった。待ち伏せしていたのだろう、珍しい。
「追いつけますか? その足で」
「当たり前だ。オレを誰だと思っている。大神秋廉様だぞ」
扉を開けて帰ろうとしていたオレを遮るように前に立ち、なおも女子は言葉を紡ぐ。こちらを挑発するような、やけにツンとした反抗的な目に、オレはつい声を荒げてしまった。
というかこいつは誰だったか。
ジャージの名札には亀井と書いてあるが、陸上部に居ただろうか。覚えがない。
覚えがないが、全国に出場できる足を持っているこのオレにケンカを売っているのは間違いない。
ジャージの肩の線が赤いから一年だろう。三年のオレにケンカを売るとはいい度胸だ。
「では証明してください。私にその足で、走って追いつけることを。今から30秒目をつむって数えていてください。私はグラウンドの向こうまで逃げますので、私を掴まえてください」
不敵な態度を崩さないままに、亀井一年生はさらにオレに迫る。
いよいよこれで明らかだ。こいつ、部活終わりで疲れているオレになら勝てると思っているのだろう。誰だか知らんが小賢しいやつだ。そして見通しが甘い。
「いいだろう」
オレは目をつむって仁王立ちをした。
1秒、2秒。オレの体内時計は正確に30秒を刻み始める。
「期限は今から3時間です。負けたら私の言うこと、なんでも1つ聞いてくださいね」
ふざけたことをぬかした亀井一年生は、ガサゴソと何か音をさせたあと逃げ出し始めたようで、気配が近くから消えた。
オレは脳内でシミュレーションする。この中学のグラウンドは縦に400メートルほど。ロッカールームは端にあるから、30秒なら早いやつでグラウンドの半分ほどまでは渡るか。
悪いがオレは速い。そしてバテない。
向こうはだんだんバテていくだろうから、正味2分あれば追いつけるはずだ。3時間などと、たわごとを言ったものだ。オレが居残りで2時間走っていても息を切らしていないのがどうしてなのか、教えてやらねばなるまい……29秒、30秒。
「それでは追いかけさせてもらうぞ、亀よ……って、あ?」
「ええー!いいですよー!」
目を開き、自然な体勢からスタートダッシュをしたオレは、遠くに……グラウンドの向こう、校門のところでオレに手を振る亀井一年生の姿を捉えて唖然とした。
亀井一年生は、自転車に乗っていた。
は? 自転車?
「ちょっと待て、それは聞いてないぞ!」
……いやしかし。ルールでは確かに、向こうが自転車を使ってはいけないとは一言もない。逆にオレは、「この足で、走って追いつくこと」を念押しされている。悔しいがいい手だ。
オレにひとしきり手を振り、オレが亀井一年生の姿を確認したことに気づくと、自転車に乗った亀井一年生は校門から出て、学校の外へ走り始めた。
「グラウンドの向こうまで逃げます」と言っていた。なるほど確かに、グラウンドの向こう側にある町や海は全部「グラウンドの向こう」と言えるだろう。つまり亀井一年生は、最初から学校の外に逃げるつもりだったのだ。
言葉のあやとりでオレを翻弄するとは。どうやら向こうは、気まぐれでオレに挑んで来たわけではなかったようだ。
本気だ。本気で、絡め手を使ってでもオレに勝つ気で、戦いに来たようだった。
面白い。
受けて立とう。
「すぅ――」
オレは息を吸う。体の隅まで酸素を行きわたらせる。体を活性させる。脱力してパフォーマンスを上げる。
全身の筋肉に信号を送る。今から走る、だから働け。
そして、一気に息を吐く。
「はぁっ!」
地面を蹴る。
風を感じた次の瞬間、オレは風と同化していた。目の前の風景を後ろに送って、頭の中の余計な思考を振り切って前に進んでいく。
オレの名前は大神秋廉。神のアキレス腱を持つ男だ。女子の漕ぐ自転車よりも速く走れないで、神の名を語ることなど出来はしない。
「さて、知恵を使った亀よ……お前が相対したのはウサギではなく、神だということを思い知らせてやろう」
同時に、自転車でひた走る亀井一年生がこんなことを呟いている気がした。
「無理ですよ。アキレスは亀に追いつけない。そしてあなたは、私の恋人になるのです」