第97話 聚蚊成雷
それは松平蔵人佐元康が丸根砦を、朝比奈備中守泰朝が鷲津砦を攻め立てている早暁、寅の刻であった。
清洲城の奥にて正室・濃姫とともに深い眠りについていた織田信長。彼の元へ、薄汚れた身なりの男性が訪ねてきたのである。
「殿、簗田出羽守政綱にございます」
「おう、いかがであったか」
簗田出羽守の声に反応したカッと目を開く信長。されど、起き上がることなく、障子越しに簗田出羽守の報告を聞くのであった。
「仰せの通り、瀬名陸奥守が手の者が本陣の設営を終えて待機しておりました!加えて、昨晩、所の者じゃと申して沓掛城の浅井小四郎が家臣に酒を呑ませたところ、今川義元は丸根砦と鷲津砦が陥落した後、沓掛城を出陣して桶狭間山へ向かうと申しておりました」
「で、あるか」
信長は二日前に水野下野守よりもたらされた『今川義元の本陣予定地は長福寺の裏山である桶狭間山中腹である』との情報を確かめるべく、地の利に長けている簗田出羽守に探らせていたのである。
そこへ、丸根砦よりの使者を取り次いだ河尻与四郎秀隆が駆け寄って来る。
「与四郎!丸根砦と鷲津砦にて始まったか!」
「は、ははっ!丸根砦の佐久間大学殿より鷲津砦ともども今川軍の攻撃が開始されたと注進がございました」
それまで寝床に臥したままであった信長は掛け布団を蹴り飛ばして、飛び起きる。その様子に隣の濃姫も何事かと驚いた様子で起き上がり、長谷川橋介・岩室重休・佐脇良之・山口飛騨守・加藤弥三郎ら小姓衆はただちに参集した。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか――」
悠々と金扇をかざし、透き通るような声で幸若舞『敦盛』を舞う信長。河尻与四郎らがその意をくみ取れずに舞に見入っている中、濃姫だけは寝起きの頭を急ぎ回転させ、夫の考えをくみ取ろうと考えていた。
「貝を吹け!具足を寄こせ!」
「河尻殿は出陣の法螺貝を!岩室殿、加藤殿は用意の具足をこれへ!そなたは用意してある湯づけと御酒、勝栗を運んで参れ!」
舞い終わるなり発せられる信長の言葉に戸惑う一同へ、凛とした濃姫が具体化した指示を伝達。
まるで一つの体であるかのように意思伝達がなされる夫婦の様子に内心驚かされながらも、河尻与四郎は法螺貝を吹くべく駆け出し、慌ただしく岩室長門守重休、加藤弥三郎の舅と婿は具足の用意に取りかかる。
そう、この加藤弥三郎は元康が熱田の加藤図書助が屋敷にいた折に共に稽古をしていた次男坊である。
「殿!ご両刀は何になされますか」
「国重と光忠!」
今度は濃姫が言葉を発するよりも早く、長谷川橋介は信長の愛刀長谷部国重を、前田又左衛門利家が弟・佐脇藤八郎良之が光忠の脇差しをうやうやしく差し出す。
「山口殿、殿がお乗りになる乗馬は疾風じゃ!すぐに準備を!」
「はっ!ただちに!」
山口飛騨守も濃姫に別な指示を与えられて飛び出していく。信長は我妻ながら天晴だと感心しながらも実に手早く具足を見に纏い、両刀を身に帯びる。
「いざ、お盃を」
「おう」
濃姫より差し出された盃へなみなみと酒をつぎ、信長は一気に飲み干した。そして、侍女が運んできた飯椀を取り上げるかのように手に取ると、これまた一気に湯づけをかき込んでいく。
「ゆくぞ!ついて参れ!」
長谷川橋介・岩室重休・佐脇良之・加藤弥三郎ら小姓衆を従えて馬場へ向かう頃、河尻与四郎が走り去った方角から法螺貝の音が城中に響き渡る。
「殿!」
「でかした、ご苦労!」
山口飛騨守より愛馬疾風の手綱を受け取った信長は、河尻与四郎が「方々、出陣ぞ!殿はもう馬に召されましたぞ!」と叫ぶ声を聞きながら、馬を駆って城門へ。
わずか小姓衆五騎のみを伴って居城・清洲城を発した信長の跡を、河尻与四郎もすかさず追い始める。そうして、織田兵が狼狽しながら城を出ていくのを振り返ることもせず、信長は駆けていく。
「殿!」
「おお、河尻与四郎に簗田出羽守、服部小平太、毛利新介も参ったか」
小姓衆五名に続き、四名が加わるも信長を含めて十名という参集状況。そのようなことは信長とて織り込み済み。それゆえに、熱田神宮という分かりやすい目印を兵の参集地としたのである。
