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不屈の葵  作者: ヌマサン
第3章 流転輪廻の章
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第42話 政治活動のデビューは未だならず

 雨降りしきる涼暮月すずくれづき。肌にまとわりつくような湿気と格闘しながら、岡崎城では随念院が石川安芸守忠成らとともに政務を担っていた。


 元信が駿府に滞在するようになった頃より確立した、元信の大伯母・随念院を擁した阿部大蔵定吉、石川安芸守忠成、鳥居伊賀守忠吉らによる岡崎領国でのまつりごと


 元信不在の岡崎において、政務を担う随念院の存在はまさしく松平宗家の大黒柱ともいえるものであった。


 そんな随念院のもとへ、石川安芸守よりある書状が届けられる。


「随念院さま、大泉寺住持の俊恵より寄進状が盗人に遭い紛失した旨の届け出がございました」


「以前に発給した寄進状が盗まれたと……?」


「はっ、そのようにございます」


 かつて甥の広忠より依頼され、元信の養育にもあたっていた彼女は年老いてなお冴えた頭でもって、どう大泉寺よりの求めに応じるべきかを思案していた。


 本来、今回のような寄進状についての案件は当主・松平元信が対処するべき案件。だが、元信は元服こそしたものの、政治活動を未だに行えていない。これを機に、政治活動を始めるという手もあるが、それを駿府へ打診していては時がかかりすぎる――


「随念院さま、何ぞ妙案などはありますでしょうや」


「あります。妙案というほどではありませぬが、ここはわらわが作成するほかございませぬ」


「随念院さまが作成するとは、一体――」


 大泉寺住持の俊恵よりの求めに応じて、随念院は寄進状を発給することとした。それも、当主・元信名義で作成するというものである。ただし、元信の花押を据えることは難しいため、随念院の黒印を押捺することとしたのである。


「石川安芸。大泉寺への寄進状についてはいかが相成った」


「これは鳥居伊賀殿。うむ、たった今随念院さまが殿の名義にて寄進状を作成しておられるところよ」


「なるほどのう。確かに、駿府の殿は未だに政務に携われておらぬゆえ、やむを得ぬ措置といったところかの」


「いかにも。殿の名義にて文書を作成し、随念院さまの黒印を押捺することといたした」


 松平家重臣、石川安芸守忠成・鳥居伊賀守忠吉の両名に見守られながら、すらすらと随念院は寄進状を作成していく。


 改めて寄進する地については、『東は沢渡で区切り、南は街道、道谷相末まで、西は小縄手田端、北も田端で区切った寺地を、末代に至るまで寄進する』とし、今度は盗人に奪われる出ないぞとの想いを込めて作成。


 そして、盗人に奪われたと申請にあったことから、『以後どのような時も、以前の寄進状を証拠に出すような者がいたならば、その者は盗人とする』と書き添えた見事な文書である。


 さらには、後々まで保証する事柄についても明記されていた。


 一、殺生禁断を禁ずる。


 一、寺内ならび門前の竹木を伐り取らない。


 一、祠堂米銭への債務破棄は免除する。


 一、棟別・門別・追立夫を免除する。


 一、諸役を徴収しない。


 この五つの条々に背いた者は厳しく成敗するとして、大泉寺の寺内地での殺生禁断や竹木伐採の行為を禁じ、債権の保証、棟別などの諸勢や労働負担の免除という、特権を認めてあった。


「さすがは随念院さま。これならば、大泉寺側も納得いたしましょう」


「日付は本日六月二十四日付としてあります。本日中に大泉寺へ届けることといたしましょう」


「ははっ、左様に手配いたしまする!」


 そう言って、書状を預かった石川安芸守は退出。書院には随念院と鳥居伊賀守が残されるのみとなった。


「随念院さま、お耳に入れておきたい儀が」


「大泉寺のことで、何か不都合がございましたか」


「いえ、当家に不都合があったわけではございませぬ。実は、大泉寺は三日前の二十一日付で駿府の御屋形より盗難にあい喪失した寄進状の再認可と権益保証を得ております」


 つまり、大泉寺は松平次郎三郎元信よりも上位権力者にあたる今川治部太輔義元からも寄進状の再認可と権益保証を得たうえで、寺内地や権益に直接関係する岡崎を統治する松平氏からも改めて証状を獲得したという流れであったのだ。


