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コグニケージ ― 心を管理する世界で ―  作者: waseyo


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4/4

配信の向こう側

「……看守、か」

その言葉は頭の中を一度だけ巡り、

すぐに重さを失う。

的確ではあるのだろうが、

今さら考え続けても、意味はなさそうだ。


それでも、生活は続く。

少なくとも、制度の上では。


手首に、生体データを監視するためのチップを埋め込まれることは、

社会的な意味での「排除」とは限らない。

私のように軽度リスク対象と区分されている者であれば、

定められた手順を守る限り、

日常は一応、これまで通りだ。


定期的なデータ同期。

地域監護ルールの遵守。

異常値を出さないこと。


「問題」を起こさなければ、

以前と同じように暮らせる、という扱い。


たとえば今。

私がすることは、

電車に乗り、

都市の外縁部にある自宅へ戻るだけ。


夕方の車内は、

ゆっくり動く密閉空間のようだ。

人は中に収められ、

線路に沿って、一駅ずつ運ばれていく。


ドア脇に身を寄せ、

窓の外を見る。


夕陽の残光が高層ビルのガラスを覆い、

縁に沿って滑る。

街全体が、

どこか整えられ、静まって見える。


高架下の商業区にはネオン。

人の流れ。

車両、広告スクリーン、自動アナウンス。

すべてが、それぞれのリズムで動いている。


余計なことを考えなければ、

この街は、いつもと変わらない。


数時間前の死も、

ハトカゴでの出来事も、

ただの異常ログとして処理され、

静かに上書きされた——

そんな気さえしてくる。


電車は都心を抜ける。

高層ビルが次々と流れ、

見慣れすぎて、感情が動かない。


記憶の中でも、

この景色はずっと同じだ。

〈エヴォリューション〉チップがなかった時代でも、

人々が見ていた光景は、

きっと大きくは違わない。


車内は混雑しているのに、静かだ。

走行音と、

意識的に抑えられた咳払いだけが続く。


似たような制服の人々が俯き、

スマートフォンの冷たい光に照らされている。

瞳に映るのは、別の世界。


ときおり顔を上げる者もいるが、

視線はどこか空虚で、

一日の力を使い切ったように見える。


同じ車両にいても、

誰も他人を見ようとしない。


たぶん、それが

暗黙に許されている状態。


そんな考えが、

一瞬だけ浮かぶ。


この車内にも、

私と同じ立場の人間がいるのかもしれない。

手首の下に、

目に見えない監視装置を抱えたまま。


だが、

誰も確かめない。

誰も尋ねない。


軽度リスク対象は、

人混みに紛れる。

名指しされない限り、

外見だけでは分からない。


左隣の、皺の入ったスーツの男かもしれない。

右側の、視線を避ける女性かもしれない。


だが、

そうしたことは口にされない。

互いに、

表面的な「正常」だけを保てばいい。


電車は進み、

駅名が一つずつ読み上げられる。


冷たいドアにもたれ、

循環した空気を吸い込む。


少なくとも今は、

すべてが「許可された範囲内」。

そう思うことにする。


それでいい。

たぶん。


車両がわずかに揺れる。

急停車でも、カーブでもない。

線路の継ぎ目によくある振動。


無意識に体勢を整える。


その瞬間、

視線を窓から戻すと、

端のほうで、

何かがちらりとずれたように見える。


形ははっきりしない。

一瞬の、色の違和感。


瞬きをすると、

もう分からない。


画面を見すぎただけかもしれない。

ハトカゴの照明に、

長く晒されていた影響だろうか。


電車は変わらず進む。

街も、安定したまま。


先ほどの感覚は、

錯覚だと思うことにする。


そのとき——

ポケットの中で、

スマートフォンが小さく震える。


カロリンではない。

あの過剰に明るい通知音は鳴らない。


表示されたのは、

特別に設定している配信通知。

『フォロー中の Nemesis が配信を開始しました』


……配信?