しかし、信長は一気に熱田神宮へ向かうことはせず、道中にある榎白山神社や日置城、日置神社、法持寺へと立ち寄り、祈願しながら南下し、辰の刻に熱田神宮へ到着した。
熱田神宮の南に位置する上知我麻神社からは鷲津・丸根の両砦から立ち昇る煙が眺望できた。信長は心の内で合掌しながらも、落ち着き払った様子で兵の参集を待ち続ける。
「立ち上る煙から見るに、鷲津砦と丸根砦が陥落。そうでなくても、陥落寸前であろう。となれば、沓掛城におる今川本隊も動き出す頃合いか」
立ち昇る煙から想定できる事柄を頭の中で整理しながらも、兵が三百ほど集まった頃合いを見計らって持参してあった願文を読み上げていく。
源義元と平信長とでは兵力差は歴然たり、多勢に無勢。厳しい戦いとなる事必定であるが、熱田大神の力を借りて是が非でも勝利したい旨が記されていた。
朝の澄み切った空気の中、それよりも透き通る声で願文を読み終えた信長はそれを片手に拝殿をのぼって中殿へと進んでいく。
それからは鏑矢とともに願文を奉納し、巫女から差し出された御酒を一口で体内へ取り込むと、空となった土器を返すと、先ほど願文を読み上げた社前へ舞い戻る。
「皆の者、よく聞け!鏑矢と願文を奉納した折、神殿の奥深くから鎧の触れ合う音が聞こえた!これぞまさしく、熱田の神が我らを護り、勝利へと導く印である!」
眦を挙げて集まった兵らに吼える様は獅子の如き迫力があった。そのあまりの気迫に、兵たちは奮起し、本当に神の加護があるのだと疑いなく信じ込んでしまう。
「山口飛騨守!馬を曳け!」
「はっ、ははっ!これに!」
信長はじっと信長の愛馬を曳いて待っていた山口飛騨守より手綱を受け取ると、騎乗。信長が発した出発の号令に、家来の人数が揃った者たちから順にその後へ続きだす。
信長が熱田神宮にて戦勝祈願をしているうちに、七、八百人ほどには人数が膨らんだものの、依然として今川軍と合戦するには心許ない人数であった。
されど、信長が熱田神宮へ入るまでの道中で信長出陣を知った周辺の地侍らが合流し、半刻ほどして丹下砦へ着陣する頃には千を数えるまでに兵力は膨らんでいた。
「おお、殿!」
信長到着を驚きと共に出迎えたのは丹下砦の守将・水野帯刀忠光であった。
「おう、水野帯刀か!」
「はい!お久しゅうございまする!」
「鳴海城はいかがじゃ」
「はっ、目立った動きはなく、このまま今川本隊の援軍到来を待っておるのかと!おそらく、援軍来たるの報を受けたならば、それに合力する形で打って出てくることもあろうかと!」
「よし、そなたは引き続き守備を頼む」
「お任せあれ!信長様は丸根砦と鷲津砦の援軍へ向かわれるのですな!」
水野帯刀からの問いに返答することなく、信長は門をくぐって砦内へ。そんな当主の背を呑気に見送っていられるほどの暇などなく、続々到着する織田兵を迎え入れ、その対応に右往左往する羽目になっていた。
そうして丹下砦にてわずかばかりの休息を取った後、あともう一息だと丹下砦より南東に位置する佐久間右衛門尉信盛が守備する善照寺寺へ入った。時すでに、巳の刻。
「殿!佐久間右衛門尉信盛、殿のお越しを今か今かと待ちわびておりました」
「戦の終わらぬうちから泣くでない!気持ち悪い!」
「はっ、ははっ……!」
ボロボロと眼から零れ落ちる雫を土煙で汚れた袖でゴシゴシと音を立てて拭き取る佐久間右衛門尉。三十三歳となった彼の傍らに控える二十三歳の弟の姿を信長は見逃さなかった。
「おう、七郎左衛門もおったか」
「はっ、ご無沙汰しております!」
「ははは、兄弟そろって礼儀正しい奴らじゃ。七郎左衛門信辰!兄の言葉を聞き、しかと善照寺砦を守れ!分かったか!」
「ははっ!」
「よし!」
信長に負けじと大声で返事をしたことに満足したのか、信長は喜色満面で善照寺砦へ入っていく。
「河尻与四郎!」
「はっ、これに!」
「ここで一刻の休憩を取る。兵らにも思い切り休めと伝えよ!」
「承知!」
