第70話 繁栄を約束する血統
屋敷中に響き渡る元気な赤ん坊の声。その声のした方へ元康が足早に移動していると、正面から元康を探していたらしい平岩七之助が駆け寄ってきた!
「殿!お産まれなされました!」
「おお、それは鳴き声を聞けば分かる!して、和子か姫か、いずれであったか」
「はっ、ははっ!玉のような和子にございまする!」
和子。すなわちは嫡男であった。このような若年で嫡男に恵まれるとは、先々代・清康といい、先代・広忠といい、当代・元康といい何か跡取りに恵まれる相でも持ち合わせているのかもしれなかった。
「殿!ご嫡男の誕生、まこと祝着至極に存じまする!」
「おお、和子か!して、今はいかにしておる」
「ただいまは産湯を使わせられておりまする!すぐにもご対面を!」
「そうじゃな。わしが出生した折と同じく、胞刀と蟇目の式をせずばなるまい。そちらの支度も急ぎ進めよ!」
「はっ、そちらはすでに酒井雅楽助さまが準備を終えられておりますれば!」
さすがは酒井雅楽助政家。やはり経験者は動きが違った。先を見据えて動く様は、元康も感服するほかなかった。
「うむ。では、わしは会うに参るとしようぞ」
「はっ、ではこちらへ!」
平岩七之助の案内の下、元康が廊下を進んでいくと、蟇目の役が鳴らす弓弦の音が元康の耳へと飛び込んでくる。
悪魔を近寄らせないという意味を込めてかき鳴らされるその清らかな音に、元康もまた、生まれた和子が無事に生涯を歩めることを祈るばかりであった。
対面の前には改めて衣服を正し、ふぅーと深く息を吐きだす。誰の目から見ても落ち着こうとしているのが分かる元康の挙動であったが、ついに覚悟を決めたのか、ようやく部屋へと足を踏み入れる。
元康の来訪した折には、この乱世に生を受けたばかりの赤ん坊は純白の産着の中で静かに目を閉じている。
「赤ん坊とはよく言ったものじゃ。本当に赤い……!」
瀬名の側に仕えている乳母からうやうやしく差し出された赤子を抱きかかえる元康。その表情は何をしている時よりも穏やかで、ありふれた父の眼差しであった。
「殿、和子にございまする」
元康が産まれたばかりの我が子と対面していると、その様子を慈母の如き様で見守っていた駿河御前がようやく口を開いた。
出産という大戦を終えて唇を真っ白にし、眼も眠っているのではないかと思えるほど薄く開けている御前であった。その様子に、元康も労わずにはいられなかった。
「瀬名、まこと大儀であった……!見よ、我らが子ぞ。おお、ほれ、笑ったぞ」
「ふふっ、殿はまことに嬉しそうにございまするなぁ」
「当然であろう。我が子を見て、喜ばぬ親などおらぬ」
この永禄二年三月六日に松平蔵人佐元康と駿河御前との間に産まれた男子は竹千代と名付けられた。元康の次に松平宗家を担う者としての重責が、名前という見える形で小さすぎる双肩に乗っかっているようであった。
「殿、瀬名は少々休ませていただきまする」
「おお、疲れておろうに、長話をしてしまい相済まぬ。うむ、ゆっくり休むがよい」
「はい、ありがとう存じます」
そう言い終えるなり、すぅっと顔から力の抜けていく駿河御前。出産を終えた彼女の疲労は、到底元康には測り知れなかった。だが、疲れているであろうことを察するくらいのことはできた。
「竹千代のことは、そちたちに任せるといたす。我らは退出するとしようぞ。あまり騒いで瀬名を起こしては悪いゆえな」
元康に付き従っていた鳥居彦右衛門尉、平岩七之助の両名は共に退出。廊下での立ち話もなんであるとして、広間へと移動し、着座。
「さて、竹千代も生まれ、当家は安泰じゃ。ゆえに、両名に相談じゃが、竹千代を後見させるとすれば、誰が適任であると考えるか。わしの二名まで絞り込めておる。まずは、彦右衛門尉。そなたの意見から聞こう」
「はっ!然らば、某は石川与七郎どのが適任であると考えまする。文武に優れ、教養も豊か、何から何まで卒なくこなしまするゆえ」
「おう、それはわしも同意見じゃ。彦右衛門尉、早くも正解を言い当ておった」
