第43話 三河忩劇、終息す
今川氏に対して反旗を翻した作手奥平氏。当主・監物定勝の意思に反して、反今川で動き続ける九八郎定能。離反して半年が経過した八月四日、再び事態は動き出そうとしていた。
そんな彼ら造反軍は、今川義元の軍令を受けた菅沼新八郎定村や本多彦八郎忠俊、戸田甚五郎宣光といった東三河の諸将によって本格攻勢を受ける事態となっていたのだ。
次は宝飯郡との境に近い阿知波城を拠点とする阿知波定直らに狙いを定めた今川軍による攻撃が始まろうとしていた。
「弟たちよ、阿知波城は天険の要害。されど見よ、敵兵は僅か。突破は容易かろうと思うが、お主らはいかが思うぞ」
木戸柵の前に立った菅沼新八郎定村は自信ありげに背後の弟二人を顧みる。意見を求められた新三左衛門定貴、半五郎定満らも首を縦に振り、兄・定村の意見に同意した。
弟らからの同意に勇気を得た菅沼新八郎率いる野田菅沼勢は突出し、阿知波城へと攻めかかる。野田菅沼勢だけで城が制圧できたならば、今川義元からの褒賞も思いのまま。
そんな期待に胸を膨らませながら行われた城攻めであったが、戦というものはそうした欲望を残酷に打ち砕こうとする。後続が追いつかないまま城攻めを戦端を開いてしまった野田菅沼定村。
そんな彼は城を守る側の阿知波五郎兵衛により放たれた矢を受けて落馬して絶命。馬上にて下知するところへ、飛来した矢が左喉から耳を貫いていったのであった。享年三十六。
思いがけず大将を失った野田菅沼勢は新三左衛門定貴、半五郎定満ら弟二人が立て直しを測るが、この弟たちまでもが討ち死にしてしまう壊滅的被害を受けてしまう。
先走って戦端を開いた野田菅沼勢に大打撃を与え、初戦を制した阿知波城の者たちであったが、そう喜んでばかりはいられなかった。
第二陣として参戦した伊奈城主・本多彦八郎忠俊の手勢によって城を奪われることとなったのである。
――もはや勝ち目はない。
そう悟った奥平氏は離反してから半年ほどで今川家に再度従属することを決定。奥平監物は義元へ赦免を請い、弟である貞直を処分することで離反の罪を許され、義元より作手領の領有を保証されることとなった。
しかし、奥平家中では今川氏への逆心を企てた奥平九八郎定能への反感が燻っていた。ゆえに、九八郎定能は十月、監物定勝の親今川派の親類衆によって高野山へ追われることとなる。
この作手奥平氏の今川への再従属により、事実上の孤軍となったのは田峯菅沼氏であった。
同月二十一日、菅沼大膳亮定継は今川方として向かってくる弟である菅沼弥三右衛門定直、菅沼十郎兵衛定氏、菅沼定仙ら菅沼一門や被官の林左京進による鎮圧軍の反撃に晒され、ついに敗退。
暑さが厳しさを増す中、敗走する菅沼大膳亮らへの追撃も厳しさを増していく。執拗な追撃に、居城である田峯城までは到底逃げ切れず、ついに菅沼大膳亮は少数の供廻りとともに布里の黒ヌタという地で討ち取られてしまった。
当主を討った時点で戦がやむかに見えたが、追撃する今川方の菅沼一門らは田峯城へ進軍。そのままの勢いで城を占拠してしまうのであった。
この時、菅沼大膳亮の遺児・小法師も田峰城外で鎮圧軍に身柄を確保されている。弟の定直らは、この小法師を新たな総領として擁立することを今川義元から認可され、これまで以上に今川氏への忠勤に励むことを誓うのであった。
作手奥平氏、田峯菅沼氏が相次いで今川氏に従属したことで、形勢は今川方有利に転じた。足助鱸氏も今川家へ降伏し、大給松平氏も帰参することを申し出る事態となった。
この時、大給松平親乗は十一歳になる嫡男・竹千世を三河国吉田へ人質として提出している。
ちなみに、この竹千世は随念院にとって孫にあたる者であり、元信にとっても又従兄にあたる人物なのである。
――閑話休題。
かくして、年明け早々から今川義元を悩ませ続けた三河忩劇も収束となり、三河はひとまずの平穏を取り戻した。
そして。ついに元信は今川義元からの許可を受け、三河国岡崎へ帰省することとなったのである。
「殿、道中の無事をお祈り申し上げます」