強面な河尻与四郎が真面目な面持ちで面前より下がると、信長は後より追いついてきていた側室である生駒吉乃の兄・生駒八右衛門家長や乳兄弟の池田勝三郎恒興、森三左衛門可成、塙九郎左衛門尉直政といった面々と談笑し始める。
そうした中、信長は四人の会話を手を挙げて遮り、じっと中島砦よりも遥か南西にある鷲津砦と丸根砦より吹き上がる火炎の煙を目視ししていた。
「殿、もしや丸根砦と鷲津砦が陥落したのでは!?」
「十中八九そうであろう。あの立ち上る煙の量は尋常ではない」
ひどく落ち着かない様子で立ち上がる生駒八右衛門に対して、信長の返事は春風駘蕩としたものであった。
援軍が入らない状況で、あの砦を数百の兵で数倍の今川軍から守り切るなど到底でき得ることではない。そんなことは信長とて百も承知していた。
されど、いざ砦が燃えているのであろう煙を視認すると、声や表情には表れないまでも、心かき乱す何かがあった。
そこへ、慌てふためいた様子で加藤弥三郎がある報せを持って取り次いできた。
「殿!」
「弥三郎、いかがした!」
「ははっ!鷲津砦より飯尾隠岐守以下百余名が落ち延びて参りました!」
「左様か。これへ通せ!」
「それが、目の前で父である近江守が無残にも討ち死にし、憔悴しきっている様子で、とても殿の御前へは参れぬと」
信長は舌打ちしながらも、加藤弥三郎へ飯尾隠岐守尚清の隊から仇討ちを遂げたい者はおらぬか呼びかけ、敗残兵の中から動ける者を選りすぐって隊に加えるよう申し付けた。
「なるほど、敗残兵といえど、仇討ちしたい者、軽傷で戦闘に参加できる者は多くおります。それらを隊に加えるは、良い案かと心得まする」
「勝三郎もそう思うか」
「はい!されど、なおも数は心許ないことに変わりはございませぬ」
「いかにも。じゃが、こうしておれが善照寺砦に入ってからも兵は三々五々と連れ立って来ておる。もうしばし、待つとする」
何分にも信長が懸念しているのは集まる兵の数。敗残兵からも選りすぐらねばならぬほど、兵数が不足している現状を何とかしなければならなかった。そこへ、加藤弥三郎と入れ替わるように、長谷川橋介が血相変えて駆け込んできたのだ。
「殿!織田玄蕃允以下百余名、落ち延びて来たる由!」
「よし、織田玄蕃允ならば飯尾隠岐守と違って話す余裕もあろう。これへ連れて参れ」
「ははっ!ただちに!」
そう言って信長に背を向けて走り去った長谷川橋介に案内される形で、幾筋もの矢を浴びて傷だらけの織田玄蕃允がやって来た。
「玄蕃允、ご苦労様であった」
「殿、無念にございます!防戦するも衆寡敵せず、鷲津砦は陥落となりましてございます……!」
「謝らずとも良い。攻め寄せたは何者の隊であったか」
「朝比奈備中守泰朝と三浦の旗を確認してございます」
「で、あるか。丸根砦のことは聞かなんだか」
信長の言に首を静かに横に振る織田玄蕃允。その頭とともに揺れる乱髪からは悲壮感が溢れている。
「よし、ここでじっとしてはおれぬ。織田玄蕃允、鷲津より落ちてきた者らはどこにおる」
「はっ、兵らを鼓舞しに向かわれるのですな。然らば、某が案内仕りまする」
信長の意図を汲んだ一言に信長は歯を見せて笑うと、織田玄蕃允案内のもと、善照寺砦まで落ちてきた敗残兵らを鼓舞して回った。
大将自らが敗残兵の前に姿を現し、兵たちの奮励努力を労い、鼓舞していく様に兵たちも生気を取り戻していくかのようであった。
「と、殿!」
「おう、いかがした」
今度駆けてきたのは佐脇良之であった。走ってきた方角は南門でなく、信長先ほどまで居た中央の陣所であったことから、先ほどまで信長がいた陣所まで報告するべく走り、探し回って辿り着いたものらしかった。
「はっ!佐久間大学が子、弥太郎が落ち延びて参り、父親の討ち死にを告げて参りました!」
「それで、弥太郎は?」
「松平勢が放った鉄炮に撃たれ、今はその傷の治療中にございますれば」
「で、あるか。丸根砦を攻めたは松平勢か。どこの松平勢であったか」
「はっ、弥太郎が申すには丸に三つ葉葵の旗、松平宗家の隊が中央に陣していたと」
松平宗家。そう聞いた信長の脳裏に真っ先に浮かんだのは、熱田にて人質となっていた竹千代の姿であった――




