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コグニケージ ― 心を管理する世界で ―  作者: waseyo


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3/4

リスク対象

 部屋は広くなかった。

 机と端末、椅子が二脚。

 あまりにも簡素で、

 ここが診断を行う場所だとは思いにくい。


 医師は机の向こう側に座っていた。

 顔を上げ、こちらを見る。


「神城諭さん」


 抑揚のない声だった。

 感情は読み取れない。


 うなずく。


「座ってください」


 言われたとおりに腰を下ろす。

 挨拶も、手順の説明もない。

 医師は携帯型のスキャナを取り上げ、

 私の額の前を一瞬なぞった。


 ピッ――

 短い音。


 端末の画面が点灯し、

 理解できない数値がいくつか表示される。

 医師はそれを一瞥し、

 すぐには口を開かなかった。

 操作パネルに置かれた指が止まり、

 何かの完了を待っているように見える。


「スキャン結果を確認しました」

「脳内チップにおいて、

 ケージ・ウイルスの活性信号が検出されています」


 胸の奥が、わずかに沈む。

 ケージ……ウイルス?


 昼間、

 あの検査装置が顔をなぞっただけで

 警報が鳴った。

 私は、

 単なる誤検知だと思っていた。


 四十年以上にわたり、

 人は生まれたその瞬間から

 〈エヴォリューション〉と呼ばれる

 脳内チップを植え込まれてきた。

 それは文明の一部であり、

 社会が成立するための前提だった。


 四年前までは。

 九条由美。

 彼女が主導したプロジェクトにおいて、

 〈ケージ〉と呼ばれるコードが組み込まれた。

 それ以降、

 チップは単なる補助装置ではなくなった。


 医師は端末の操作を続け、

 こちらを見ない。


「ウイルスは、

 チップの記憶補助モジュールを

 反復的に参照します」

「負の感情に関連する記録を

 優先的に抽出し、

 高頻度で再生します」


 語調は一定で、

 すでに文書化された仕様を

 読み上げているかのようだった。


「一部の個体では、

 その回想が幻覚として表出します」


 無意識に、指先に力が入る。

 何度も、

 思い出したくもない瞬間に引き戻される――

 想像するだけで、息が詰まりそうになる。


「シンショクの致死リスクは、

 主に患者本人の行動制御不能に起因します」


 その言葉に、

 区切りはなかった。

 前後の説明と、

 同じ調子で続けられる。


「……ですが、

 私は何も症状を感じていません」


 口を開いた瞬間、

 自分でも意外なほど早口になっていた。


「記憶のフラッシュバックも、

 幻覚もありません」

「ここに連れてこられなければ、

 今日はただの一日だったはずです」


 医師はようやく顔を上げ、

 こちらを見る。

 疑念でも同情でもない。

 すでに記録された項目を

 再確認するような視線だった。


「シンショクの判定基準は、

 主観的な自覚症状ではありません」

「ウイルスがチップ内で

 活性化しているかどうかです」


 言葉が出てこない。

 これまでの人生が平穏すぎて、

 強く引き出される記憶が

 存在しないだけなのかもしれない。

 だが、

 そのような説明が

 ここで意味を持つことはない。


「活性が確認された時点で、

 リスク対象と見なされます」


 声は変わらない。


「PNNによる評価に基づき、

 あなたは常態的な監視および管理を

 受ける必要があります」

「これは個人の安全、

 および社会公共の安全を

 考慮した措置です」


 端末を数回操作し、

 医師は私の背後を示した。


 来たときの扉は、

 いつの間にか閉じられていた。

 金属製の扉は静かに立ち、

 音一つ立てない。


 その場に立ち尽くし、

 近づこうとはしなかった。


 十五分。

 思っていたより短い時間だった。


 手首に視線を落とす。

 皮膚には、

 目に見える痕跡は残っていない。

 少なくとも、外見上は。


 あの異様に鮮明な通知音がなければ、

 背後で扉が閉まる音を聞かなければ、

 すべてが本当に起きたことなのか、

 疑っていたかもしれない。


 技術的に見れば、

 この種のインプラントは

 特別なものではない。

 社会はとっくに、

 乳児が何も理解しないうちから

 チップを脳に組み込むことに

 慣れていた。


 身分、記録、権限、信用――

 生まれた瞬間から、

 私たちはシステムの管理下に置かれている。


 だから、

 手首に個体の生体データを監視するためのチップを埋め込むこと自体は、

 特に問題視されてはいなかった。


 少なくとも、

 理性の上では、そういうことになっている。


 ただ――

 人々はそれに、別の呼び名を与えていた。


「リード」。


 本当に引っかかるのは、