「うむ、三河での忩劇も収束と相成ったが、まだまだ安心できる情勢ではないゆえな。瀬名もわしの身を案じるがあまり、眠れぬ日々を過ごすようなことなどないようにいたせよ。でなくば、安心して留守を任せられぬゆえな」
「はい、もちろんでございます。留守中のことはお任せください」
そう言って一礼する駿河御前の肩に優しく手を置く様は「無事に帰ってくるゆえ案ずるな」と無言で語りかけているようであった。
「留守居役として酒井左衛門尉忠次、石川与七郎数正、高力与左衛門清長、平岩善十郎らを残していく。何か困ったことがあれば、この四名を頼るがよい」
「お心遣いありがとうございます。では、殿。お帰りになる日を心待ちにいたしております」
駿河御前ら家中の者らの見送りを受けて駿府を出立した松平次郎三郎元信。それから幾日かかけて駿河、遠江を抜けて三河へ入った。
付き従うのは酒井雅楽助政家を筆頭に、阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛景能、植村新六郎栄政、鳥居彦右衛門尉元忠、平岩七之助親吉ら近侍たちであった。
松平次郎三郎元信となって帰ってきた竹千代が、三河国岡崎へ帰って来る。その知らせを受けて、松平家臣は大いに歓喜した。しかし、岡崎城には今川家が派遣した城代がいるため、城へ入れるわけにもゆかず。
そこで、石川安芸守忠成と鳥居伊賀守忠吉の「菩提寺である大樹寺へひとまず入っていただこうではないか」との発案で、元信一行は大樹寺へ入ることと相成った。
「殿、岡崎へのお戻りを家臣一同、心待ちにしておりました」
「うむ。鳥居伊賀、石川安芸の両名も宿の手配、ご苦労様であった」
「勿体なきお言葉……!」
元信の何気ない感謝の言葉に胸打たれ、号泣し始める鳥居伊賀。それを隣でたしなめる石川安芸もまた、瞳から水滴が今にもあふれ出んとしている。
何せ、最後に会ったのは七年前。その折は八歳の少年。ふっくらした丸顔の少年であったのだ。それが、今や筋骨たくましき青年へと変貌を遂げているのである。それだけでも、老人たちは涙が止まらないほどの喜びを感じていた。
「さっ、今日はお疲れにございましょう。満足なお食事も良いできませぬが、精いっぱいのおもてなしをさせていただきまする」
鳥居伊賀守が手を叩くと、同伴している彦右衛門尉と似た顔立ちの少年と丸顔で温和そうな雰囲気を纏った青年が食膳を運んできた。
「殿、この者が不肖の倅にございまする。さっ、四郎左衛門。殿に御挨拶申し上げよ」
「ご紹介に預かりました、鳥居伊賀守が四男。鳥居四郎左衛門にございまする。以後、お見知りおきを」
武芸者らしい筋肉質な体つきをした少年――鳥居四郎左衛門は見た目からは想像もつかないほどに丁寧なお辞儀をしてみせる。
その意外性以上に、元信は鳥居四郎左衛門が鳥居彦右衛門尉の弟だと知り、道理で顔立ちが似ているわけだと合点がいっていた。
「うむ。四郎左衛門、今後ともよろしく頼む」
「ははっ!」
鳥居四郎左衛門が再び一礼し、一拍空いた頃合いを見計らい、鳥居伊賀は石川安芸へと目くばせをする。それに応じて、今度は石川安芸が鳥居四郎左衛門とともに食膳を運んできた青年を紹介し始める。
「殿!この者は某の三男、石川彦五郎にございまする」
「石川彦五郎にございまする!以後、よろしくお頼み申し上げまする!」
「うむ、石川彦五郎。こちらこそよろしく頼むぞ」
元信が駿府に残してきた石川与七郎数正の叔父にもあたる、眼前の石川彦五郎という誠実そうな顔立ちの青年に好感を抱いているところへ、石川安芸が言葉を続けてゆく。
「実は、この石川彦五郎の生母は殿のご生母、於大の方様の姉にあたりまする。つまりは、殿にとっては母方の従兄にあたるものでもございます」
「そうであったか。貴重な血縁者じゃ、仲良うやって参ろうぞ」
「勿体なきお言葉……!この石川彦五郎、殿の御為、粉骨砕身邁進いたしまする!」
涙もろいところは父親に似たのか、むせび泣き始める石川彦五郎。そんな彼に、石川安芸までもが泣き始める連鎖が起こり、喜びに満ちている空間に涙が零れる、奇妙な空気が漂っていた。