一瞬、思考が止まる。


Nemesis は、

特別有名というほどではないネットシンガーだ。

一年ほど前から、

不定期に動画を投稿している。


フォローしているのは半年ほど。

コメントじゃない。

たまに「いいね」を押すだけの、

気づかれない距離。


生配信で歌うのは、これが初めてかもしれない。


ほとんど反射的に、画面を開く。


映像が立ち上がる。


中央に映るのは、

暗色の服を着たピンク髪の少女。

金属製の支柱にもたれ、

背後には冷色のデータ映像。

作り込まれた仮想空間のようにも見える。


彼女は、軽く目を閉じている。


次の瞬間、

イヤホンから歌声が流れ出す。


「命のフレーズが

 静かに色を失っていく……

 やさしい嘘に包まれたまま

 声の出し方を忘れてた……」


澄んだ声。

けれど、その奥には、

少し力を入れただけで壊れそうな脆さがある。


私はドアにもたれたまま、

最初はただ聴いているだけだった。


——光が弱まる場所で、

影が重なり、

輪郭が遅れていく。


「この檻の奥で

 私はまだ歌ってる……」


その瞬間、

頭の奥で、

何かに触れられたような感覚が走る。


痛みではない。

だが、はっきりした圧迫感。


耳鳴りが強まり、

電車の走行音が遠のく。


現実と画面の境界が、

少しずつ曖昧になっていく。


思わず、スマートフォンに視線を落とす。


——映像が、どこかおかしい。


穏やかに流れていた冷色の背景が、

前触れもなく歪み始める。

色が沈み、

不自然なフィルターを重ねたように見える。


線は揺れ、

細かなノイズが混じる。


画面中央の少女は、

わずかに体を揺らしながら、

それでも歌い続けている。


声は抑えられ、

拍だけが残る。

反響のない空間で、

何かを確かめているようにも思える。


支柱に添えた指先が、

強くこわばっている。


コメント欄に視線を移す。


「今、少し止まった?」

「調子悪そう」

「声、安定してないな」


見ているのは、

彼女の様子だけ。


背景の変化には、

誰も触れていない。


……私だけが見ているのだろうか。


そう考えて、

すぐに打ち消す。


ありえない。

きっと、こちら側の問題だ。


顔を上げ、車窓の外を見る。


夕暮れの街は、

何事もなかったように後退していく。

ネオンが一つずつ灯る。


異常は、どこにもない。


だが、

再び画面に目を落とすと、

あの違和感は消えていない。


歌声は、次第に力を帯びる。

何かを必死に支えようとするように。


そのとき——

画面の中の少女が、

ごく短く、だがはっきりと動きを止める。


目を開き、

一瞬だけ視線を落とす。


そして、

最初から決めていたかのように——

プレフィルド式の注射器が、

彼女の指に現れる。


コメント欄が、一気にざわつく。


「ちょっと待って!」

「鎮静剤じゃない?」

「オーバードース……?」


迷いはない。


針が皮膚に刺さり、

透明な薬液が押し込まれる。


少女の身体が大きく震え、

何か見えないものに抗うように息を詰める。


やがて、

不自然なほど穏やかな表情が、

ゆっくりと顔を覆う。


彼女は一度、深く息を吸う。


「堕ちていけ 罪の行き着く先へ

 燃やして この偽りの舞台を

 この鼓動が止まるその前に

 見られているこの心臓は

 いったい誰のために鳴ってるの?」


その瞬間——

意識の奥で、

何かが強引に断ち切られる。


車内の輪郭が薄れ、

代わりに、

破片をつなぎ合わせたような空間が広がる。


無数の断片が宙に浮かび、

それぞれが歪んだ現実を映している。


その奥で、

冷たい「視線」のような感覚が、

ゆっくりと立ち上がる。


形はない。

境界もない。


ただ、

そこに在る。


画面の少女を見ているようで、

同時に——

こちらも見られている気がする。


歌声は次第に安定を失い、

引き裂かれ、無理やり繋ぎ直されたように響く。


彼女はもう、カメラを見ない。

俯いたまま、

見えない何かに対して、

最後の確認をするように。


最後の音が、

静かに落ちる。


——配信、終了。


次の瞬間、

画面は完全に暗転する。


『配信は終了しました』


すべてが途切れる。


断片は消え、

あの視線も、遠のく。


耳に残るのは、

電車の走行音と、

少し速くなった自分の呼吸だけ。


黒い画面を見つめたまま、

体が動かない。


コメントだけが、

なおも流れ続ける。


「音、消えた?」

「気を失ったのか……」

「もう重度だろ」

「管理側、もう動いてるな」


ドアにもたれ、

私は言葉を失う。


あれは、

私が知っている

普通のシンショクではない。


結果だけを見れば、

警察や当局が後処理に向かうのだろう。

彼らにとっては、

定型的な対応にすぎない。


便利な仕組みだ。


脳内のチップも、

手首の下の監視装置も。


四十年前、

人々が〈エヴォリューション〉を

新生児の脳に埋め込んだときも、

おそらくは、

今と似たような気持ちだったのだと思う。


効率のため。

誤解を減らすため。

人と人との間にある隔たりを、

少しでも小さくするために。


そうして始まったはずのものが、

たった一人の女性の選択によって、

気づかないうちに、

地獄へと向きを変えてしまった。


そして生き残った人々は、

別の、しかし同じくらい

もっともらしく見える管理の仕組みを用いて、

「リスク対象」と呼ばれる人間を

区別し、

印を付け、

管理するようになる。


それは、

悪意から生まれたものではない。


ただ、

そのほうが早く、

そのほうが手間がかからない。

そういう理由だったのだろう。


もしかすると、

人々が初めて、

疑いもなく

「技術は生活を必ず良くする」と信じたその瞬間に、

何か大切なものを、

一緒に差し出してしまっていたのかもしれない。

「ピンポーン」


到着を告げる音。


ドアが開き、

明るいホームの光が流れ込む。


人の流れに押され、

私は一歩、外へ出る。


——ここが、

私の降りる駅だ。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この話で、物語の中でもとても、とても重要な存在が、ようやく姿を見せました。

配信者 Nemesis――

主人公と、画面の向こう側にいる彼女との間に、これからどんな関係が生まれていくのか。

ぜひ、少し先まで見守っていただけたら嬉しいです。


それにしても、電車の中というのは、不思議な場所ですね。

大都市に住んでいると、

「電車に乗っている時間」こそが、一番その街らしさを感じる瞬間なのかもしれません。

皆さんは、電車に揺られながら、どんなことを考えているでしょうか。


そして最後に、

作中で少し触れた「技術は人を幸せにするのか、それとも……」という話について。

これはSFというジャンルの中でも、

作品ごとにまったく違う答えが用意されている、大切なテーマだと思っています。

この物語が、どんな立場に辿り着くのか――

それも含めて、楽しんでいただけたら幸いです。


次回も、よろしくお願いします。

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