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21歳 冬

「ねえ大丈夫?手震えてるよ」

「うん」

「ねえってば」

「うん」

私の夫はホラー映画があまり得意ではない。だから見ている時はこんな風に固まってしまう。私もそんなに得意じゃない。でも、そんなこと関係ない。今の私には、人がゾンビに殺されていることなど全くどうでもいい。そんなことより、横にいる夫がかわいくて仕方がない。怖いはずなのにまっすぐ正面を向き、体をこわばらせながらテレビを見続ける彼。かすかに青ざめている。私はテレビなどそっちのけで、そんな彼の手を握り、手のひらで彼の体をなでる。ゆっくりと。私のかわいい旦那さん。ゾンビにおびえてる私の旦那さん。この世にこんなに真面目にホラー映画を見る男の人がいるだろうか。全く、なんてかわいい人なんだろう。私は彼に抱き着く。一ミリの隙間もないほど自分の身体を彼の身体に密着させる。そうすると、私と彼がスライムのように混ざり合い、溶け合っていく感触がする。私はこの人と一緒にいて、一緒に映画を見ている。そのことがうれしくて、最高に幸せで、私はさらに彼に体をくっつける。もっともっとドロドロに溶けあって、今大地震が来ても離れないように。

映画が終わり、彼はやっと全身の力を抜き、疲労困憊といったふうにソファの背にもたれかかった。そして私の頭をゆっくりとなでる。

「ねえ面白かったね。またみようね」

「もうホラーはいいよ。すごく体力を消費した」

「えーでも緊張してカチコチになってるアキめっちゃかわいかったんだもん」

「僕じゃなくて映画を見てよ」

そういいながら彼は私の手をほどき、キッチンに行ってしまった。私が抱き着いてるのに、つめたいじゃないか。しかもホラー映画を選んだのは彼の緊張してる姿が見たかったからなのになんだそれ。きっと彼は私の愛に気づいていないのだ。私が彼に言うかわいいとか好きとかいう言葉は全部聞き流しているのだ。私は毎秒本気で、心を削る勢いで愛を伝えているというのに。全く彼は冷たい人だ。好きな人に愛が伝わらないなんて、こんなに不幸なことはない。私はきっと世界で一番不幸な女だ。もう知らない、彼なんかこの世界と共に爆発してしまえばいい。 爆発?いや待て。彼がいなくなってしまったら私はもう生きていけない。このクソみたいな世界を彼なしに生きていくなんて千パーセント無理だ。彼がいない世界なんて悲しすぎる。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死んじゃう。どうしよう怖い怖い怖い。 あまりの恐怖と悲しさにうずくまっていると、彼が戻ってきた。

「そろそろお腹すくと思って、ワインとルイの好きなクッキー持ってきたよ」

ワインを飲むと、涙がこぼれた。クッキーをかじると、また涙がでた。全く彼はなんて優しいんだろう。

「どうしたの?」

「大好き。私、アキのこと大好き。ずっと一緒にいて離れないで」

「もちろんだよ。僕もルイのこと愛してる」

ああ、私の旦那さんはなんて素敵なんだろう。なんて幸せ。私は今世界で一番幸せな女。

なんてかわいい旦那さん。私の素敵な旦那さん。あなたの居ない人生なんて考えられない。もう絶対に離れられない大好き。


 カタカタとパソコンを打ちながらふと顔を上げると、時計は22時を指していた。久しぶりに執筆作業に集中でき、いつの間にか2時間が経っていたようだ。首をゴキゴキと回しながら、スマホを見る。彼からのメールはまだ来ていない。まだ、仲間と新曲の練習をしているのだろうか。いくらなんでも遅すぎる。執筆が大いに捗った高揚感も束の間、一気に不安が私を襲う。もしかして、彼は他に女ができて、私にバンド仲間と練習すると嘘をついてそいつと会っているのだろうか。彼はいつも音楽のことに熱心で、そこそこ人気のあるバンドだから、練習で帰るのが23時ごろになるのも少なくない。だが、私はそれに一向に慣れない。それどころかこういう日が来るたびに不安が一層大きくなる。