「そのような事情があったとは存じ上げませんでした。されど、当家にも寄進状を得ようとしたは、岡崎の統治者は松平であることを寺側も認めておるということでしょう」


「そうではありまするが、やはり感情として合点がゆきませなんだ」


「なるほど。ですが、元信殿は岡崎に不在であっても、松平家の当主として認識されていたことは僥倖。わらわはそれが何よりも嬉しい」


 元信は本領・岡崎に不在であっても、当主として大泉寺にも認められている。それが嬉しく、随念院の瞳は潤んでいた。その姿に、鳥居伊賀守はそれ以上何も言わなかった。いや、言えようはずもなかった。


 そうして、感極まった随念院の心が落ち着いた頃。今度は随念院の方より新たな話題が切り出される。


「鳥居伊賀殿、近ごろ阿部大蔵殿の姿をめっきり見なくなりましたが……」


「それが、近ごろは体調が優れぬとのことで、登城を控えさせておりまする」


「体調が優れぬと……。容態は重いのかえ?」


「はい。近ごろは起き上がるのもやっとであると聞いておりまする」


 随念院の弟・清康、甥・広忠、大甥・元信と松平宗家三代に仕えてきた阿部大蔵定吉。元信が駿府に在するようになってからも、鳥居伊賀守忠吉や石川安芸守忠成らと領国経営の実務を担ってきた重臣。


 そんな彼が重篤な病で、今や起き上がることもやっとのことである。そう聞かされて、また一人忠臣が去ろうとしていることへの寂しさを感じていた。


「鳥居伊賀殿、阿部大蔵殿にはくれぐれもご自愛くだされと、わらわが申していたとお伝えを」


「ははっ、仰せのことしかと申し伝えまする!」


 そこまで言って一礼して退出していく鳥居伊賀守。再び静寂に包まれる書院にて、今後の松平家の行く末を想う随念院なのであった――


 その頃、元信は元服してなお、領国経営に携われないことに悶々とした日々を過ごしていた。


 その日は氏真の屋敷へ尋ねる所用があり、広間にて氏真の到着を待っていた。その待ち時間にふと、自身の境遇について考え始めてしまったのである。


「次郎三郎、何を考えておる」


「こ、これは五郎さま!」


 ぼうっと庭先を眺めていた元信。そんな彼の顔を覗き込んできた人物がいた。それは、今川家次期当主・五郎氏真であった。


「物思いに耽るのは悪いことではない。何か気にかかることがあるならば、申してみよ。これでもそなたよりも数年長く生きてきておるゆえな」


 十五歳になり、ようやく自分もいよいよ松平領国の政務を担える。そう思っていただけに、政治活動を未だに始められていない現状にもどかしさを感じている。


 そのことを四つ年上の五郎氏真へ飾り気のない言葉で打ち明けていく。庭にやってきた小鳥に笑顔で餌を与えながら話を聞いていた五郎は、元信の悩みに答え始める。


「何も悩むことではなかろう。この五郎とて、次郎三郎より先に元服したが家政かせいに携わってはおらぬ。じゃが、今がずっと続くわけではない。必ずや、予も次郎三郎も政に嫌でも向き合わねばならぬ時が来る」


「されど……」


「されどではないぞ、次郎三郎。よいか、政を担う前からそのように悩んでおっては、いざ政を担わねばならなくなった折に担いきれなくなるであろう」


「担わねばならない時に担えなくなる……」


 今の元信にとって、氏真の言葉はぐっと胸の奥深くに到達するものがあった。その言葉は今の自分を肯定しながら、優しくそっと背中を押してくれるようでもあった。


「五郎さま、某の物思いの種を取り除いていただき、感謝いたしまする……!」


「よいよい、家臣の悩みは我が悩みも同然。何より、次郎三郎は予にとって弟のようなもの。兄が弟の悩みを聞いたくらいでそうまで畏まらずともよい」


 なんとも涙の出てきそうな言葉の数々。元信が懸命に瞼から溢れんとする雫を押しとどめるところへ、氏真の元へ誰ぞの来訪を告げに来るものがあった。


「五郎様!無人斎道有様、武田六郎様がお越しにございます」


「おじい様と叔父御が来たと申すか。うむ、これへ通せ」


「ははっ!」


 取り次いできた侍臣がその場を去ってすぐに、見覚えのある坊主頭の老人と元信とそう年の変わらぬ少年が広間へ到着。元信は氏真に供する形で広間へ入った。


「おお、可愛い五郎よ!壮健そうで何よりじゃ」


「これはおじい様。おじい様も達者なようで祝着の極みに存じ奉ります」


「ははは、堅苦しいのう。そうじゃ、倅の六郎も連れて参った。久しく会うておらなんだろうと思ってな」


 無人斎道有に背中を二度ほど強く叩かれた六郎と呼ばれる少年は微笑を浮かべながら氏真へと一礼する。


「無人斎道有が子、武田六郎にございます。五郎さまにおかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます」


