はいはい、スカウトですね……はいはい。
ピーッという音が鳴る。その音が鳴った瞬間、会場はシンと静まり、世界に取り残されたような不思議な感覚が去来する。
コートで向かい合う選手たちも、それを見守る監督陣も、会場に集まった何百人というギャラリーさえ身じろぎ一つしようとしない。
比喩でもなく、全員がこの自分なんかの一挙手一投足に注目していた。
たった8秒ほど。ただその8秒に関しては、私だけの時間で。誰もそこに立ち入ることは許されない。その事実に、何度目ともなるえもいえぬ快感を覚える。
その快感も、これで最後だと思うと感慨深い気持ちにもなるけど。
たんたんと緩やかなステップを踏みながら、ボールを上にヒュット、トスする。慣性に従って前目と落ちていくボールは何万回と描いた軌道をきちんと描いて。
差し込まれるように伸ばされた手のひらに、きちんとミートした。
なんの変哲もないジャンプフローターサーブではある。ただ、それをひたすら磨いてきただけに自分でも凶悪と思える道筋を描いた。
何十本に一本しか成功しないほどの、綺麗な変化。我ながら、勝負運が強い。
ただそれで、試合は決まりはしない。
ここで落としたら負けという場面で、大きな影がその変化に負けず、飛びつくように2本の腕を伸ばした。
綺麗なカットとは言えない。だけど彼女は、持ち前のセンスで、その苦しい態勢からセッターの頭上へと高いレシーブを上げる。
ネットから離れた。これでクイックはない。それでも充分脅威と言える攻撃力が、向こうのチームには備わっていた。
左にも右にも、代表に選ばれるだけの実力を持ったスパイカーが既に踏み込みの準備をしている。
それに何より、三本の指には入ると言われるスパイカーが、レシーブの体勢から立ち上がり、殺気すら感じるほどの鋭い眼光を向けていた。
ただいくら強豪校と言えど、このタイミングでバックアタックを選択できる度胸は無かったようで、無難にレフトへとトスを上げた。
それは自信の裏返しだったのかもしれない。見惚れるほどの綺麗なフォーム、体重が乗った良いスパイク。頼りたくなるのも無理はない。
バチンという重い音がする。教本に載せたくなるほど、見事なまでのワンタッチ。さっきのサーブを踏まえて、神が勝てと言ってるんじゃないかと錯覚した。
そんなスピリチュアルな考えも束の間、上げられたチャンスボールの下へしっかりと移動している、うちのセッターと目が合った。
もう何年来の付き合いになるのかーー、その思惑は手に取るようにわかってしまう。その下に抱えている、やりきれない感情も。
涙ぐんでいるように見えたのは、気のせいじゃないだろう。
高く上げられたトス。レフトでもライトでもセンターでもない、第四の選択。バックセンター。
踏み込む足が、曲げる膝が、悲鳴を上げたような気がするが、それ以上に喜びに包まれていた。最後に私に、頼ってくれたことに。
奇襲性も何もないバックアタックは、今までの万感の思いがこもって、惚れ惚れするほど美しく相手のコートへと打ち込まれる。
その余りのジャストミートに、着地する前から確信してしまった。これは間違いなく、決まったと。
大きな音を立てて、ボールはギャラリー近くまで跳ね上がる。
その行く末を見届けるより先に、いくつもの物体があまり大きくもない私の身体にぶつかってきた。
ほぼ全員が私より高身長である。それでも、嬉しそうに泣きじゃくる姿は幼い子どもを相手にしているようで。
釣られて、私も子どもへと変貌してしまう。思った以上に、日本一という座は心を揺さぶってきた。
気丈に振る舞うこともできない。ただ全員が、感情の溢れるままに、振る舞っていた。
それは審判に整列を促されるときも変わらず、ギャラリーの応援陣の皆様方へ挨拶しているときも変わらず……中々にカオスな空間が出来上がっていた。
そんなこんなで、激動の高校生活は終わりを告げる。優勝という、有終の美を飾って。
◇◇◇
寒さひしめく一月。あの激闘もどこへやら、いつもの日常がやってきて。
卒業まであと数日、長かった高校生活も終わりこの校舎ともさよならするということで、ノスタルジックな気分に浸っていると、背後から声をかけられる。
「よっすー、桜。一緒に帰ろー」
「うん、帰ろ帰ろー」
そう言って、私より若干背が低いポニーテールの少女と一緒になって、廊下を歩く。それだけで、廊下にいた大勢の生徒から視線をもらうけど……それも仕方ないことだろう。
テレビで流されたあの大会の試合は記憶に新しいし、私が言うのもなんだけど、うちの部活はただでさえ有名だったりする。
なんせ、全国大会初出場、初優勝なんて偉大な記録を打ち出してるし。校舎にかかった女子バレーボール部全国大会出場という垂れ幕の横に、優勝という文字が飾られるのも時間の問題だろう。
そんな偉業の立役者の一人、レギュラーメンバーでは珍しく私より背が低いセッターの荒金紗代子ーー、さよちゃんは、そんな視線に晒される中で、気にした風もなく堂々と歩いている。
こういうところは昔から変わらない。何度もその佇まいに憧れてきたものだ。
「もうすぐ、卒業だねー」
「どうした? 急に」
突拍子もない私の発言に、訝しげな視線を向けてくるさよちゃん。ただすぐに前を向き、いつものことか、とでも言う風に手にした牛乳パックを音を立てて啜る。
付き合いが長いだけ合って、私のどうしようもなさを程よく理解していた。
「さやちゃんは、高校卒業したらすぐにプロでしょ。改めて凄いなーって」