 言葉にしづらい違和感だった。

 痛みでもなく、

 明確な異常でもない。


 一人でいるとき、

 ふと気づく。

 ――部屋の中に、

 何かが増えているような感覚。


 存在は感じられる。

 神経を通じてではない。

 もっと深いところで。


 それは動かず、

 ただ、そこにある。


 首にかけられたロープのように。

 今はまだ緩い。

 だが、

 いつ締まるのかは分からない。


 誘導され、

 廊下へと進む。

 足音は小さい。


 照明は受付より暗く、

 消毒液の匂いが濃い。

 周囲には、

 私と同じ立場の人間がいた。

 壁にもたれ、

 あるいは床に座り込んでいる。


 誰も話さない。

 疲労と緊張、

 そして、

 何かを受け入れてしまったような

 鈍い表情。


 ここに鏡はない。

 いつか、

 自分の顔も

 同じものになるのだろうか。


「九条博士はもう死んだ!」


 男の声が、突然響いた。

 大きくはない。

 だが、異様に耳に残る。


「イワオ・グループは嘘をついている!」

「シンショクは……

 もう治らないんだ!」


 空気が一瞬、止まる。

 視線が上がり、

 すぐに逸らされる。

 応じる者はいない。


 男自身も、

 ここでそれを口にすれば

 どうなるか分かっていたはずだ。

 それでも――

 感情を抑える余地は

 残されていなかった。


 警備がすぐに現れる。

 白い制服、

 密閉されたヘルメット。

 動きは速く、無駄がない。


 警棒が振り下ろされ、

 鈍い音がした。

 続いて、

 身体が床に押さえつけられる音。


 最後に、

 高周波の電流音。


「ジ――」


 小さな音。

 それでも、

 反射的に視線を逸らしてしまう。


 ほどなく、

 すべては元に戻った。

 男は連れ去られ、

 通路は再び静かになる。


 まるで、

 何事もなかったかのように。


 アルコールの匂いが漂う。

 注射器を持った看護師が、

 私の横を通り過ぎる。

 前方で、

 身体を縮めた少女のもとへ向かう。


 針が腕に刺さる。

 薬液が注入されるにつれ、

 震えていた身体から力が抜けていく。

 少女の瞳に残っていた恐怖も、

 ゆっくりと消えていった。


 空気が再び流れ出す。

 鼻を刺す匂いに、

 思わずくしゃみが出た。


 誰もこちらを見ない。

 さきほどの場所に

 目を向ける者もいない。


 そのとき、

 天井の表示灯が一つ、

 不規則に点滅しているのに気づいた。

 点検が必要なのだろう。


 こんな場所にも、

 不具合は残るらしい。


 息を吸い込む。

 空気は冷たく、湿っている。


 指示に従い、

 私は〈カロリン〉というアプリを

 ダウンロードした。

 ――自分の意思ではない。

 そうするよう求められただけだ。


 画面が点灯する。


「こんにちは、神城さん~」

「私はカロリン。

 あなた専属のヘルスケアアシスタントです!」


 明るい配色、

 誇張された表情。

 その甘さは、

 周囲の灰色とひどく噛み合わない。


「現在の心理カラーは

 『イエローグリーン』です」

「少しリラックスすることを

 おすすめしますよ~」


 完璧すぎる笑顔。

 それが安心なのか、

 誘導なのか、

 区別がつかない。


 隣にいた中年の男が、

 私の画面を一瞥し、

 小さく呟いた。


「……看守みたいなものさ」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


この話で登場したいくつかの用語について、

簡単に補足しておきます。


「シンショク」は、

作中では少し特殊な扱いをされていますが、

基本的には「無視できない精神疾患」だと思ってもらえれば大丈夫です。

それを物語として成立させるために、

脳内チップなどのSF的な設定を足していった結果、

書いているうちにどんどんSF寄りになってしまいました(笑)。


「エッジ・スタビリティ・センター」

通称「ハトカゴ」は、

人が鳥のように管理され、囲われる場所、

そんなイメージから付けた呼び名です。

自由があるようで、実際にはそうでもない。

その違和感を表現したかった部分です。


そして、手首に埋め込まれた監視用チップ。

作中では、私的に「リード」と呼ばれています。

犬の首輪につながるあの紐のイメージですね。

人が人である前に、

「管理される存在」として扱われている感じがして、

正直、あまり気持ちのいいものではありません。


個人的には、

人を「物」や「データ」として扱うやり方が、

どうしても好きになれません。

それが、この作品を

少し重ための「真面目系」作品として書こうと思った

動機の一つでもあります(笑)。


次回も、

この世界の中で生きる人たちの姿を、

少しずつ描いていければと思います。

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