はあ……知ったこっちゃねぇですけど。
プルルル、という通話音。繋がったかと思うと、嬉しそうな声音が真っ先に聞こえてくる。
『はい、猪狩です。筒路さん……ですよね?』
「ああ、はい。筒路です」
『ありがとうございます! こんなにはやく連絡をくださるなんて……。それで、お返事の方は……』
「あの、その。慎んで、お受けしようかと……」
電話越しでも耳を塞ぎたくなるほどの喜声。思わず携帯電話を耳から遠ざけて、顔を顰めてしまった。
『あ、し、失礼しました……まさか、受けてくれるとは思っていなかったもので……』
「本気じゃなかったってことですか……」
『い、いえ! とんでもございません! こちらは最初から最後まで本気です!!』
「その言葉を信じろと?」
『はい。こちらに一切やましいことはありません。それに関しては、ご友人様にもきちんと説明してますので』
意地悪な言葉を投げかけると、予想外の返答が返ってきた。
守秘義務なのか、ご友人様と言葉を濁してはいるけど、誰のことだかわかってしまう。きっとさよちゃんだな……。
『Starlight』の事務所に掛け合って、猪狩さん本人に直接念を押したんだろうということが、長年の付き合いでわかってしまう。
さよちゃん、私に対しては過保護だからな……。
『……それでは改めて。契約や活動方針に関して、説明したいことが多々ありますので、今週か来週、空いている日付はございますか?』
「いつでも良いですか?」
『できれば、早めであれば助かります』
「そうですか……なら、明後日の土曜日とか」
『かしこまりました。それで、時間のほどは?』
「あ、いつでも大丈夫です」
『では11時に、例の喫茶店でお待ちしております』
「ああ、はい。お願いします」
『筒路様と会える日を、楽しみにしています』
……これ、切っていいやつかな。
悩んでいるのもあれだったので、通話をぷつりと切る。最後の言葉……バイト面接かなにかかな? 徹底的に間違ってる気がするけど。
それから、2日明けた土曜日。
呆れるほどの快晴の中、どこかおどおとした面持ちで指定された時刻に喫茶店に着くと、猪狩さんとその隣に目の覚めるような美人さんが座っている図が目に飛び込んでくる。
長く手入れされた黒髪、怜悧な瞳、キュッと引き締まったスタイル、落ち着いた所作。
女性の理想が詰まったようなその女性はあまりにも理想的すぎて、思わず視線を惹きつけられてしまうほど。
実際、猪狩さんよりも先にその女性を認識して、それからその横に座っていた猪狩さんを発見したという順番なんだから、それだけその女性が魅力的だという証左でもあった。
「あ、お待ちしておりました。筒路さん」
そう猪狩さんが声をかけると、隣に座っていた女性は顔をこちらに向け、ニコッという笑顔を向けてくる。
それだけで顔が沸騰するような、錯覚を覚える。
いわゆるギャップ萌え、というやつだろうか。その横顔に冷たそうな印象を抱いただけに、よりその笑顔を魅力的に感じてしまう。
「筒路さん、ですね。会えて嬉しいです」
猪狩さんに続いて、そんな恐縮な言葉を頂いてしまうと、何度もペコペコと頭を下げてしまう。
美人は得だというけれど、その言葉が身にしみてわかった。こんな人に10万円の壺を勧められたら、その倍は払ってしまいそうな恐ろしさがある。
「筒路さん?」
「あ、いえ! すいません!」
思わず、見惚れてしまっていた……。そう声をかけられ、恥いるようにおずおずと席へと座る。
「今日は、ご足労をおかけしてすみません」
「い、いえいえ、とんでもないです」
「わたくし、こういうものと申します」
そう言って綺麗な所作で手渡される名刺。そこに書いてある文字に、両目を疑うことになる。
いや、勘解由小路紗雪なんて、大層な名前に驚いたんじゃなくて……。いや、そっちにも勿論、驚いたは驚いたけど。
それ以上に上に綴られた役職、代表取締役という文字に目を奪われてしまう。
「え、しゃ、社長さんなんですか……?」
「ええまあ……そんな誇れることでもないですよ。しがない会社の、一責任者というだけのことなので」
「はあ……謙虚なんですね」
そんな気のない返答しかできない自分が恨めしい。
だけど社長さんは、その言葉に否定するでもなく哀しそうな顔をチラリと見せる。
「というより自虐ですかね。しがない、という言葉には偽りはないので」
偽りはない、という言葉に少しばかりの実感がこもっている気がした。
社長さんは少し悩んだ素振りを見せると、ポーカーの手を開くみたいに、会社の内情を赤裸々に語っていく。
「『Starlight』は財政的に危機に陥っています。これは、紛れもない事実です。そしてその逼迫とした現状の原因は、私個人にあります。これもまた、揺るぎない事実なのです」
「それはその……経営方針を間違えたとか……そういう類のはなしですか?」
「それだと、どれほどよかったでしょうね」
答えづらい質問なのかと思ったけど、端的に切り捨てられる。その瞳には、深い悲しみが渦巻いていた。
