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不屈の葵  作者: ヌマサン
第3章 流転輪廻の章
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第38話 花妻

 今川家が太原崇孚の死に見舞われ、第二次川中島の戦いの和睦に踏み切った弘治元年閏十月も「秋の日は釣瓶落とし」というように、あっという間に過ぎ去っていく。


 そうして迎えた十一月。今川家と相対する織田上総介信長を取り巻く情勢に悪しき変化が起こりつつあった。


 十二日には斎藤新九郎義龍が叔父・長井道利と共謀し、父・斎藤道三が寵愛していた孫四郎や喜平次ら弟達をおびき出して日根野弘就に殺害。さらには大桑城に逃走した斎藤道三に対して挙兵したのである。


 そんな美濃での変事は、二十六日には清洲城にいる信長の耳に入っていた。


「あなた様、兄が孫四郎と喜平次らを殺害に及んだとのこと」


「で、あるか。舅御に対して挙兵したとも聞いておる。いよいよ美濃では父子の対立が激化しておるようだな」


「はい。隠居前の国内統制に苦慮していた父に味方する者などそうはおりませぬ。ゆえに、兄の勝利は揺るがないでしょう」


「父は兄に敗れる。お濃はそう見たか」


 夫・信長からの言葉に静かに首を縦に振る濃姫。淡々と言ってのけたようであったが、その瞳から頬を一つの雫が伝っていく。


「美濃の動揺は尾張の動揺に等しい。到底、このおれも座視してはおれぬ」


「されど、美濃への出兵はお控えなされますよう。私情のみでは兵はついて参りませぬ」


「ふっ、その程度のこと、この織田上総介信長が理解できぬうつけだと思っておるのか」


「いいえ。あなた様は美濃の父を取り巻く情勢をよく存じておられます。されど、理性と感情が必ずしも一になるとは参りませぬ」


 理性と感情が必ずしも一になるとは限らない。まさしく、今の信長の動きをピタリと言い当てている言葉である。そう、濃姫は見抜いているからこそ、夫の行動を制止しようと、そのような言葉を口から発したのであった。


 そこへ、さらなる変事が信長と濃姫の元へ届けられる。それは、かつての信長の居城・那古野城における訃報を告げるものであった。


「なにっ、孫三郎の叔父御が亡くなった……!?」


 先代・織田備後守信秀より武の面でお家を支え続けた織田孫三郎信光。その忠誠は当主が兄から甥へ世代交代しようとも変わることはなかった。


 しかし、その叔父が突然亡くなったというのである。一体何が起こったのかと、信長夫妻は目を丸くした。


「たしか、孫三郎さまは今年で四十。先日お会いした折も壮健そうであらせられましたが……」


「うむ、おれと会うた時もそうであった。先般の清洲城奪取においても無二の武功を挙げられた叔父御が亡くなったなど信じられぬ……」


 美濃では自分を高く買ってくれている舅が義兄に追い詰められ、那古野では当主になってより頼りにしてきた叔父が不審死を遂げた。


 信長にとって頼りになる人物がまた一人この世を去った。彼としても、平手中務丞政秀の死だけでも痛手であるというのに、さらには孫三郎信光の死。神の御業であるとするならば、信長に試練を課しているかのようであった。


「あなた様。よもや、何者かによる暗殺なのではありませぬか」


「暗殺……か。美濃の手による者である、とでも申したいわけか」


「そうとは限りませぬ。敵は尾張国内にも多うございましょう」


「勘十郎めが暗殺を企てた――否、あやつはそのような手は好まぬ。とすれば、取り巻きの老いぼれどもか」


 次第に憎悪を帯びてゆく信長の眼。彼らしくもない狭まった視野での捉え方に、誰よりも危機感を感じていたのは間近にいる濃姫であった。


「落ち着かれませ。平時の殿らしくありませぬ!」


 次にかけたのは叱咤。行き場のない怒りと悲しみの矛先をどこへ向ければ分からず戸惑う夫へかけたのは同情や説得ではなく、叱咤であった。しかし、濃姫は知っている。夫への良薬は同情などではなく、叱咤であるということを。


 織田信長という男が持つ激情はそれを遥かに上回る激情をぶつければ収まる。事実、今も彼の激しい感情は鎮火する様相を呈していた。


「お濃よ、助かった。礼を言うぞ」


「それは尾張と美濃、二ヶ国を統べた暁に改めて頂戴するといたしましょう。美濃が荒れている今こそ、足元を固める好機なのです。機を逸してはなりませぬ」


「まさしく。おれは今、尾張一統に向けて動き出さねばならぬのだ」


 行き場のない怒りの炎が鎮火された信長の瞳は未来を見据えていた。舅の危機は救わねばならないが、不穏分子を排除しなければ腰を据えて美濃を顧みる余裕などない。


 この時点で、信長の心の内での優先順位はいかなることがあろうとも尾張を統一すること。これが最上位に君臨した。濃姫もそのことに安堵したのか、微笑をふくみながら瞼を細め、凛々しい夫の横顔を眺めている。