そこへ、石川安芸守忠成のもう一人の息子が取り次ぎのため、障子の裏へとやってきた。
「父上、右馬允康正にございます。ただ今、田原御前さま、随念院さまご到着。矢田姫さま、市場姫を伴っておられます」
「殿、某が大樹寺に滞在しておることをお二方にお伝えておりました。これへ、お通ししてもよろしいでしょうや?」
「うむ、通してくれ。わしも継母上や大叔母上にはお会いしていた思うておったところゆえな」
「然らば仰せの通りに。右馬允!」
「ははっ、これへお連れいたしまするゆえ、しばしお待ちくださいませ!」
来訪者の取次をした石川右馬允は素早いすり足で廊下を移動。それからしばらく、再び静寂が訪れる。耳を澄ませば蝉の声がまだかすかに聞こえる、夏の終わりの岡崎。
――ここが生まれ故郷、岡崎。ようやく帰ってこれた……。
そんな想いが元信の心を締め付ける頃、来訪者四名を伴って石川右馬允が到着。再び室内に明るい空気が戻って来る。
「竹千代殿――いや、元信殿。お会いできる日を待ち焦がれておりましたぞ」
「おお、継母上!長らく顔を見せられず、元信めも心苦しゅうございました。こうして、お会いできて感慨無量にございまする……!」
随念院よりも先に元信の手を取ったのは先代・広忠の継室、田原御前であった。実家が今川氏に攻められ、帰るところを失ったこともあり、岡崎に滞在し続けていたのである。
そんな彼女も最後に会った時よりも一回り近く年を重ねており、昔と比べれば美貌も陰りが見える。されど、まだまだ若く、十分男を虜にできる美貌は残されていた。
「継母上、近ごろは我が妹らの面倒を見てくれておるとか。改めて、感謝申し上げまする」
「ほほほ、感謝などと。先代の継室として、その子らの養育にあたるは至極当然のこと。感謝されるいわれはございませぬ」
「それは重々承知しております。それでも、元信は感謝したいと思ったなればこそ、感謝の言葉を述べておるのでございます」
「まぁ……元信殿からそのようなお言葉が聞けて、妾は幸せ者にございます」
潤んだ瞳で元信を見つめる田原御前。この二人の間に血の繋がりこそないが、その再会に漂う空気は紛れもなく母と子であった。
そんな田原御前との対面の次は、その後ろで控えている尼姿の老女――随念院との対面が待っていた。
「元信殿、随念院にございます。覚えておいででしょうか」
「無論にございます。忘れられようはずもございませぬ。幼少の頃、論語を与えてくださり、某のことを育ててくださいました。あの折に御教授いただけた論語の知識は駿府に在りし時も大いに役立ちましたゆえ」
「それはようございました。このようなおばばでも殿のお役に立てましたか……」
「はい。岡崎の政務も、これに控える石川安芸守と鳥居伊賀守の両名とともに担ってくださっておるとのこと、まこと感謝の念に堪えませぬ」
書状では伝えきれない想いを直接、口にして伝えられる。対面できたからこそ紡ぐことのできる想いを言葉に載せる。そんな元信の言葉は随念院へ十二分に伝わっていた。
「そうじゃ、元信殿。妹らと初対面であったろう」
「はい。妹二人が生まれた折には尾張で人質の身でありましたゆえ」
先代当主・松平広忠と側室・平原勘之丞正次の娘の間に生まれた異母妹たち。二人は初めて見る兄という存在に戸惑っているのか、田原御前と随念院の後ろに隠れたまま出てこようとしない。
「大叔母上の後ろにおるは……」
「矢田姫にございます。今年で十になりまする」
「さすれば、継母上の後ろにおるのが市場姫か。うむ、二人とも初めて会うゆえ、怖いやもしれぬが、わしがそなたら二人の兄、松平次郎三郎元信じゃ。仲良うしてくれよ」
元信が対話を試みるも、妹たちは警戒の眼差しを向けたまま無言を貫いている。駿府へ赴く前に一度でも会っていれば少しは変わったのだろうか。そのようなことを考えてしまう元信。
結局、妹たちとは一言も話をすることのできないまま、時間だけが過ぎていく。はたして、松平次郎三郎元信は兄として、矢田姫と市場姫、二人の妹らと対話することは叶うのか。
さぁ、どうする元信?