「私が間違えていたならそれまで。ただ、私が代表の座を降りれば解決しますから」
「えーっと……誰か代表の座になっても変わらないということは……勘解由小路さんが、何か問題を起こした……とかじゃないんですよね?」
「はい。筒路さんは弊社に所属することを視野に入れているということなので誓って言いますが、こちらにやましいところは一切ありません」
「それなのに、私のせい……矛盾してませんか?」
そう尋ねると、一層深い悲しみの色を見せる社長さん。それもぱっとやめ、一目見て作り笑いとわかる笑みを浮かべてきた。
「こう見えて私……恥ずかしながら、昔はアイドルみたいなことをやっていたのです」
「はあ……そうですか」
こう見えてって、どう見えて? それを聞かされても、えー、まさかー……とはならないけど。
それにいきなりなんの話なのか。そう前置きした意図が分からず、訝しげな視線を向けてしまう。
「おおよそ、15年前になるでしょうか。今の『Starlight』の前身、『STARter』において売れっ子アイドルとして輝かしい成績を収めていたのです」
えーっと……?
私の視線を意にも介せず、自分語りを続ける社長さん。これは……ツッコミどころなんだろうか?
そういう自分の功績を誇るような人には見えなかっただけに、新たなギャップに襲われる。
例えこれが冗談だとしても、それはそれで冗談を言うような人には見えないので、ギャップには違いない。
つまり、どう転んでも魅力的ってことだ。
「そのときの恩もあって、アイドルを引退した後、『STARter』……そのときには既に『Starlight』と社名を変えていましたね……その社長に就任することを決めました。私というスターが引退したことで、落ち目になった会社を救いたいという気持ちが先行して……今思えば、それが浅慮だったんでしょうね」
……ちょいちょい自慢のような文言が入っているけど、真剣なことには違いない。コーヒーを無意味にかき混ぜながら、社長さんは確信的な部分を話し始める。
「最初は順風満帆でした。引退したアイドルが社長に就任するという絶大なインパクト。それを前面に押し出したことにより、個人的なファンのみならず、各メディアが『Starlight』に対して注目するように。アイドルを売り出せば、勝手に祭り上げてくる始末。まさしくベルトコンベア的に利益もうはうはと………などという会社に対する心ないコメントも、当時は散見されましたね」
急な方向転換にこっちがびっくりしてしまう。
最後、どこかの誰かに罪をなすりつけてたけど、今の発言は社長さんの個人的な感想に違いない。なんか、熱量とかが違ったし。
それでも守銭奴には見えないので、心の底から『STARter』、もとい『Starlight』のために、行動してたんだろうな……ってことは察せられるけど。
「ただ順調だったのは最初だけ。たった一年ほどでその流れも立ち消えることになります。当事務所のアイドルへのオファーがピタリと鳴り止んだのです。夢でも見ているような気分でした」
そう話すと、社長さんの形のいい眉が少し崩れる。それに伴って、笑みも少し歪んでしまう。当時を思い出すと、取り繕っていられないってことなのかな。
「出演を予定していた番組の中止。イベントの参加の取り消し。オファーをもらったその日に、キャンセルの電話をもらうという奇々怪界なこともしばしば……ほんと、笑いたくなりますよね」
いや……全然笑えない。というか、社長さんの目が笑ってない。ここでクスリとでもしてしまったら、胸ぐらを掴まれそうな威圧感を感じる。
「勿論こちらも、事実関係に対する抗議文を上げるなどして、遺憾の意を示してきました。こちらの正当性に賛同する声も多く上がっていたように思えます……ですが、致命的となったあの事件。故意に仕掛けられた、ダブルブッキング騒動で我が社の評判や名声は地に落ちてしまいました」
ダブルブッキング……! そう言われて、ぱっと思い出す。小学生に上りたての頃、そのような世間を騒がせた事件があったような。
「ああ……ご存知でしたか。時間が経ち幾分か風化したとは言え、ことがことですからね。それで結局、我が社が力を入れて売り出していたアイドル歌手ユニットは解散の憂き目に会い、私どもを擁護する声もパタリと立ち消えてしまいました」
簡単に言ってはいるものの、言っている内容は吐き気がするほどに酷いもので。淡々というその顔にも、少しの憔悴を見つけてしまう。
「情けないことに……そのときになってやっと、それらが我が社……いえ、私個人に恨みを持つ者たちが仕組んだ、メディアすら巻き込んだ悪意ある攻撃だったと判明することにあいなったのです」
「『Starlight』への攻撃……?」
「はい。陰謀でも思い込みでもありません。それは歴とした事実です。既に粗方調べもついてますので」
な、なんだそれ。そんな理不尽な話、あっていいはずがない!!
