a seal floating
12オンスのカップを置いた。
机は朝露に濡れている。庭のスプリンクラーがブレイクダンスのように乱れた回転を繰り返している。
餌やりのポットは軒下に吊られたままじっとしていた。
時折残像めいた羽ばたきとともにハチドリがやってくる。
不思議なほどに静かな朝だ。柳田はまだ開ききらないまぶたを手の甲でこすると、反対の手でカップを口にした。
苦みの中にフルーティな香りが弾ける。
最近行きつけのコーヒーショップは宿のオーナーが教えてくれた。
ゆっくりと立ち上がり、空を見上げる。
白い綿菓子じみた雲は遠くでランニングする女性と同じくらいの速さで漂う。
グースがけたたましい鳴き声を水面に落としながら滑空していく。
少しずつ温かくなっていく体に、柳田はふと歩いてみたくなった。
なぜあの店員は8オンスを買うと顔をしかめるのだろう。
コーヒーショップの朝番は決まって黒髪のカールした女だ。
12オンスだからといって手間も価格も大差ないのに。
16オンスならばもろ手を挙げて喜んでしまうのか。
芝生を横切り、カップを手にしたまま信号機のある交差点を目指す。
海沿いに歩いていると、流木の奇怪な形状に、ここに来た理由を重ねてしまった。
「夢って叶えるためにあるんだよ?」
パレットにのせた筆先がずれて赤と黄色が混じった。
若かりし頃の沙智子がにっこりと笑みを浮かべている。
沙智子は長かった髪をばっさり切ってしまったけれど、あのときは好きなアイドルに憧れて伸ばしていたのだっけ。
オレンジ色の絵の具を白で延ばしていくと、幾つもの筋が出来上がった。絵を描くことよりも様々な色相のオレンジを創ることが柳田の使命であるような気がした。
大学を卒業して、すぐに就職した。
お金を稼ぎ、稼いだお金で車を買った。
買った車で道があればどこにでも行けた。
くねくねした山道に、都心環状線、泥だらけのオフロードであっても造作もなかった。
夕陽を見に誘われて、沙智子を乗せて海へ通った。
国道の景色は今でも鮮やかに思い起こすことができる。
茜色に染まった灯台が見えてくると、沙智子はシートベルトを外した。まだ早いよ。いいのよ、はやる気持ちが抑えきれないのよ。
その日は道が封鎖されていた。
駐車場が地盤沈下の影響で使用禁止であることが理由だった。
「ここに車を停めて行けばいいわよ」
沙智子は通行禁止の看板の前で振り返って言った。
真っ直ぐ海までの道は続いているから、歩いていくことはできる。
赤く水平線に揺らいでいる太陽に招かれるように、沙智子は看板とチェーンを跨いでいる。
「どうしたの?」
沙智子の顔は逆光で暗くなっている。
柳田は運転席でハンドルを握りしめたままうつむく。
ブレーキを踏んだ右足は段々痺れてくる。
窓の隙間から流れ込んでくる潮風は、ノイズとなって沙智子の声色をかき消していく。
「どうしたの?」
ハッとして顔を上げると、子どもが目の前に佇んでいた。
電信柱ほどの大きさの流木に立っている子どもは、その手にも枝分かれした流木の小片を携えていた。
「ここは?」
「港の突端だよ、ほら見て」
子どもが流木で指し示す方角には、大小様々な船が停泊している。
足元は砂礫だらけで、たくさんの人々の足跡が放射状に散らばっている。
大きな流木の上を軽やかに駆けてきた子どもは柳田に向かって得意気に海の説明をする。
その身振り手振りが健気で、柳田は背をかがめる。
「ここはね、シャチが来るんだ」
「ほう、シャチは群れで来るのかい」
「そうさ。それにとっても大きいんだ」
砂地にシャチを描こうと、子どもは邪魔な小石を足でどかし始めた。
まっさらで平坦な砂地が子どもの手によって隆起しては沈んでいく。笑顔で黙々と作業をしている。
柳田は子どもの乗っていた電信柱ほどの流木へと歩みを進めた。
流木の先端は港の行き止まりで、そこからは広大な海が横たわっている。
朝陽に照らされた海面が光の粒を乱反射させる。
柳田は靴を置き、靴下を脱ぐ。
ジャケットを綺麗に畳んで、その上に載せた。
ちゃぽん、と水飛沫が上がり、子どもは振り返る。
足元にはシャチの半身が出来上がりつつあった。
海には波紋が現れて、黒い塊がすいーっと浜辺から遠ざかっていく。
子どもはその姿をアザラシに良く似ていると思った。
やがて黒い塊はどこかに消えて、オレンジ色の太陽がシャチの完成を見届けた。




