第7話 秘密基地は秘密のにおい!
ひょうたん湖の岩場にふわっと浮かび立つと、「ピィ」と肩にキイロが降りてきた。こういうときだけ素早いやつ……。
温泉が染み出しているのか、湖のそばだけ湯気が立っている。濡れた黒い岩には雪がほとんど残っていない。
その岩場の一角に大きな岩が縦に裂けたような割れ目があった。奥にはぽっかり口を開けた狭い隙間。
ドクリ、と胸が大きく震える。
「……ここだ。ぜったい、ここだ!」
隙間の高さは今のオレより少し低いくらい。前はもっとぐぐっと頭を下げてくぐった気がする。……うん、ぜったいそうだ。栄養不足じゃない過去のオレは、今のオレの倍でかかったし!
「行くぞ、キイロ」
「ピィ」
光球をもう片方の肩に浮かべて、湿った黒い岩の隙間へと潜り込む。
一瞬ひやっとしたけど、奥に進むほど妙にぬるい。湿度も高い。 光球の光が少し白く散る。
そして大きな岩のあいだを抜けて行き当たったのは、縦・横・高さがそれぞれ一メートルほどのちいさな空間。
「――めちゃ狭っ! ここ、洞窟じゃないじゃん!!」
大人が入れない岩の隙間。
――そうだ、だからこその秘密基地だ!!
一人で探検して、虫にびっくりして、オレしか入れないってのが気に入って……そんで、入口まで侍従に荷物を運んでもらって、 よいしょって袋を運び込んで、毛布にくるまって……うん、ぜったい、ここになにか置いたはず!
にしても、このにおい……?
「……なんか……くっさ」
肩の明かりを強めると、足元に黒い粒が見えた。岩の黒さとは違う、粉っぽい黒がびっしりコケみたいにくっついてる。
壁や天井には、さらに大きい黒い点々……?
「これ、まさか……フン!?」
浮いててよかった! 心底、魔法に感謝!!
その時、天井の点のひとつが動いた。
「え?」
いや、よく見れば天井ぜんぶがもぞもぞ動いてる!
大きい黒い点々、これぜんぶ一匹一匹の――小動物!? いや、コウモリ型の小型魔獣・血翼仔蝙だ!!
一番近くの血翼仔蝙が天井すれすれから急降下してきた。
「うわっ!?」
近すぎて避ける暇なんてない。
空気ヘルメット被っててよかった! 自分の魔法にまた心底、感謝!!
「ピィィ――!」
だけど驚いたキイロが、ぼとっ、とオレの肩から落ちる。
さっきの血翼仔蝙がすぐさま突っ込んできた。
「――っ、危なっ!」
反射的にかがんでキイロを拾い上げた。けど、動きにつられたのか、天井の群れが一斉に飛び立った。
バサバサバサッ――!!!
狭い空間で何十もの羽音が跳ね返って、響く轟音。
黒い影と爆音の渦!! エアバリアのおかげで直接は当たらないけどすっげーうるさい。なによりフンが! 羽ばたきで巻き上がるフン臭、サイアク!!
「あー、もう、まとめて洗い流してやる!」
キイロを胸に押し当てて、全身から魔力放出!
「ぜんぶ流れろおぉぉぉ!」
どばぁああああっ――!!!
噴き出したのは空気中の水分を一気に集めて濃くした高密度の水。
狭い空間だから広がる勢いがすさまじい。水圧で天井・壁・床にこびりついたフンが一気に剥がれて浮き上がる。
乾いたフンは水を吸ってふくらむ → 浮く → 流れる、で一瞬。 血翼仔蝙も軽い体が水流に負ける。
水の流れの向きと速さは完璧に制御。フンも魔獣も空気の汚れも、ぜんぶがぜんぶ渦に巻かれて岩の隙間へと押し流されていく。
空間根こそぎ洗浄完了!!
「よし、きれいになった!!」
そう思った瞬間、ぽたっ、ぽたっ。天井から水滴が落ちてきて、空気ヘルメットを叩いた。
「うわっ、湿気! 乾燥、乾燥! 風っ!」
ぶわっと乾いた強風を送り込む。一瞬で空気がからっと静かになった。
「……ふぅ。これでほんとにスッキリ。」
でも――見回した先には、なにもなかった。 さっきまでのフン臭も湿気も消えたけど、ただの空っぽ空間。
「……あれ? なにも……ない……」
八歳のオレがくるまったはずの毛布も、たぶん運び込んだ袋も、中に入ってたはずのなにかも、すべて跡形もなく消えていた。
いや、最後にここに来たのは、十七年前。
経年劣化+魔物のフン尿まみれで、どうせ使い物にはならなかっただろうけど──だったらオレ、なんのためにここまで……?
がくっ、と両手両足をついて崩れ落ちる。
「ピィッ!」
岩の上に降りたキイロが、なぜか勝ち誇ったように鳴いた。
「おまっ……助けてやったのに!?」
「ピィピィ」
笑ってる! こいつ絶対、オレのことバカにしてるだろ!?