「う、訴えましょう! 裁判でもなんでもして、こちらの正当性をーー、」
「それもかないません。なぜなら、こちらは既に訴えられた側ですので」
「そ、そんな……」
「演者のドタキャンによる損害賠償、理由はそんなところだったでしょうか……。当然こちらに、それに対抗する準備ができるはずもなく、あえなく敗北に。民事による裁判は再審することが極めて稀です。ダブルブッキングによる非がこちらにあると裁判で判決が出た以上、それが覆ることはないでしょうね」
陰湿……極めて陰湿だ。これらのことが事実だとして、『Starlight』側がそれらを切に訴えたとしても、世間に聞き入れられるわけがない。
向こうのやり口に、抑えようのない怒りが湧いてくる。でもそれと同時に、頭の冷静な部分が疑問を投げかけていた。
それなら、どうしてーー、
「まだ『Starlight』が、存続しているのか……。それを疑問に思ってるんですね」
「す、すみません」
「いえ、もっともな疑問です。そしてその疑問に対する明確な答えとしては……相手の温情でしょうね。それがなお、腹立たしい」
「……温情ですか?」
「その裁判で求められた賠償金も微々たる額。更に言えば、裁判が始まってから判決が出るまで、一切の流れはメディアに報道されませんでした。これらは、温情に他なりません」
どうしてそんなことを?
気づけば身を乗り出していた。その話があまりに悲劇的すぎたのか、『Starlight』に対して同情を感じている自分がいることを自覚する。
「こちらを生かしたところで、向こうになんの利もないでしょう。裁判費用だってバカにならない。向こうとしては、もっと絞れたはずですから。それらを踏まえてそんなことをした理由となると……ただの悪趣味ですね。ダメージを受けてなお、必死に足掻いている私を見て、心底楽しんでいるんです」
「そんなーー、!? 子どもみたいな!」
「そう思いますよね? でも、残念ながら事実なんです。本人の口から、そう言われましたから」
そう言い終わると、ダン! と、テーブルに拳を叩きつける勘解由小路さん。そこには、抑えきれない激情が溢れていて、黙って話を聞いてきた猪狩さんがビクリと肩を震わせる。
慌ててとんできた店員さんを、切長のその目で制したかと思うと、そのまま真っ直ぐこちらの目を見つめてくる。
「筒路さん……あなたは、言うなれば希望なんです。あなたのスター性に、私は我が社の社運をかけるつもりです。そんなこと言われても、迷惑だと感じるかもしれません。でも、どうかーー、スカウトを受ける前に、そのことは知っておいてもらいたいんです」
思わず、胸が震わされるようだった。その端正な顔から、とんでくる熱い眼差し。有無を言わさないほど、固く引き締められた唇。少しの憂いが……こちらの心を惑わせてくる。
気づけばそのテーブルに投げ出された手を掴んでいた。熱に浮かされたように、私はその手を強く握る。
「はい! 謹んでお受けします!」
それはさも、自分の意思のような口調で。人生の重要な決断を、あえなく決めてしまったのだった。