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不屈の葵  作者: ヌマサン
第4章 苦海の章
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第86話 伯父からの頼みと揺れる決断

 翌日の辰の刻。大樹寺の一室には苅谷へと向かう面々が集まっていた。元康の命を受けて西三河を駆けまわっていた酒井左衛門尉忠次、高力与左衛門清長、阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛景能、平岩七之助親吉、平岩善十郎、鳥居彦右衛門尉元忠、渡辺半蔵守綱、植村新六郎栄政、石川彦五郎といった面々であった。


「そうじゃ、出発する前に平岩善十郎、天野三郎兵衛、前へ」


「はっ!」


「ははっ!」


 何かをしでかしてしまったか。そう考えて不安に思っているのが伝わる両名の表情であったが、次に元康からかけられた言葉はその不安を払しょくするには十分なものであった。


「両名の忠勤にはいたく感心しておる。ゆえに、わしから一字を与えることで報いることといたす」


 ここで偏諱が行われようとは予想だにしていない事態であったが、当の平岩善十郎と天野三郎兵衛は喜色満面で、他の近侍らからは羨望の眼差しを向けられていた。


「平岩善十郎。わしの『康』の一字と、そなたの父である新左衛門親重の『重』の一字を合わせ、今日より平岩善十郎康重と名乗るがよい」


「有り難き仕合わせ!名に恥じぬよう、これまで以上に働いて参る所存です!」


「うむ、今後とも頼むぞ」


 元康より『康』の一字を拝領し、歓喜に打ち震える平岩善十郎は嬉しそうに兄の元へ笑顔を向けていた。


 そんな仲睦まじい平岩兄弟を横目に、天野三郎兵衛が前へと進み出る。


「天野三郎兵衛にも『康』の一字を与えることといたす」


「ははっ、恐悦の極みに存じます!」


「うむ。そなたの父の諱は景隆。そちの諱にも入っておる『景』の一字はそのままに、天野三郎兵衛康景と名乗るがよい」


「はっ!天野三郎兵衛康景、これまで以上に粉骨砕身、殿の御為に働いて参る所存にございます!」


 元康は手短にではあるが、幼少の頃より自身に付き従ってくれている平岩善十郎康重、天野三郎兵衛康景に『康』の一字を与えることで彼らの忠勤に報いた。そして、その場に同席したものたちの功名心を煽ることにも成功したのである。


 そのうえで、意気揚々と大樹寺を出発。一行は一路苅谷城へと向かったのである。


「岡崎から苅谷まで、およそ四里。この速度で行けば、午の刻に到着となりましょう」


「やはり左衛門尉はよう知っておる。そうか、午の刻には苅谷か」


 そう独り言ちると、元康は馬上より辺りの長閑な風景を眺めながら進んでいく。道端で出会う農民や行商人に手を振りながら、進んでいく道は長閑なようで賑わいがあり、賑わいがあるようで長閑といった具合であった。


 矢矧川を渡り、さらに西へ西へと馬を進めていくと、安城城を望む地点へ到着していた。


「与左衛門、わしが尾張で人質となっていた頃の城主は織田三郎五郎信広であったな」


「はい。この城を崇孚和尚率いる今川の大軍が包囲し、城主である織田三郎五郎を捕縛。その身柄を殿との人質交換に用いたのでございます。天文十八年の頃にございますゆえ、かれこれ十一年も昔のこととなりましょうか」


「十一年か。わしにとっては人生の過半を駿府で過ごすことになろうとは、人質交換された折には考えもつかなんだ」


 人質交換が行われた頃、八歳であった自分が、今では十九歳となっている。それだけではない。駿府で様々な人と出会い、今川義元や太原崇孚といった人物から実に多くの薫陶を得た。


 人との出会い、学びに溢れた生活。それこそが、元康にとっての駿府での生活であった。さらには、関口刑部少輔氏純の娘・瀬名姫を妻とし、今川家親類衆という立場になり、嫡男にも恵まれていようとは、当時の自分に聞かせてやっても信じられまい。


 そのようなことを脳内で思い描きながら、因縁の地・安城を通り過ぎていく。そして、その安城城は祖父・清康が岡崎城を本拠地とするまでの居城であり、父・広忠が奪還を試みて大敗したという意味では、松平家にとっても因縁の地である。


