気づいて……傷ついて。
「いやー、主人公って凄い二つ名だよね。お姉さん、憧れちゃうよ」
「いや、その。全然大したものじゃないので……あの、私のことを知ってたんですか?」
「あれだけ話題になってればね。同業者として、ちゃんとチェックしておかないとねー」
ふぃー、と脱力しながらそう言う柚子さん。なぜだか一緒に入ったバスタブで、私たちは背中合わせに会話していた。
お風呂に入っているっていうのに、居心地が悪くて、全然心が休まらない。
「高校時代の桜ちゃんの活躍も、ちゃんと拝見させてもらったよ。動画サイトで検索したら直ぐ見つかったから、びっくりしちゃった。50万再生ぐらいされてるやつね」
「……お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしいことなんてないよ。バンって飛んで、ズバンって打ち抜いて。ブロックとかレシーブとか正直よくわかんないけど、あのアタックが凄いってことはよくわかったし」
そう言いながら柚子さんは、お風呂に浸かりながらアタックを打つ真似をしてみせる。フォームが意外と綺麗で、驚かされた。
「その上で不思議なんだよね。なんでわざわざこんな苦しい道を選んだのかを」
「苦しいだなんて、そんな」
「苦しんだから、桜ちゃんは逃げ出したんだよね」
その言葉に動揺してか、ザブンと私を中心にして波紋が広がる。今の心のうちを表しているかのように、水面は波打って不気味な動きを見せていた。
「桜ちゃんって、わかりやすいね」
「は、初めて言われました。そんなこと」
「桜ちゃんって、意外とめんどくさい感じ? 納得ができないことが起きると、トイレとかに逃げ込んじゃうタイプの」
それはここまでの経緯をピタリと言い当てていて。途中から見られてたんじゃ、と思うくらいの勘の良さを発揮されてしまう。
「柚子さんは、占い師だったんですか?」
「ホットコールリーディングってやつだよ、よく知らないけどね」
なんとなく、揶揄われているような感じがして、お風呂の中でブクブクと行儀の悪いことをしてしまう。ブクブク……。
「それで結局、後悔してる」
「後悔……どうでしょう?」
「ありゃりゃ。自覚はないのか」
後悔も何も、この選択がベストなはずだ。二日身を隠してさえいれば、あんなふざけた口約束も流れることになる。私に、彼女たちを説得なんてできるはずもないし。
「まあ、こんなところで話すようなことでもないか。よいしょっと」
ザブンという音を立てて、御身体を隠すこともなく立ち上がる柚子さん。その玉のような肌から、ポタポタも水滴がお風呂に滴る。
「もし話したかったら、お風呂から上がった後で聞いてあげる。あー、寒い。湯冷めしそう」
身体を震わせながら、私一人を残してお風呂を後にする柚子さん。不意に訪れた静かさが、さっきの私への言葉を反芻させる。
この行動は、柚子さんにとんでもない迷惑をかけたこと以外には、間違ってないはずだ。一番私が、ぼるべることを思っている。
でも、あの時。あの場から逃げ出したのは、衝動的なものでしかなかったはずだ。
なんの思惑もなく、ただただあそこにいたくなかったから逃げ出したはずだ。
だとすればあの時、私が抱いていた感情は、織部さんたちに対する怒りで間違いない。
怒りを感じた上で、尻尾を巻いて逃げている。そのどうしようもない、行動の矛盾。
…………おそらく、逃げること向き合わないことが考えの根底に根付いてしまっている。こうして一人で考える時間でもなければ、気づけないほどに。
思えば、さやちゃんとも喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。いつも、どちらかが我慢していたような印象がある。
ザブン、
自分自身と向き合うため、私は身体を浴槽に投げ出す。深く深く、全身をお湯の中へと沈めていく。
全身に熱を感じ、視界がぼやけ、水音がゴボゴボと。私の五感を全て全て、満たしていく。
他人とぶつかることが、恐ろしく怖い。敵意を直接向けられるのが、自分を否定されるのが、どうしようもなく嫌だ。
でも、私はその行動を後悔している。後悔しているってことは……その逃げのせいで、ぼるべるの皆んなと離れ離れになることの方が、もっと怖くなってる。
そう自分に言い聞かせて初めて、心のうちの、『逃げなければ良かった』という、情けない本音を聞くことができた。
自分のぼるべるに対する思い入れの半分以上は、彼女たちで埋まってしまっている。そんな彼女たちに対する思いが、軽いはずもない。
気づいたら、なんてことはない。きっと気づかない振りをしようとしてただけだ、ずっと感じていたこの胸の痛みから。
あの逃げに対する、後悔と罪悪感で身体中が鉛のように重くなる。
