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コグニケージ ― 心を管理する世界で ―  作者: waseyo


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プロローグ|削除ログ

Chapter I

Initium — 墜落の始まり

「データベースにアクセスしています。

 パーティション名:Pandora」


「管理者認証が必要です。パスワードを入力してください」


「********」

「認証が完了しました」


「ようこそ、九条由美博士」


 それは、高層ビル上層部にある一室の研究室だった。

 四年前のあの惨事以来、この場所は完全に封鎖されていた。

 ――あの人物が、再び戻ってくるまでは。


 埃をかぶった端末の画面が淡く点滅し、

 無数の情報が、静かに流れ続けている。


 もし、これらに魂があるのなら。

 かつての主を、覚えているのかもしれない。


 端末の前に立っているのは、背の高い一人の女性だった。

 白衣に身を包み、

 見た目はどこにでもいる無名の研究員にすぎない。


 ――その装いのおかげで、

 彼女はほとんどすべての警備をすり抜けることができた。


 見つかってはいけない。

 ここにいる者たちは、四年前、

 同じ場所で彼女が何をしたのかを忘れてはいない。


 それでも、彼女は来なければならなかった。


 かつて、神は天使を地上に遣わし、

 人類に天からの裁きを下したという。


 彼女は天使ではない。

 ただ、最後にやるべきことのために戻ってきただけだ。


 ――もっとも、ある意味では、

 天使と大差はないのかもしれなかった。


「この場所に閉じ込められていても……

 それでも、自分が何をしてきたのか、気づいていないのか」


「……あのときは、

 やっぱり、間違った選択をしたのかもしれないな」


 細長い指が、広いキーボードの上を走る。

 四年という時間は、彼女からいくつかの記憶を奪ったが、

 少なくとも、資料の場所だけは覚えていた。


「ボリュームを呼び出します。

 キーワード:Elpis」


「削除処理を実行します」


「警告:対象のボリュームは完全に削除されます」


「実行しますか? YES / NO」


 彼女の動きが止まった。

 過去の記憶が、静かに蘇りはじめる。


 この四年間、

 苦痛に歪んだ無数の顔が脳裏をよぎり――

 やがて、ひとりの少女の姿で止まった。


 彼女の瞳に、

 死を受け入れた者だけが持つ覚悟が宿る。

 この先に、自分の終わりがあることも理解していた。


「ここまで来た以上……

 もう、進むしかない」


「この地獄の中で、生き続ける方法を見つけるまで」


「YES」


「処理を実行しています……

 進捗:50%……60%……70%」


 冷たい進捗バーが、着実に前へ進んでいく。

 感情を持たない葬列のように。


 かつて犯した過ちも、

 かつて誇りに思っていたすべてのものも、

 今まさに、同時に消されようとしていた。


 窓の外では、

 ただの都市ノイズだったはずのサイレンが、

 次第に鮮明で、鋭い音へと変わり、

 複数の方向から、このビルへと近づいてくる。


「85%……90%……」


 彼女の指が、無意識にわずかに震えた。

 迫りくる追跡の音を聞きながら、

 その表情に動揺はない。


 窓の外を見ることすらしなかった。

 結末は、すでに決まっていたからだ。


「95%……98%」


 完全な消去が目前に迫った、その瞬間――

 画面中央のウィンドウが、不意に揺れた。


「ファイルを読み込みます:My_Dearest.jpg

 削除処理を実行します」


 一枚の写真が表示された。


 それは、夏の日の記録だった。

 若い頃の彼女が、

 幼い少女を抱き寄せ、

 カメラに向かって無邪気に笑っている。


 ――娘だった。


 運命に用意された悲劇が訪れる前の、

 本来なら、ごく普通の幼年期を過ごすはずだった子。


「キャンセル……!