「まあ、凄いことには凄いんだろうけど、うちの高校からは他にもプロいくやついるし、特別感とかは特にないよな……なんなら、桜だって」
思わず、といった感じてさやちゃんは言葉を区切る。平静を装っているものの、その顔には若干の申し訳なさが含まれていた。付き合いの長い、私にはわかる。
「なに、さよちゃん。珍しく気を遣ってるの?」
「珍しくは余計だろ」
気にしてなさそうな私の顔を見て、小さく笑みを見せてくれるさよちゃん。
散々気にしないでと言い聞かせたものの、本人の心の中では小骨のように引っかかっていたみたいだ。
昔の約束なんて、そんな気にする必要もないのに。
『一緒に女子プロになって同じチームで優勝する』、そんな夢物語に何もそこまで……まあ、途中で現実味を帯び始めたから、あながち夢物語でもなかったけど。
でも所詮、夢は夢。プロになるに相応しい実績は作れたけど、どうも身体が追いつかなかったようで。
膝にかかった極度なダメージ。お医者さんが言うには、未完成の身体でぴょんぴょんと飛び跳ねていたことが原因だとか。そう言われると、何も言えない。
スポーツで故障はつきものと言えど、バレーは続けれないと宣告された当初は、軽く絶望しかけたものだ。
その頃の落ち込んだ私の姿を、さやちゃんはまだ覚えているのかもしれない。
ただ、流石にもう吹っ切れている。バレーを続けれないのは残念だけど、私のチームメイトの何人もが、プロとして活躍するというのは誇らしいことだ。
そのような経緯もあって、私はいち高校生として受験勉強に勤しむ身だったりする。二次試験が控えている身としては、寄り道は許されないのだ。
「あっ、桜……」
「げっ」
そう考えているそばから、寄り道が向こうからやってきた。
校門前に立っているスーツ姿の男性。どこか緊張している面持ちのその汗っかきらしき人は、誰かを待っているのか、キョロキョロと高校の敷地内へと視線を飛ばしている。
私とややちゃんは、散々同じような人物に出くわしてきたのでわかってしまう……あれはスカウトだ。
そして、スカウトを受ける人材なんて、この高校では我らが女子バレーボール部の部員しか思い当たらず、私以外は進路がほとんど決まっていることを考えると……そのスカウトの目的は、十中八九、私であると推察できた。
思わず、重いため息をついてしまう。まだ、私に拘るような酔狂な団体があったなんて。
選手権が終わった後、いやその前からスカウトの声は止まなかったが、プロで活躍できるほどの身体じゃないためその意思はないと、懇切丁寧に伝えるとその声は減っていった。
勿論、それでも食い下がる必死なマイナー団体はいくつかあったものの、時期が時期である。もう可能性はないと、そう人たちも皆離れていったものだ。
だからこそ、そのスカウトの姿を見て、今になって……という思いを強く感じてしまう。例えどの時期でも、断ることにはなっていたけど。
「あー……桜。先行っとくわ」
「うん、角のコンビニで待ってて。すぐ追いつく」
「おー」
そんな私たちの会話を聞いていたんだろう。予想通りと言うべきか、私の存在を確認したその人は、じっとその視線をこちらから離さない。
やはり、目的は私らしい……はー。
「あの、筒路桜さん、ですよね」
「はい……そうですけど」
そう言って嫌そうな顔をすると、わかりやすく傷つくその人。既にボロボロみたいだけど、職務を全うするため、そそくさと名刺を取り出してくる。
「私、こういうものですが」
もはや、それを見る必要もない。なんなら拒否感を示すため、ばっと奪い取って破り捨ててもよかった。
……まあ、良心が痛むし、そんなことはしないけど。
でも、どれだけやったところで梨の礫には違いない。一縷の希望も消すため、こういうときはキッパリと断るべきなんだ。
そういう気持ちを全面に押し出した面持ちで、その名刺を受け取る。
…………『Starlight』?
名刺に書かれているその文字に思わずハテナを浮かべる。聞いたこともないチーム名だ。
というより、どこかの会社名のようである。バレーボールチームを所有しているなら、聞いたことがないというのも変な話だけど。
疑問に思って顔を上げると、ビクビクと怯えた風な顔で、その男性は自己紹介をしてくる。
「わ、わたくし……芸能事務所『Starlight』のスカウト業務を担当しております、猪狩、と申します。今日は、筒路さんに大切なお話があって参りました」
「……はー」
嘘つけよ、と心の中で毒付いてしまう。その緊張の仕方で、スカウト担当っていうのは無理があると思う。
どうせ向こうも駄目で元々って感じなのだろう。だからこっちも、決まり文句でその誘いを突っぱねることにした。
「すみませんが選手としての私は……芸能事務所?」
「は、はい……芸能事務所でございますが……」
目をぱちくりとさせる。同じような挙動を、その猪狩さんとやらもして見せた。
「えーっと……? バレーボールの芸や技能を磨く……的な会社って……ことですか?」
「はー……? バレーボールはあまり……。うちは、アイドル事業の方に力を入れているので」
「アイ……ドル……?」
「は、はい! アイドルでございます! ……筒路さん、私たちと一緒にアイドルになってみませんか?」
その日、そのとき、その瞬間。私の運命は大きく変わることになる。
あまりにも劇的に、……劇的すぎて、そう話を持ちかけられたとき、その場で暫くフリーズしてしまったことは余談である。