きちんと話し合うべきだった。居場所を守りたいなら、壊れるくらいまでぶつかり合うべきだった。
再び浴室に響く、お湯の跳ねる音。酸素を求めるように顔を出していた私は、荒い呼吸を何度も繰り返す。
そしてそのまま、よたよたと重い身体でバスタブをよじ登り、なんとか脱衣所までの道をひた歩く。
辛辛たどり着き、浴室のドアを開けたところまではよかったけど、そこで力尽きたのか前のめりに倒れそうになってしまう。
そんな私の脱力した身体を、ガシッと支える腕。朦朧とした中で聞こえた、『湯冷めせずに済んだ』、という声、その優しさに。
生まれて初めて、人の胸の中で涙を流すのだった。
◇
「桜ちゃんは、風呂上がりにコーヒー牛乳とか飲むタイプ? よかったら、これいる?」
「いえ……私だけそんな贅沢なんて、できませんから」
「そう? じゃあ、桜ちゃんの事務所に箱で送っとこうか?」
「ああ……、そういうことではなくてですね……」
この人もしかして、自分じゃ持ちきれないくらいお金を持ってるのかな。お小遣いと称して、隙あらばお金を渡してくる、祖父母のことを思い出してしまう。
おばあちゃんたち、元気かな……。
「で? まだ気分はすぐれない?」
「……そうですね。柚子さんのおっしゃったことは、全て正しかったです。だからこそ、自分の不甲斐なさを痛く、痛感した次第で」
「つまり私のせいってことか」
「!!? い、いえいえ! そんなことは!」
「冗談だって。桜ちゃんって、揶揄い甲斐があるね」
そうですか……でも、あまり揶揄わないで欲しいんですが。と、恨めし気な目で柚子さんを見つめる。
その視線に、柚子さんは嬉しそうな笑顔を見せている以上、あまり効果はないみたいだけど。
「今落ち込んでるのは、その不甲斐なさであの子たちに軽蔑されたかもって、恐怖から?」
「そうですね、その通りです」
「なら、大丈夫じゃないかな? さっきからこれ、ずっと鳴り止まないし」
そう言って見せてきたのは、随分と痛んだ様子の携帯端末。何を隠そう、私の携帯だった。
「桜ちゃん、電源切ってたでしょ。連絡ぐらいは入れてやりなよ? 皆んな、心配してるから」
「心配……されてますか?」
「意外とかまぼこだよね、桜ちゃん。そこが可愛いところだけどさ……ほら、見てみて」
ポコポコという通知音とともに、数十分ほど前から絶え間なく送られてくるメッセージ。どれも心配や謝罪の旨の言葉が書き連ねられていて、見ているだけで申し訳なくなってくる。
そこでやっと、深く理解した。自分がどれだけ迷惑をかけて、どれだけ愛されてるかってことを。
「風呂場ではああ言ったけど、桜ちゃは自分で気づけたみたいだから、私からは何も言うことはないかな。ただ言うとしたら、今日はもう遅いから泊まって行ったら? ってことぐらい」
「良いんですか……? そこまで、甘えても」
「!? い、いやー……桜ちゃん、甘え上手だね……。うんうん、お姉ちゃんに任せない。毒を食らわば皿まで……じゃなかった。乗り掛かった船だしね」
本当に良い人だな、柚子さん。惜しげもなく、そんなことを言ってくださるなんて。この人との出会いで、一生分の運を使ってしまったのかもしれない。
「よし、決まりね! じゃあ豪勢に寿司でもとってあげよう!」
「す、寿司? そんな大層なものは頂けません!」
「そう? なら、お姉ちゃんが手料理を振る舞ってあげるよ。泣いて喜べー」
「え、わざわざそんなご手数をかけるわけには……そ、それなら、私が作ります!」
「え?」
「台所をお借りしますね!」
「ちょいちょい。お客さんなんだから、そんなことさせるわけには……と、言いたいところだけど、桜ちゃんの手料理は魅力的だから、任せちゃうね!」
「はい! 腕によりをかけて作らせてもらいます!」
そう言ってキッチンへと向かう最中、背後の方で電話特有の電子音が鳴った。
なんだろう……? 今どき固定電話なんて、珍しいな。
◇◇◇
プルルル、という味気ない電話の音に、桜ちゃんの可愛さで浮ついていた気持ちが一気に地べたまで落ちてしまう。
きっと今の私は、桜ちゃんに見せられない顔をしてるだろう。
「………もしもしー?」
『相変わらず機嫌が悪そうな声ですね、瞳さん。何かありましたか?』
「知ってて言ってるよね? 和ちゃんとの電話でこうなってんの……で、用は何かな?」
『そちらに、筒路桜さんがお邪魔しているのではないかと思いまして』
「お邪魔してないよ。邪魔じゃないし」
『やはり、そちらにいらっしゃるのですね……』
「そう、和ちゃんのの元から逃げてきたの。返してって言われても返さないからね、あんな良い子」
『そうですね。今日はもう遅いですし、それが良いかもしれません』