 今ではその安城城には今川家の城代が置かれ、今川家が支配する地となっているのだから、不思議なものである。


「殿、あれが苅谷城にございまする!」


「おお、そうか。では、彦五郎は苅谷城へわしがまもなく到着する旨を先に行って伝えてはもらえまいか」


 この苅谷城は衣ヶ浦と呼ばれる入江の北端、その東岸に面した海城として築城された城である。


「ほう、苅谷城は船着場も備えておるというのか」


「はい。それゆえに、知多半島からの物資も搬入しやすく、万が一の折には水運を用いて知多半島へと脱出することも可能な城にございます」


「なるほど。築城したは我が外祖父、水野右衛門大夫妙茂であると言うが、よく考えられた造りの城じゃ」


 苅谷城の造りについて、その後も酒井左衛門尉から詳細な説明を受けながら、大手門前へと到着。先に石川彦五郎を派遣していたこともあり、城門はすんなりと開いた。


「では、参るとしようぞ」


 元康を先頭に、付き従う家臣らが続いていく。城主の甥の一行ということもあり、すれ違う水野家の武士たちから敵意を帯びた眼差しを向けられるようなことはなかった。


「殿、対面の未の刻まであと半刻。しばし休息の後、衣服を取り換えましょうぞ」


「うむ、それが良かろうな」


 応対した水野家臣に案内されて通された部屋にて、家臣らは岡崎からの移動の疲れを取るとともに、周辺の警戒を忘れない用心深さも持ち合わせていた。そこへ、すり足で一人の人物が姿を現す。


「これは松平蔵人佐元康殿。岡崎よりよくぞお越しくださった。拙者、水野伝兵衛近信と申しまする」


「水野伝兵衛殿、ご丁寧なあいさつ痛み入る。つかぬことを窺いますが、駿府におられる源応尼様のことをご存じでございましょうか」


「ええ、存じ上げておりまする。某にとっては産みの母親にございまするゆえ」


「やはり。昔、源応尼様から水野伝兵衛殿の名を窺ったことを思い出したもので。出会い頭に突然、申し訳ござらぬ」


 そう、元康の前にやってきた水野伝兵衛近信という男は源応尼の子であり、亡き水野右衛門大夫妙茂の四男。すなわち、元康にとっては叔父にあたる人物なのである。


「よもや、このようなところで叔父上とお会いできようとは思いも寄りませなんだ」


「それは拙者とて同じ事。そうじゃ、駿府におわす母上は壮健であったか」


「ええ、六十を超えておられるとは思えないほど元気に過ごしておられます」


「それを蔵人佐殿の口から聞けて満足いたした。短い間ではござるが、何ぞ不都合でもございましたら、遠慮のうお申し付けくだされよ」


「お気遣いいただき感謝いたしまする」


 三十過ぎの叔父・水野伝兵衛はがさつながらも、律儀に一礼して元康たちのいる部屋より退出。それからしばらくの間、廊下からは足音一つしなかった。


「善九郎、そろそろ未の刻ではないか」


「はい。あと四半刻で未の刻となりまする。そろそろお召し替えをいたしましょう」


「そうじゃな。では着替えるとする」


 まもなく未の刻ということもあり、元康は少しでも威厳の出るよう正装にて苅谷城主・水野藤九郎信近との会見に臨むこととした。


「やはり緊張するものじゃ。見よ、手からも汗が出て参った」


「殿でも緊張するのでございまするな。ご案じなさいますな、我らも傍におります。何かあればすぐにでも駆けつけまするゆえ」


「頼もしいことを申してくれる。では、そなたらもおることゆえ、安心して苅谷の叔父との会見に行ってまいるとしよう」


 正装に威儀を正して、城主・水野藤九郎のいる広間へといささか重い足取りで向かうのであった。


 苅谷城の大広間の扉は開け放たれ、開放感のある一つの空間として整えられていた。その最奥、上座に座しているのが齢三十六となった城主・水野藤九郎信近その人であったのだ。