元康は膝を打って鳥居彦右衛門尉を褒めそやした。十中八九は正解であろうとは考えていたが、よもや本当に正解だとは思わなかった鳥居彦右衛門尉。そんな彼は元康に褒められて、照れくさそうに笑っている。
「では、平岩七之助。そちは誰が竹千代を後見するがよいと思うか」
「はっ、ははっ。然らば、本多作左衛門どのが適任ではないかと。あの御方ならば、竹千代さまご成長の後もしかとお諫めすることのできる人物でありましょうゆえ」
「たしかに、作左衛門は思うたことを直言するうえ、強情じゃ。たしかに諫言する役回りは向いておるやもしれぬ。が、わしは別の人物を考えておる」
「本多作左衛門どのではないとすれば、酒井左衛門尉どのでしょうや?」
このまま不正解では引き下がれぬとばかりに、酒井左衛門尉の名を引き合いに出す平岩七之助。しかし、元康の人差し指は、そんな七之助の方へと向けられた。
「あ、あの、殿。その指は一体何を……」
「わしが石川与七郎とともに竹千代を後見するに適しておると思うた人物を指さしておる」
「で、では……!」
「うむ、わしが考えた二名のうち、一名は石川与七郎数正。そして、もう一名は平岩七之助親吉。そちじゃ」
思いも寄らぬ指名に、平岩七之助は状況を飲み込むのに少々時を要した。その戸惑う様子を見て、元康はくすりと笑みを浮かべる。
「七之助、何故子には父と母がおると思うか」
「それが自然の摂理だからにございまする」
「それも間違ってはおらぬが、わしは子を育てるためにどちらも欠かせぬからじゃと思う」
「どちらも欠かせぬ……?」
一体、目の前にいる主君は何を言わんとしているのか。そして、それが産まれたばかりの竹千代を後見する者の話にどう関与しているというのか。
それをくみ取ろうと必死になる平岩七之助。だが、答えにはまだまだ辿り着けそうになく、それは元康からも見てとれた。
「うむ。わしがどちらも欠かせぬと申したのは、父母にはそれぞれ役割があるということ。此度の場合であれば、厳格な父親としての役割は石川与七郎が担えばよい。となれば、慈しみのある母親としての役割は誰が良いかとわしは考えた」
「それで選ばれたのが、某にございまするか……?」
「そなたの生まれ持った温厚篤実な性分。それは我が家臣ではそなたしか持ち合わせてはおらぬ。そんな唯一無二の性分を持ったそちこそ、適任であると考えたのじゃ」
己の性格を唯一無二と評されたのでは、平岩七之助に限らず、誰であっても感極まるものである。自然に瞳からじわりと涙が溢れ、正座している膝の上へ、一滴、また一滴と零れ落ちていく。
「石川与七郎が武士としての教育役ならば、平岩七之助。そなたは人としての教育役を務めるがよかろう。うむ、父母の存在意義などと回りくどいことは覚えぬでもよい。そちは竹千代が一人の人として在れるよう導いてもらいたい」
「しょ、承知しました。竹千代様の後見役、見事に務めてご覧にいれまする!」
「それでよい。じゃが、あれもまだ生まれたばかりの赤ん坊。今しばらく面倒を見るは乳母どもとなろう。そなたの出番はその後じゃ」
覚悟を決めた平岩七之助親吉の瞳は先ほどまでとはどこか違っていた。何か新たな使命を背負ったような、それでいてこれまでの温和さを置き忘れてきたわけでもない。そんな不思議さを感じさせる眼差しをしていた。
「あとは竹千代の近侍とする者らもいずれは探さねばならぬか。どうじゃ、彦右衛門尉。鳥居一族の中で、竹千代とさほど齢も変わらぬ者はおらぬか」
「そうですな、鳥居正載が子、鳥居又十郎ならば今年で十にございまするゆえ、ちょうどよいかと」
「うむ、わしと石川与七郎ほどの年の差ゆえ、ちょうど良いやもしれぬ。候補の内に加えておこうぞ」
そういう元康に今度は平岩七之助が竹千代付の近侍の候補を挙げようと声を発した。
「殿、昨年の寺部城攻めにおいて討ち死を遂げた本多重玄が遺児、本多九蔵はいかがにございましょう」
「うむ、たしか二ツか三ツの年頃であったか」
「はい。今は伯父にあたる本多作左衛門どのが扶育しておると聞きまする」
「そうであったか。然らば、本多九蔵重玄が忠勤に報いる意味でも、近侍に取り立てるのがよいやもしれぬ」