「ははは、おじい様。六郎叔父の方が堅苦しいではないか」


「むむむ……」


 孫からの指摘に、眉間にしわを寄せて唸る祖父。そんな二人を交互に見やりながら、次に紡がんとする言葉を探っている様子の武田六郎。傍から見ている元信にとって、何よりも家族らしいやり取りを羨ましく思えた。


「五郎さま、こちらにおられる方は……」


「そうか、次郎三郎と六郎は初対面であったか」


「武田六郎殿、お初に御意を得ます。某は三河松平宗家当主、松平次郎三郎元信と申しまする」


「これはご丁寧なあいさつ、痛み入ります」


 元信の挨拶の終わりに重なるか重ならないかの絶妙なタイミングで一礼する武田六郎。まだ前髪の少年で、都育ちの端正な顔立ちの美少年。なんとも侍女らに人気が出そうな人だというのが元信の武田六郎の第一印象であった。


「ささっ、父上も」


「する必要はなかろう。儂は次郎三郎が竹千代と呼ばれておった頃に一度話をしたことがある」


「そ、そうなので……?」


「はい。身延山参詣の後に御鉢廻りをしたことを聞かせてくださいました。その折のこと、今でもよう覚えておりまする」


 人間、自分が昔にした話をしっかり覚えてくれていたことに喜びを感じるものである。それは無人斎道有とて例外ではなかった。


「ほう、次郎三郎よ。六年も前に儂がした話をよう覚えておったな」


「はい。大変興味深い話にございましたから、今でもその折のことを鮮明に思い出せまする」


 次郎三郎が口を開くほど、無人斎道有の表情は明るさを増していく。そうした中で、室内の空気も心なしか明るくなっていくようでもあった。


「次郎三郎、そこな六郎は儂が甲斐を追放された後に生まれた子。ゆえに、そなたと同じく十五歳じゃ」


「某と同じ十五でございましたか」


 年が近いとは思っていたが、よもや同じ齢であったとは。そう元信は思っていた。


 そして、六年前の正月に話しかけられたのは我が子と同じ年であったこととも関係があるのやもしれぬ、とも感じていたのだ。その真偽はともかく、あの正月に話したことが契機となり今に至るのだから、人生とは不思議なものである。


「うむ、今日は久方ぶりに孫の五郎、あの折の竹千代とも会えて満足したぞ。儂はこの後、婿殿の元へ向かわねばならぬゆえ、今日はこのあたりで失礼するとしようかの」


「では、六郎めも父とともにこの辺りで失礼いたしまする」


 無人斎道有、武田六郎の両名は氏真に一礼し、次郎三郎とは目礼を交わして退出していった。氏真は落ち着いた雰囲気で礼を返し、次郎三郎は深々と頭を下げたまましばらく動こうとしなかった。


「次郎三郎、いつまで頭を下げておる。おじい様も六郎叔父もすでに退出したぞ」


「はっ、左様にございますな」


「まったく次郎三郎はしっかりしておるのか、抜けておるのか、相変わらずよく分からぬ奴じゃ」


 そう言って肩を揺らして笑う氏真。その姿につられるように次郎三郎からも笑みがこぼれる。


 それからの二人は何気ない話をして穏やかなひと時を過ごした。甲斐に嫁いだ妹・松姫から書状が届いたこと、最近は文武に励んでいること――


 中でも、妹から文を貰ったことが大層嬉しいらしく、その日一番の笑顔で語っているのが元信の脳裏にも焼き付けられた。


「五郎さま、相模より嫁いで参られた春姫さまはつつがなく過ごしておりましょうや」


「うむ、壮健に過ごしておる。近ごろは和歌に熱心でな、二人でたまに読み合ったりしておる」


「仲睦まじい様子、安堵いたしました。なかなか話題になりませぬゆえ、夫婦仲が悪いのではと案じておったところに」


「ははは、無用の気遣いぞ。では、次郎三郎。そちの方はどうじゃ。瀬名とはうまくやっておるのか」


 よもや妻の話題で切り返してこようと思わず、慌てる次郎三郎。それを見て、氏真から大きな笑い声が漏れるのであった――

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