「ねえ今どこにいるの」

「早く帰ってきて」

「電話くらいちょうだい」

画面を高速で連打し、彼にメールを送る。ああどうしよう。もし私がこうして家で懊悩煩悶しているうちに、彼が他の女と酒を飲み交わしていたら?もしかすると、もうそれ以上のところまでいっているかもしれない。そんなの絶望しかない。考えたくないのに、私の頭はこういう時だけよく回転し、妄想に妄想を重ね、不吉な予感と不安と吐き気が怒涛の津波のように私に覆いかかる。 早く何とかしなくちゃ、どうにかしてアキをその女と引きはがさなきゃ。でも私は彼がどこにいるのか知らない。今まで何回も教えてと頼んだが絶対に教えてくれないのだ。私がそこに乗り込んで練習を邪魔するとでも思っているのだろうか。私は絶対にそんな身勝手なことはしない。私は理解のある妻だから、夫の仕事場に乗り込んで「練習長いんだよ早く帰ってこい!!」などと糾弾するようなことはしないと固く誓っている。彼は外でテレビに出たり、曲を作ったり、ギターの練習をしたり、ものすごく頑張っているのだから、私はそれをあたたかく見守る妻でありたい。だから、毎日彼が外出するのも寛容に見守っている。しかし、それは私の中に留めなく溢れる彼への感情を理性で押し殺しているに過ぎない。今のように、一旦理性が揺らいでしまうと、もう誰も私の感情を止められない。私自身にも止められない。私にできるのは、その波に完全に飲まれないように必死に体をくねらせ、波に逆らわないよう全神経を集中させ、最低限の理性を保ちながらこの感情の激動が収まるのを待つことだけだ。 このままただ飼い主を待つ子犬のように大人しくしているわけにはいかない。私自身が、自分の感情の激流に巻き込まれ、窒息して死んでしまう。ふと、最近新しい肉切り包丁を買ったことを思い出した。包丁を持って街に飛び出し、アキたちのいるホテルを探し回り、部屋のドアを叩き壊し女をグサリ・・ 鮮血が無駄に大きなベッドに飛び散る場面が目に浮かぶ。まだ彼からの返信は来ない。それは駄目だと必死に抑えようとする理性と、やってしまえ、今すぐ走り出せと叫ぶ感情がぶつかりあう。私は間に挟まれ、必死で足を踏ん張る。私は一体、どうしたいのだろう。子供の時からずっと、感情に振り回されて生きてきた。理性のおかげでまだ人に怪我を負わせたことはないものの、そのうち理性が粉々に砕かれてしまうような気がして怖くなる。自分の感情に殺されるなんて全く馬鹿げているが、私にはどうしようもないのだ。これが私なのだから。 

 玄関の鍵が開く音がした。はっとして玄関に走ると、彼がいた。彼の姿を見た瞬間、さっきまで暴れまわっていた感情はどこへ行ったのか、全身の力が抜けて、涙が溢れそうになり、彼に抱き着く。

「遅いよ」

「練習が結構盛り上がっちゃって、連絡できなかったんだ。練習が終わって急いで帰ってきた。心配させて本当にごめん」

 彼の言っていることが真実だという保証はどこにもない。しかし、彼がこう言っているのなら、私はそれを真実として受け入れるしかない。もし彼が私にこうして真正面から嘘をついているとしたら、、なんて考えるだけで自殺したくなるし、なにより私は彼のことを心から愛しているからだ。結局彼が他の女と寝ていても、彼に「ごめん」と言われたら、私は許すしかない。許さなかった場合、彼はきっと私と別れるだろう。彼とわかれることは、私にとって死を意味する。彼の居ない人生なんて生きる価値が全くない、ただの塵だ。だから私は彼と一緒にいると最高に幸せだし、彼の帰りが少しでも遅いと絶望する。

 彼は私を抱きしめる。私は彼の胸に顔をうずめながら、心が満たされていくのを感じた。

私の生死は彼の手に握られている。でもそのことに私はなんの異存もない。私はきっとこの先も、彼に振り回されながら生きていくのだろう。


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