かくして、生まれたばかりの嫡男には誰をつけるべきか、早くも親バカぶりを見せ始める元康であったが、そこへ来客が石川与七郎とともに到着したというのである。息を切らせて知らせに走ってきたのは阿部善九郎正勝であった。
「おお、善九郎ではないか。いかがした?」
「はっ、ただいま石川与七郎とともに関口刑部少輔夫妻ご到着の由」
「おお、舅殿らが参られたか。ならば、お二方を広間へお通しせよ。今、瀬名は眠ったところゆえ、今しばらく対面は叶わぬとも伝えておいてくれい」
「ははっ!仰せしかと承りましてございます!」
きびきびと動く阿部善九郎の背中が廊下の角を曲がって見えなくなると、元康も平岩七之助・鳥居彦右衛門尉の両名を伴い、広間へと向かった。
元康が広間へ入ると、一足早く広間に入っていた関口刑部少輔夫妻の話し相手を石川与七郎と酒井左衛門尉の両名が務めているところであった。
「舅殿、参上が遅くなり真に申し訳ござらぬ」
元康は視線で石川与七郎と酒井左衛門尉を労うと、すぐにも視線を舅と姑へと向けなおしていく。
「おおっ、婿殿!先ほど瀬名は眠っておると阿部善九郎どのより承ったが……」
関口刑部少輔は父親として、やはり娘の体調が気にかかるのであろう。そして、眠ったと聞いてどこか具合が悪いのではないかと懸念しているようでもあった。
それゆえに、元康は最優先に、その舅の懸念材料を一つ一つ解きほぐしていく必要があった。
「ご安心下さいませ。まず、母子ともに健康にございまする。瀬名は出産時の疲労が出た模様にございまする」
「そ、そうか。それを聞き、安堵したぞ」
「まったく、心配せずともよいとあれほど申しましたのに」
「お、おお。すまぬ……」
お産を経験している関口夫人には瀬名が眠ったと聞いて、事情を察することができていたらしく、心配してやまない夫に呆れていた様子。
そんな舅と姑の夫婦漫才に元康は笑みをこぼすと、たまりかねた関口刑部少輔が咳ばらいを一つ。話題を生まれた子供のことへと移していく。
「生まれたのは男であったと、石川与七郎どのと酒井左衛門尉どのより窺っておる。嫡男ゆえ、名を竹千代と定められたことも」
「はい。紛れもなく、正室が産んだ嫡男。いずれは松平宗家の主として一族を束ねていくことにもなりましょう」
「そうか。我が孫が松平一族を……」
「いかにも。今川家御一家衆であらせられる関口家の血が流れた子、いずれは松平一族を束ね、今川家を支える一門の将となりまする」
今川家の従属国衆という立場が続く限り、元康よりも竹千代の代の方が松平宗家の家格も上がり、今よりも重要な役割を担うことともなっていくことになる。
遠江国における朝比奈氏のように、三河では松平家がその役割を担っていくことになるのではないか。そのようなことが元康の脳裏を過ぎっていた。
「婿殿の仰せ、まことにごもっとも。となれば、某の外孫が松平を担い、婿養子の北条助五郎氏規殿が関口家を継承し、我が兄である瀬名左衛門佐氏俊の娘が武田六郎信友殿に嫁いでおる」
「関口家、瀬名家の縁者が一門の家格で御屋形様、御屋形様の子の代を支えていく。となれば、舅殿は大いに権勢を振るえましょうぞ」
そう。元康から見ても、北条助五郎や武田六郎と妻の実家を通して縁続きということが持つ意味は大きなものであった。
相婿の北条助五郎氏規は相模の北条氏康の四男であり、主君・今川氏真の従弟。さらには今川氏真の正室・春姫の兄。
瀬名の従姉妹の旦那である武田六郎信友は現当主・氏真の叔父。何より甲斐の武田晴信の異母弟でもある。
そんな両名と元康はすでに面識がある。この縁続きの両名とともに今川家を支えていく。そうすれば、必然的に嫡男・竹千代の地位は向上していく。松平家の未来は安泰といってよかった。
「舅殿。此度産まれました竹千代ともども、よしなにお引き回しのほどを」
「ははは、婿殿。そう畏まらずともよい。そなたや竹千代に何かあれば、この関口刑部少輔が必ずや力になりましょうとも」
「ありがとう存じます」
これこそ、我が世の絶頂。そう錯覚してしまうほどに、未来を考えてニヤニヤが収まらない元康。その錯覚が絶望へと転じるまで、あと一年二ヵ月と十三日……




