番外編~蚕の恋⑤
『ピロン』
朝の五時半。
スマホの通知音が、静かな部屋に響いた。
重たい身体を起こし、玄関から外へ出る。
「おはよう」
冬の冷たい空気の中で、石橋君が微笑んだ。
マラソンコースは、石橋君が私を拾い、
そこに田川君、夕美ちゃん、小野君が合流する形になっている。
特に何かを話すわけでもなく、
私は自分のペースで、ゆっくりと走る。
田川君が合流し、
夕美ちゃんと小野君が加わると、空気が一気に賑やかになる。
そんな日々が続き、
マラソン大会が近付いた頃──異変に気付いた。
「あれ?」
いつも通り制服のスカートを履いたはずなのに、
腰に引っ掛からず、ずるりと落ちそうになる。
慌てて安全ピンで留めた。
「繭花、痩せた?」
夕美ちゃんに言われて、思わず目を見開く。
「……分かる?」
「分かるよ!」
お昼休み、そんな話をしていると、
「なになに? 楽しそうな話?」
石橋君が、机の向こうからひょっこり顔を出した。
「繭花が痩せたね〜って話」
夕美ちゃんがそう言うと、石橋君は穏やかに笑って、
「そりゃ、毎日走ってればね」
と答えた。
「えっ! 私は全然痩せないよ!」
夕美ちゃんの言葉に、
「お前は走りながら、なんかしら食ってるだろ。プラマイゼロだ」
石橋君が笑う。
……でも。
元が太っているから、
五キロ減ったところで、
“デブがぽっちゃりになった”くらいだ。
「俺は、ぽっちゃりした繭花ちゃんも可愛いと思うけど」
そう言ってから、少しだけ真面目な声で、
「少しでも、自信に繋がったら嬉しいな」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……からかわないで!」
思わず声を荒げてしまい、
石橋君が驚いたように私を見上げる。
この頃の私は、すっかり卑屈になっていた。
人の褒め言葉を、素直に受け取れなくなっていた。
(そんなこと言って……
自分は細くて、スタイルのいい女の子とばっかり付き合ってるくせに)
私は立ち上がり、教室を飛び出した。
──いつだったか。
夕美ちゃんが、石橋君のことを
「蝶みたいだよね」
と言っていた。
美しい花から花へ、ひらひらと渡り歩く。
誰のものにもならない。
私は、そんな石橋君を見上げる、
桑の葉をむしゃむしゃ食べている蚕の幼虫だ。
色白だけど、ぶくぶく太っていて、醜い。
成虫になったとしても、蝶にはなれない。
蛾にしかなれない、醜い蚕。
「石塚って、名前可愛いね」
あの日、石橋君にそう言われたのが嬉しかった。
でも──
可愛いのは、《名前》だけだ。
ずっと、本気にならないように、
自分に歯止めを掛けてきた。
どんなに好きになっても、
手の届かない人。
止まらない涙と、
痛む胸を押さえて、私はその場にしゃがみ込んだ。
恋愛小説の中のヒロインは、
みんな幸せになれる。
でも、脇役は、
ひっそりと涙を流すだけ。
どう足掻いても、
私はヒロインにはなれない。
──私は、この日から、
石橋君と距離を置くようになった。