「この恩知らず! 今夜の晩メシにしてやるからな!」
「――そこにおるのは誰じゃ?」
岩の外から静かに、しかし確かに声が響いた。
高すぎもせず低くもなく、澄んだ清らかな音色の謡うような抑揚。抗いがたいほど魅力的で、耳に触れた瞬間、胸の奥の深いところまで瞬時に染み込む。
そして圧倒的な威厳でだれもを従わせる――いや、自然に頭を垂れさせる。
たった一声でわかる。あの人以外にはありえない声――。
(この声、まさか? でも、そんなはずっ……!?)
この時期、この場所にあの人が存在するはずがない。
だって、あの人は……って、あれ? 皇帝が代わったってことは、代替わり……?
と、きらっと一閃の光が走った。
刹那、ズドォォォォォンッと入口の岩が半分消える。
「――はあっ!?」
この空間の入口を塞いでいた巨大な岩。真ん中に縦の亀裂が走るその巨塊の上半分が丸ごと消し飛んでいる。
まぶしい太陽光。その逆光に、ひとつの影が立っていた。
長身の軍服姿。マントの裾が風にはためき、片手に細身の長剣。白銀の刀身に光の残滓がほのかに揺れる。
ひとつに束ねられた長い髪が淡く縁取られ、陽光を背負った輪郭が神々しいほど鮮明だった。
(光刃の剣! まさか、ほんっとの、ほんとに本人!?)
混乱で空気魔法が解けて、その場に座り込むオレ。
軍服の人物は流れるような動作で剣を鞘へ収めた。そして岩の上に片膝をついて、長い腕をこちらに伸ばしてくる。
「ちょっ!? なんっ――!?」
襟首をつままれて、ぶらーんと宙づり。子猫かよ!? これ、ぜったい抗議案件!!
だけど、顔を上げかけて――息が止まった。
(このっ、におい……!)
聖光樹の清冽な香りと光花の気高い香り。
どちらも皇帝と、皇帝に許された者しか纏えない稀少な香水だ。もっぱら皇帝が聖光樹、皇后が光花って慣習で、ふつうは単体でもインパクト最強。
けれど、特別にこの二つを同時に纏うことが許された人がいる。
光を集めた淡金の髪。森のように深い緑の瞳。もう五十を過ぎているはずなのに、戦場の女神みたいに勇ましく美しい。
二つの香水の調合から生まれる至高の香り。それすら霞むほどの強烈な存在感を放つ女性。
前世のオレの母親、皇后ティエルシア――。
「小さいのう」
その人は、自分の顔の高さまで持ち上げたオレを見つめて言った。
「……は?」
「さては、そなた……ルクにてあらむ? この小ささ、この軽さ――まぎれもなく、あやつそのものなり」
「は!? いやいやいや! 前世のオレはもっとデカかった! 百倍デカく育ってただろ!?」
「やはり戻り来たりしのじゃな……妾の愛しき、いと尊き吾子よ」
(あー……引っかかったあぁぁぁぁ!!!)
オレのバカバカバカバカ! ――って、あれ? でも、バレて困ることある? むしろ歓迎? これでオレ、皇子様に復活!? いいじゃん、押せ押せ! セレブ生活カムバック!!
と思いきや、ぼそぼそ話す声が聞こえた。
「……吾子とは、まさか……!?」
「魔物や幻影ではないようですが……」
「いや、しかし、さきほどの魔法といい、あの結界を越えてきたことといい、何らかの関係が……」
その人の後ろにデカい影三つ!
そりゃいるよね、お付きの騎士たち。男二人女一人。三人ともめちゃくちゃ困惑した表情。
うん、わかるよ。だってルクレオン復活なんて常識的にありえないし、生まれ変わりなんてこの国の宗教に存在しない!
それに冷静になれば、七歳から皇子様生活やり直し? え、また十歳から学院に行くの? 帝王学も政治も勘弁だったけど、それ以上に、追試に追試を重ねたあの無間地獄――…。
厨二病呪文・丸暗記マラソン!
魔法陣・魔導陣のフリーハンド真円チャレンジ!
舞踏・礼儀作法・笑顔の三拍子そろった社交フルコース!
あんなの、もう二度とやりたくねーっ!!
でも、オレがなにか応える前に、「きゅるるるるるっ」と腹の虫……。
森の深さを溶かした瞳がふっと笑う。
「そなたの好物、心ゆくまで作らせようぞ、ルク」
ああなんか、もうなにもかもどうでもよくなって、「うん」って言いたい。だけど、うなずくより先に全身の力が抜けた。
「――吾子よ!」
あせったような声。強く抱きしめられるぬくもり。
大好きな大好きな母上の香り――でも、なぜか、意識が落ちる直前に感じたのは、草のにおいだった。