ちぇっ、相変わらず察しが良くて面白みもない和ちゃんだこと。少しは、桜ちゃんを見習って欲しい。それで少しぐらい可愛げを身につけて欲しい。
「というか和ちゃんだけだよ。固定電話でかけてくるの。わかる? わざわざ和ちゃんのために、邪魔くさい固定電話なんて残してんだよ」
『ありがとうございます。引き続き、残し続けてくれると助かります』
「もー! うざったい、堅苦しい、大っ嫌い! なんで和ちゃんなんかを、あの子は慕ってるのか。世の中嫌になるよね」
『あげませんよ』
「言っても来ないよ、きっと。ああ見えて意外と頑固っぽいし。こんなことなら、最初会ったときに何がなんでも抱え込んでおけばよかった」
『珍しいですね。あなたが後悔なんて』
「それだけ逸材ってこと。悔しいけど……和ちゃんの見る目は少しも腐ってないってことね……あっ」
言うつもりもなかった、称賛の言葉を引き出されてしまう。そうなることを、わかってて向こうから聞いてきてるんだ。
だから、和ちゃんのことは心底気に食わない。
「それでも諦めるつもりはないけどね。和ちゃんも、調子に乗ってられるのも今だけだから……懐柔作戦も進んでるしね。今だって、私のために健気に晩御飯を作ってくれているところでーー、」
『え……晩御飯を……ですか?』
珍しく。本当に珍しく、その声に動揺の色が混じる。それに釣られて、私の言葉にも動揺が混じってしまう。
「ど、どうしたの? 和ちゃんらしくない」
『……瞳さん。胃薬の用意は?』
「い、胃薬? 胃薬って?」
『織部さんの話では、筒路さんは病的に料理下手らしいので……。できれば、止めてあげてください』
「と、止めるって料理を? そんなのできるわけないよね、あんなに健気なのに。………え? どうすれば良いの? 胃薬なんて常備してないって」
『……健闘を祈ります』
私の助けの声をぷつりと断ち切る、ツーツーという無慈悲な通話が切れた音。
逃げられた、と自覚したのは数秒ほど経ってから。急いでかけ直そうするも、残念なことにそれも叶わない。
だって、和ちゃんの電話番号なんて知らないし。
なんなのもう、と一人唸りながら私はその場で右往左往する。言うだけ言って切って行った……こんなことなら、知らないままでいる方がまだマシだったよ。
気分はまるで、病院の待ち受け室だ。診察室から悲鳴が聞こえてくる感じの。昔から、注射の類は大っ嫌いだったりする。
そんな思いを抱えたままで、たっぷり1時間ほど経って。桜ちゃんは料理ができたことを伝えにくる。
そのタイミングに至っては、もはや逃げることも叶わない。ああまで言った手前、最初からそんな選択肢は無いに等しいんだけど!
「……いただきます」
若干ワクワクしてる、普段の面持ちで見れば可愛いと飛びつきたくなる顔を浮かべた桜ちゃんの前で、弱々しくそう呟く。
桜ちゃんが言うには、それはオムライスなるもの。わざわざそんな、手の込んだものを作らなくても……。(料理下手にとって、オムライスは鬼門である)
見た目は普通のプレーンオムレツ。切って上の卵を開くタイプではなく、いかにも普通な感じの。
……そこは、私にとっても高評価だった。正直、そういう工夫はどうでも良いと思ってしまうタイプ。見た目よりも、味の工夫が欲しい。
このまま固まっているのも不審に思われるだけだろうし、勢いよく一口を口にした。なんなら、吐きそうになっても飲み込み、美味しいと笑って見せると気概まで込めて。
……でも、そんな必要はなく。ただただ美味しいオムライスがそこにあった。
まさしく拍子抜け。拍子抜けした後でも、やっぱり美味しいと感じれるくらいには上出来。もはや、和ちゃんに騙くらかされたのかと疑ってしまうほど。
でも残念ながら、和ちゃんは冗談を言わない。
で、考えられるとしたら、シンプルに桜ちゃんが腕を上げたということ。
その織部さんって子に料理を振る舞ったのが、こっちに来てからということを考えると、たった十数日の急成長だ。
どれだけの練習を重ねたのか。和ちゃんの話では、日夜アイドルとしての練習に明け暮れていて、まともなオフもないって話だったのに。
「ど、どうでしたか? お味の方は?」
「ああ……うん。美味しいよ」
衝撃に震えてか、返答もおざなりなものになってしまう。ごめんね!
上達できるのも才能。もしこの才能が、アイドルの方にも転用されるのであれば……。
そう考えると、目の前の可愛らしいハムスターみたきな存在がとてつもなく恐ろしいものに思えてくる。
もしかしたら……この子なら、今のこのアイドルの情勢も変えるやもしれない……むむむ。
そんな思いを抱えながらも、ついつい目の前の料理を楽しんでしまう。料理らしい料理を食べたのは、久しぶりのことだった。
※かまぼこ……かまちょの意