 キャンセルして!」


 死を覚悟した表情は、一瞬で崩れ去った。

 彼女の瞳に溢れたのは、

 抑えきれない愛情と、骨の髄まで染みついた痛みだった。


 端末に身を乗り出し、

 必死にキーを叩く。


 ――遅かった。


 画面が一度、無機質に点滅する。

 彼女にとって唯一の温もりであり、

 すべての始まりでもあったその写真は、

 音もなく無数のピクセルに砕け、消え去った。


 まるで、

 人生に残された最後の証拠までも、

 自分の手で葬ってしまったかのように。


 一筋の涙が、

 頬を伝って落ち、

 埃に覆われたコンソールの上で、小さな染みを作った。


「……ごめんね、璃彩……」


 擦り切れた歯車のような声だった。


「もし、この世界がこんなものなら……

 あなたを巻き込むべきじゃなかった」


「――ドンッ!」


 階下から、

 重々しい破壊音が響いた。

 押し破られた扉の向こうから、

 無数の足音が雪崩れ込んでくる。


 いつの間にか、

 彼女の行動は完全に把握されていた。

 捕縛のために張り巡らされた網が、

 急速に締め上げられていく。


 もう、時間はない。


 彼女は目を閉じ、

 この研究室の淀んだ冷気を、深く吸い込んだ。


 再び目を開いたとき、

 一瞬の脆さは完全に封じ込められ、

 そこにあったのは、人間離れした冷たい決意だけだった。


 98%で止まった進捗バーにも、

 消え残った2%が何を残すのかにも、

 彼女はもう関心を向けなかった。


 白衣の裾を翻し、

 彼女は振り返ることなく、研究室を後にした。


「この四年間、

 何度もこの終わりを想像してきた」


「実際に迎えてみると……

 心の中は、驚くほど空っぽだった」


 錆びついた金属階段を上り、

 ビルの屋上へと出る。


 そこからは、

 雨霧に包まれた都市のすべてが見渡せた。


 初春の冷たい雨が、

 髪と白衣を濡らしていく。


 四年前の、あの瞬間を思い出す。

 あの日も、同じように細かな雨が降っていた。


 あの日、彼女もまた、

 ここから同じ景色を見下ろしていた。


 都市は今も、精密に動き続けている。

 四年前と何も変わらない――

 いや、むしろ悪化していた。


 痛みを、より優雅に処理することを覚え、

 生きている人間を、

 ただ集計される数字として扱うようになったのだ。


「……私が憎んだあの世界は、

 まだ終わっていない。

 それどころか……

 さらに頑丈な檻を築いている」


 金属階段に、

 重く荒い足音が響く。


「直ちに縁から離れろ!

 これが最後の警告だ!」


 ――一切の情を含まない声。


 振り返らなくても分かる。

 複数のスタンガンが、

 すでに彼女の背中に向けられている。


 少しでも余計な動きをすれば、

 精密に計算された電流が、

 瞬時に神経系を麻痺させ、

 彼女を操り人形に変えるだろう。


 彼女は、彼らの顔を見る必要もなかった。

 ヘルメットの奥にあるのは、

 感情を持たないシステムの延長――

 命令を実行するためだけの存在なのだから。


「九条博士!

 あなたは逮捕された!」


 機械のような声が、

 わずかに震えている。


 死を最終地点と定めた相手を前に、

 人は本能的な恐怖を覚える。


「おい……!

 何をするつもりだ……!」


 彼女は笑った。

 それは、もはや死を恐れている者の笑いではなかった。


「……警告? 逮捕?」


「君たちが拘束できるのは、

 とっくに中身を失った抜け殻だけだ」


「私にとっては、

 すべてはもう終わっている」


「君たちは……

 これから、その現実と向き合うことになる」


 ――そして、彼女は身を投げた。

本作をお読みいただき、ありがとうございます。


『コグニケージ』は、

いわゆる「敵か味方か」「正しいか間違っているか」を

明確に描く物語ではありません。


むしろ、

なぜそれが“正しい”と信じられているのか、

なぜ多くの人が疑問を持たずに受け入れてしまうのか、

そうした部分に焦点を当てています。


作中に登場する制度や管理は、

決して悪意だけで成り立っているものではありません。

多くは善意から生まれ、

合理性を持ち、

「社会を守る」という名目で機能しています。


だからこそ、

その中で生きる個人の感情や違和感が、

より見えにくく、

より扱いづらいものになっていくのだと思います。


この物語は、

誰かが世界を壊す話ではなく、

世界の中で、壊れないように生きようとする人間の話です。


少し息苦しい展開が続くかもしれませんが、

最後までお付き合いいただければ幸いです。

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