第8話:光の届かない場所にて(後編)
深い、深い、濃紺の底。
意識は粘り気のある闇に溶け、俺という輪郭を失っていく。
神様なんて、無理だったんだ。
誰にも見つけられずに死んだ あの日の雨の音が、耳の奥でずっと鳴り響いている。
俺を呼ぶ声は、泥に吸い込まれて消えていく。
……ピッ、ピッ。
不意に、無機質な電子音が響いた。
鼻腔を突くのは、煮詰まったおでんの出汁と、安っぽい揚げ物の脂の匂い。
そして、不快なほどに明るく、冷たく俺を照らす蛍光灯の青。
「丸尾さん、無理しすぎだって。顔が廃棄直前の弁当みたいに、ボロボロになってるよ。」
レジカウンターの向こう側。
名札に『サトシ』と書かれた、いつもの気だるげな青年が、バーコードリーダーを手にひらひらと手を振っている。
「……サトシ。俺、神様になったんだよ。
でも、何も救えなかった。
光を当てれば当てるほど、闇は深く、大きくなるんだ。」
「神様ねえ。あんたが一番向いてない職業だ。
大学で物理専攻してたのに、就活失敗して、
畑違いの営業やらされてた あんたには、荷が重いって。」
サトシは、賞味期限の切れた弁当を 俺の前に無造作に放り出した。
「客に頭下げて、無理やり笑顔作ってた頃より、今の方がずっと苦しそうだぜ。
深夜のコンビニの明かりなんて、誰の人生も救わないけど、ただそこにあるだけで、
救われるやつもいるだろ?」
そうだ。俺は、理屈で考えすぎていた。
光は、ただの粒子ではない。それは波であり、干渉し合うことで、別の形に変わることができる。
無理に笑顔を作る必要はない。
闇があるなら、それを打ち消す波を 重ね合わせればいいだけだ。
意識が、急速に熱を取り戻していく。
――現実の世界。
地下空間は未だ、濃紺の絶望に包まれていた。
俺に触れようとする、フィオナの手が見える。彼女は右目に装着した 魔導工学モノクルを叩き、激しく明滅する数値を睨んでいた。
「マロー様、離れて。今のあなたの波長は、この空間を自己崩壊させるわ。」
「……いいんだ、フィオナ。」
俺の言葉に、彼女の獣耳がぴくりと動いた。
濃紺だった俺の体から、淡く、けれど鋭い、規則的な振動を伴う白光が 波紋のように広がり始める。
「波長が……、反転した? エネルギーの位相を、闇に合わせて逆転させているの?
そんな精密制御……、神業を越えているわ!」
俺は「浄化」を止めた。
闇を消し去ろうとするのではなく、闇の波長を読み取り、その対極にある光の波を等しく重ね合わせていく。
理系出身の俺が、営業職で培った、相手に合わせる「同調」の技術。それが今、光科学の奇跡として結実する。
光が闇を包み込み、互いに相殺し合いながら、穏やかな「灰色」へと 中和されていく。
地下空間に、柔らかな街灯のような光が満ちた。
その瞬間。俺の体の中で、何かがパチンと弾けた。
新たな知見、新たな境地。それが魂のレベルを、一段階上のステージへと 強引に押し上げたのだ。
脳内に、澄み渡るような 無機質な「天の声」が響き渡る。
『個体名:マロー。
自己の本質たる「欠落」の受容、および新たな概念「中和」の獲得。
これより個体ランクを、「光の集積体」から
「共鳴する光導神」へ 進化させます。』
頭の中に響く無機質な声。
直後、俺の体は制御を失い、全波長の光を放射し始めた。
オーロラのような、七色のレインボー発光。あまりにも美しく、あまりにも、品がない。
「……素晴らしいわ! 羞恥心すらエネルギーに変えて、
全波長を同時に出力するなんて!
ああ、このスペクトル、芸術的すぎて鼻血が出そうだわ!」
フィオナがモノクル越しに、恍惚とした表情で俺を絶賛する。
「やめてくれ! 見ないでくれ、恥ずかしい!」
俺の叫びと共に、レインボーの光が激しく明滅する。
カイルたちが呆然とする中、俺はあまりの羞恥に、たちまち鮮やかなピンク色へと 発光色を変えた。
だが、その時だ。中和された空間の中央に、目に見えないほどの、小さな「亀裂」が走った。
ヒュッ、と。冷たい風が吹き抜ける。
それはこの世界の風ではない。
雨の匂いと、湿ったアスファルトの匂い。
そして、俺の親友が好んでいた、安っぽいタバコの煙の香り。
(……丸尾さん?)
どこからか、幻聴のような声が聞こえた。
俺を「マロー様」ではなく、かつての俺として呼ぶ声。深夜のレジで、何度も交わしたはずの、あの適当で温かい声。
亀裂は、俺の最強の光と闇のエネルギーが干渉したことで 偶然生まれた、異世界への「窓」だった。
窓は一瞬で閉じたが、俺の胸は、かつてないほど激しく波打つ。
(サトシ……。お前、そこにいるのか?)
俺を俺として知る、唯一の友へ。運命の針が、静かに進み始めた。
俺の光は今、異世界への扉を叩いたのだ。
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