#6 無価値な自分
黒い影は、靄を押し分けるようにして形を成していく。人のようで、人ではない。四肢は細長く、骨のように軋み、顔の位置にあるはずの場所には――ぽっかりと、虚ろな穴だけが空いていた。
その虚ろな穴が、俺を見た。
視線なんてないはずなのに、確かに“見られた”と分かる。背筋が氷のように冷たくなり、対して脂汗がだらりと伝った。
「……っ、なんだ、あれ……!」
声が震える。恐怖が、喉の奥を掴んで離さない。
アウロラが、まるで退屈そうに言った。
「あれは君自身の“恐怖”だよ。影はね、稀人種の心を映すの。だから形は人それぞれ。君の場合は……そうだね、死ぬことそのもの、かな」
「なるほど……死ぬことそのもの、か」
完全に納得したわけではない。だが、その説明は妙に腑に落ちた。影はゆっくりと、しかし確実にこちらへと迫ってくる。
ギギ……ギィィ……。
耳障りな音が、脳の奥を直接ひっかくように響き、俺は思わず耳を押さえた。しかし、耳障りな音はその抵抗虚しく、直接脳に届いてくる。
「さ、祭理。僕に覚悟を見せて。――“最初の死”は、誰だって怖いものだよ?」
死神のその声音は、優しさと残酷さが半々に混ざっていた。俺は、乾ききった喉を唾で潤し、拳を握りしめる。
怖い。逃げたい。でも――。
ニクスが、震える声で俺の名を呼んだ。
「祭理……私も、力を貸すから。一緒に行きましょう」
その一言で、腹が決まった。美女に言い寄られて断る奴は正気じゃない。そんな馬鹿げた事を考えながら、俺は彼女の手を強く握る。
「……ああ。ニクス。行くぞ」
足を踏み出した瞬間、呼応したように影が一気に跳ねた。黒い腕が、俺の胸を貫くように伸び――。
次の瞬間――。
「フィクス・アデッツ!!」
ニクスの叫びと共に、鋭い氷柱が何本も影へ殺到した。空気が瞬時に凍りつくほどの冷気。氷柱は影の身体を正確に貫く軌道で飛ぶ。
だが――。
直撃をしたにも関わらず、影はまるで紙切れのように軽く弾かれただけだった。氷柱が刺さったはずの場所は、黒い靄が揺れただけで傷一つない。
「ハハ……効かないよ……そんなの……」
その声は俺の声に似ているのに、壊れたスピーカーのようで気味悪い。
「ッ……ならこれはどう!? カステルム・ネクス!」
ニクスは焦りを隠せないまま、次の術式を紡ぐ。地面から氷の柱が立ち上がり、影を囲むように伸びていく。瞬く間に氷の牢獄が形成され、影を閉じ込める――はずだった。
だが。
影は、氷が触れる直前にふっと姿を揺らし。まるで“そこに存在していなかった”かのように、するりと牢獄の外へ抜け出した。
「っ……!」
ニクスの濃藍の瞳が衝撃を映して大きく揺れる。
影はゆっくりと振り返り、ニクスを見た。その目は虚ろで、底無しの沼のように深く。“生きているもの”を見ているようには到底思えなかった。
「……ムダだよ。そんなもの、影には無意味だ」
影の声は、氷より冷たく谷の空気を震わせる。
「魔法なんて……ボクには届かない……だって……ボクは“あいつの恐怖”だから……」
ニクスの顔がサッと青ざめる。
唇が震え、言葉が出ないようだ。
「ニクス、下がれ!」
俺が叫ぶより早く、影が再び跳ねた。
黒い靄が弾け、影の腕が俺へ向かって伸びる。その動きは、さっきより数倍速い。ニクスの魔法を“無意味”と理解したかのように。
「いや……お願い……やめて……!」
ニクスが叫ぶが、影は止まらない。その腕はニクスの側を通り抜けて、俺の胸へまっすぐに伸びてきた。
映画のフィルムをコマ送りしたかのように。少しずつ場面が切り替わっていく。
肉が裂ける。血が飛び散る。
肋骨を砕き、その手は心臓へと伸びる。
そして――。
まるでトマトを握りつぶしたかのように呆気なく、俺の心臓はべしゃりと音を立てて四散した。
ああ……俺、死ぬのか。初めての死は、思ったより静かで呆気なかった。ゲームでの主人公もこんな気持ちなのだろうか。
繰り返し死んで、また再スタートするのだろうか?
最後に見えたのは、
泣きそうな顔で懸命に俺の方へと手を伸ばすニクスの姿。
だが。
「アハハ、無駄だって……!!」
「……ッ!!」
差し伸ばされたその手は、影に囚われ、封じられ。
死にかけの俺には届かなかった。
――そして、世界が闇に沈んだ。




