エッジ・スタビリティ・センター
受付ホールの照明は、少し明るすぎた。
眩しいわけではない。
ただ、均一すぎる白さが、視線の行き場を奪っている。
俺は入口付近に立っていた。
足元の床は丁寧に磨かれていて、
つま先の輪郭が、かろうじて映り込む。
少し離れた場所に、受付カウンターがある。
腰ほどの高さの仕切りの向こうに、
淡い色の制服を着た看護師が座っていた。
彼女の前の端末は点灯している。
その光が顔に当たっているはずなのに、
そこにはほとんど表情らしいものが残っていなかった。
「こちらへどうぞ」
声は大きくないが、はっきりしている。
俺は近づいた。
彼女は何も質問せず、
ただ、もう一歩前に出るよう手で示した。
カウンターの下から、
スキャナーが伸びてきて、
一瞬だけ、俺の正面で止まる。
『ピッ』
音は小さい。
看護師は端末に視線を落とした。
「……神城 諭」
俺の名前を、淡々と読み上げる。
思わず、返事をしていた。
彼女は小さく頷き、
指を数回、画面上で滑らせる。
迷いのない、慣れた動作だった。
「システムに、
異常指数の変動記録があります」
「追加検査が必要です」
その言い方は、あまりにも平坦で、
まるで、
すでに想定済みの結果を伝えているかのようだった。
彼女は横のプリンタースロットから、
薄い紙片を一枚取り出し、俺に渡した。
「番号です」
「待機エリアで、順番をお待ちください」
紙を見下ろす。
そこにあるのは、数字の列だけ。
名前も、説明もない。
「……どれくらい、待ちますか」
そう聞くと、
看護師は一度だけ、俺を見た。
冷たい視線ではない。
ただ、答える必要がない、という目だった。
「手続きが完了次第、
お呼びします」
待機エリアは、ホールの反対側にあった。
電子掲示板が点灯している。
「静粛にご協力ください」
「手続きに従ってください」
「評価は順次行われます」
文字の流れは遅い。
少し見ていて、
俺は気づいた。
別に、
内容を理解する必要はない。
ここに座っていること自体が、
すでに「協力」なのだ。
空いている席を見つけて、腰を下ろす。
金属製の椅子の背もたれは硬く、
背中に、かすかな違和感を残した。
姿勢を直そうとして、
すぐにやめる。
隣で、誰かが軽く咳をした。
すぐに、また俯く。
会話はない。
互いに、何も聞かない。
ここでは、
やり取りそのものが、余計な行為に思えた。
番号札を、膝の上に置く。
とても軽い。
それなのに、手放したくなかった。
掲示板の数字は、まだ数人先だ。
時間は、しばらくかかりそうだった。
結局、俺はスマホを取り出した。
何かをするつもりがあったわけじゃない。
ただ、
宙吊りになった時間を埋めたかっただけだ。
画面が点灯した瞬間、
ニュース通知がほぼ同時に表示された。
「本日15時頃、市中心部に位置する
磐岩グループ本社ビルにて、
安全事案が発生しました。
一名の女性が高層階より転落しています」
反射的に、開いていた。
「現場確認の結果、
当該人物は元・磐岩グループ上級研究員、
九条由美博士であることが判明しました」
……九条、由美。
その名前で、
指が一瞬止まる。
「四年前、社会的な健康被害を引き起こした
心蝕性情動障害――通称シンショク。
その発生要因となった
『ケージ』コードは、
九条博士が主導した研究プロジェクトにおいて、
無断で組み込まれた悪性コードであることが確認されています」
「本行為は、
研究倫理およびグループの中核規定に
重大な違反をもたらしました」
スクロールを続ける。
「当グループは、
四年間にわたり対象人物の追跡を継続してきました」
「初動調査によれば、
本日午後、九条博士は
不正にグループ中枢研究区画へ侵入」
「セキュリティシステムは即時に反応し、
規定に基づく制止を試みましたが、
対象人物は極端な行動を選択。
結果として、
このような事態に至りました」
文章は滑らかだった。
まるで、
前もって用意されていた原稿のように。
「現在、当グループは
特別対策チームを設置し、
本件について徹底した調査を進めています」
「同時に、
シンショクの根治を目指した研究開発に
引き続き最優先で取り組み、
社会の健康と安定の回復に尽力してまいります」
そこで、表示が止まった。
最後の一文は、
まだ読み込まれていない。
「磐岩グループは、
常に、より安全で安定した――」
俺は、画面を閉じた。
ディスプレイは暗くなったが、
感情を排した女性の音声が、
まだ耳の奥に残っている気がした。
もし数時間前だったら。
いや、
今日の昼だったとしても。
この説明を、
俺は疑いなく信じていたはずだ。
シンショク。
それは、
ニュースで繰り返される言葉で、
地下鉄でときどき見かける、
どこか違和感のある表情で、
「自分とは無関係な誰か」の話だった。
顔を上げる。
ホールの照明は、
相変わらず均一で、明るい。
どこにも、
「異常」は見当たらない。
だからこそ、
自分が今、
どこに立っているのか分からなくなる。
外にいる人間は、
中で起きていることを、
本当に理解できるのだろうか。
ポケットにスマホを戻し、
視線を、
ホール奥の扉へ向ける。
《エッジ・スタビリティ・センター》
公式名称だ。
裏では、
民間で付けられた呼び名の方が
よく使われているらしい。
――ハトカゴ。
四年前まで、
ここは精神病院だった。
看板が変わり、制度が変わっても、
「中身」まで入れ替わったと、
誰が本気で信じているだろう。
もちろん、
シンショクは
従来の精神疾患と
完全に同一ではない。
判定を受けた人の多くは、
日常生活を続けられる。
決まった時間に出勤し、
働き、
帰宅する。
人混みに紛れていれば、
見分けはつかない。
だからこそ、厄介だ。
外見だけでは判断できず、
次にシステムに指名されるのが
誰なのかも分からない。
社会全体から見れば少数だが、
どの生活圏にも、
一人もいないとは言い切れない程度には存在している。
ある人にとっては、不便。
別の人にとっては、危険。
管理する側にとっては、
不安定要素が
すべて監視下に置かれていてこそ、
安心できるのだろう。
番号札に目を落とす。
それは、
まだ静かに膝の上にあった。
俺は、
まだ待っている。
「673番」
スピーカーから流れた声は、
不自然なほど平坦だった。
一瞬、理解が遅れる。
立ち上がった拍子に、
椅子が床に当たり、
大きな音を立てた。
その音が、
ホールの中でやけに響く。
誘導灯に従って歩く。
扉は自動で開き、
背後で閉まった。
施錠音はない。
それでも、
俺は思わず振り返った。
扉は、
もう応えなかった。