「お初にお目にかかります。松平宗家当主を務めております、松平蔵人佐元康にございます」


「拙者が苅谷水野氏当主、水野藤九郎信近じゃ。松平蔵人佐殿、わざわざのお運び、まことかたじけない」


「いえいえ、某が適任であろうと思い、苅谷まで参上いたしました。それほどの要件であると我らは見ておりますゆえに」


 じっと元康の双眸を見つめる水野藤九郎。そんな伯父に負けまいとにらみ返す元康。その構図が数拍の間続いたかと思えば、水野藤九郎の方から笑い声が漏れ出す。


「ふっ、あの竹千代が大きくなったものじゃ。拙者の耳にその名がよく入って来る頃は幼名であったというのに」


「伯父上の耳にも某の名が聞こえておったとは意外にございました。して、その所感はいかなるものにございましたでしょうや」


「取るに足らぬ小倅。そう思っておったわ。海道一の弓取りが出張って来なんだら、岡崎城を吸収して食らってやろうと思っておったが」


「なるほど、さしずめトンビに油揚げをさらわれた、といったところにございましょうか」


「ふっ、海道一の弓取りを鳶呼ばわりとは怖いもの知らずじゃな」


 くっくっくっ、と不気味な笑いを発する水野藤九郎。その様は水野の老臣たちからは若い頃の水野右衛門大夫のように映っていた。


「そうじゃ、我が異母弟には会うたか」


「はい。先ほど、控えの間にて水野伝兵衛殿とお会いいたしました」


「そうか。あの弟は根は真っ直ぐで上下の身分を問わず好かれる質の男じゃ。今後、わしから蔵人佐殿へ使いを派遣するとなれば、あの者を起用するつもりでおる。そなたが石川彦五郎を用いるようにな」


「委細承知いたしました。今後とも良しなに」


 互いにけん制しつつも、まだまだうわべを取り繕ったまま、やり取りは続いていく。そこへ、一言も発することなく控えていた少年が口を開いた。


「父上、そろそろ本題に入られてはいかがか。このように松平殿を牽制するような言葉をぶつけていても、埒が明きませぬ」


「父上?」


 己の意見を発した自分とそう年の変わらぬ青年の言葉の中で、真っ先に発された『父上』という言葉に、元康の思考が持っていかれてしまう。


「おお、紹介がまだであったな。こやつが我が嫡男じゃ。ほれ、名乗らぬか」


「はっ。ただ今父より紹介に預かりました。水野信政にございます」


「御嫡男にございましたか。ご丁寧なあいさつ、痛み入ります。松平蔵人佐元康にございます」


「存じております。初陣において西加茂郡を瞬く間に制圧した手腕、尊敬の念に堪えませぬ」


 父のようなしたたかさといったものは微塵も感じられない実直な少年。それが元康から見た水野信政という人物の第一印象であった。そんな少年が口を挟んだこともあり、話題はようやく本題へ入ろうとしていた。


「然らば、我が兄より届いた今川家へ帰参したいとの申し出について話すとしよう」


「はい。某もそれを承るべく、岡崎より参りましたゆえ。某としても、今川家の者らも真偽なるやを測りかねている、というのが正直なところにございます」


「さもありなん。これまでの兄がしてきたことを思えば、そう思われるのも無理はない。じゃが、此度の申し出、この藤九郎信近、天地神明に誓って偽りではないと断言いたそう」


 ――どうか信じてほしい。弟である自分が保証する。


 そんな固い意志のようなものが感じられる瞳は、元康の情に訴えかける何かがあった。


「じゃが、それでは今川家の当主様はもちろん、御隠居様は信じられぬであろう」


「はい」


「ゆえに、起請文と人質の件は拙者も提出することといたす。起請文は兄と揃えて当主であらせられる氏真様、御隠居の義元様に宛てて提出いたしまする。人質の件は兄の下野守からは末弟の藤十郎を出しても良いと申してきておる。拙者からはここにおる嫡子信政を出すつもりでおる」


 よもや苅谷水野家からも人質を出すという話になるとは思っていなかった元康もさすがに面食らった。重臣たちの信じてはならぬという言葉と、先ほどの訴えかけるような眼とが同時に思い起こされる。


「どうであろうか、蔵人佐殿。我ら伯父どもの申し入れを聞き入れてはもらえぬであろうか」


 どれほど重臣らから信用ならぬと言われようが、元康にとっては生き別れた生母の実家。なるべく便宜を図りたいと思ってしまう。そして、今回は後者の感情が勝ったのであった。


「承知いたしました。では、某が駿府へ戻り次第、御屋形様と太守様に打診することといたしましょう」


「いやぁ、それはかたじけない。この水野藤九郎、伏して御礼申し上げる。つきましては、隣の間に心ばかりの食事を用意してござる。蔵人佐殿に引き合わせたい御仁もすでに到着しておるゆえ、隣の間へ参るといたそう」


 伯父・藤九郎に案内されるまま入室した隣室には、侍――ではなく、黒髪の美しい一人の女性が控えていたのであった。

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