「そうです、駿府であなた様も存じ上げている方が元服なさったそうでございますよ」


「おれが存じており、駿府におる者?何者であるか」


「ほれ、おられたではありませぬか。熱田でお会いになった竹千代と申す人質のことにございます」


 ――竹千代。その懐かしい響きは、初めて対面した八年前の頃を想起させる。


「おお、松平竹千代か。あの折、六歳の童であった者が元服を迎える齢になっておるとは時が過ぎるのは早いものよ」


「あなた様も二十二、わたくしも二十一でございます。まこと、時というものは人が思うている以上に過ぎるのが早いものなのでしょう」


「で、あるか。元服を迎えたというなら、次は婚礼となろうが、誰ぞ今川家臣の娘でも娶らされるのであろう。おれならば妹をくれてやるというのにな」


 そう言って肩を揺らして笑う織田信長。だが、竹千代が今川の人質になる直前に夫が申したことを今は亡き平手中務より聞いたことがある濃姫は違った反応を示した。


「そうおっしゃいますが、人質交換に応じられたのは他でもないあなた様ではございませぬか」


「そ、そうであったか」


「ご自分に都合が悪いことを忘れてしまわれる悪癖、お改めくださいますようお願い申し上げます」


「なにゆえ、そう畏まっておる」


「本心よりお改めいただきたいとの誠意を表しておるのでございます」


 そこまで言い切った濃姫が笑い出すのと、信長が笑い出すのとが同時であった。しばらく二人の笑い声が広間に満ちていく。尾張と美濃をつなぐ夫婦は仲睦まじく日々を過ごしていくのであった――


 そうして今川家にも、信長の周囲にも情勢に変化が見られた弘治元年も暮れてゆく。慌ただしく年末を迎え、ついに日ノ本は年始を迎えた。


 この年の正月は、十五歳となった松平次郎三郎元信にとって大きな転換点となる出来事が一つ。年明けを祝うめでたい空気の中、さらにめでたい儀礼があったのだ。そう、元信の結婚であった。


 お相手は関口刑部少輔氏純の娘・瀬名姫。元信よりも三つ年上の十八歳となっていた。互いに書を好む者同士、気が合うだろうとの見立てから成立した婚姻であった。


 そんな瀬名姫との婚姻を控えた数日前。元信は関口刑部少輔の屋敷へ召喚されていた。


「関口刑部少輔殿、明けましておめでとうございまする」


「おおっ、次郎三郎殿!新年早々、貴殿の顔を見れて嬉しき限りじゃ。ささっ、中へ入られよ」


 上機嫌で元信を迎えた関口刑部少輔に連れられ、奥の部屋へ通されると、そこには先客が一人。


「これは北条助五郎殿ではございませぬか。あけましておめでとうございまする」


「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。松平次郎三郎殿、あけましておめでとうございます」


 そう。先客は相模の北条家より人質として駿府に送られ、祖母である寿桂尼の元で養育されている北条助五郎であった。


 されど、なにゆえに今川治部太輔義元が甥でもある助五郎が関口刑部少輔の屋敷にいるのか。元信はそれを理解するのに今しばらく時を要しそうであった。


「次郎三郎殿。何故、この場に助五郎殿がおるのか、思案なされておるようですな」


「御推察の通りにございます。助五郎殿は太守様の甥にあたる御仁。五郎さまの従弟でも有らせられますゆえ」


「うむ、これには当家の事情が密接に関わってくるのじゃ」


「関口刑部少輔家のご事情……にございますか?」


 助五郎への説明もかねて、元信の疑問を解きほぐすことを決めた関口刑部少輔はゆっくりと、その事情とやらを話し始める。


 まず、関口刑部少輔家は遠江今川家の系統に属する今川家御一家衆の家格にあること。


 さらには、室町時代には奉公衆の立場にあり、足利将軍の側近くに近侍し、出行しゅっこうの際には供奉ぐぶする走衆としても活動していた家柄ということも補足説明されていく。


「つまり、今川家の重臣でもあり、室町幕府の奉公衆というお家柄ということにございましたか」


「うむ。次郎三郎殿は物分かりが早くて助かります。して、続きにございますが……」


 関口家の家格の次に語られたのは関口刑部少輔氏純自身のことであった。彼自身、関口刑部少輔家に女子しかいなかったことから、今川御一家衆の瀬名家から娘婿・養嗣子として入った経緯があることなどを語っていく。


「次郎三郎殿も助五郎殿も心してお聞きくだされ。今も関口刑部少輔家には女子しかおらぬということを」


 その言葉に、元信も助五郎も驚きに目を見開く。そう、関口刑部少輔氏純夫妻には瀬名姫ともう一人女子がいるのみで、嫡男たる男子がいないということ。


 せっかく婿養子入りを果たし、家名を守った関口家だったが、またもや嫡男不在という危機に直面しているのである。


「よもや、この次郎三郎は瀬名姫との縁組により刑部少輔殿の婿養子とする。そうおっしゃりたいのでございますか!?」


「その答えは不正解じゃ。次郎三郎殿はすでに松平宗家の当主という立場じゃ。婿には迎えられても養子とまでは参らぬ」


 その関口刑部少輔が言葉にホッと安堵の息を漏らしながら、元信はさらなる状況把握を進めていく。


「では、関口刑部少輔殿の婿養子となられるは北条助五郎殿にござりませぬか?そうであるならば、この場にて今の話をなされた道理も頷けまするゆえ」


「そうじゃ。北条助五郎殿に、この刑部少輔が次女を娶わせ、婿養子とする。さすれば、関口刑部少輔家の後継者問題も解決するであろう。かように太守様は仰せになられた」


 今川家御一家衆の家格にあたる関口家。そこへ、北条左京大夫氏康が四男であり、今川治部太輔義元の甥にあたる北条助五郎を婿養子として迎える。血筋としては申し分なく、むしろ関口刑部少輔家の家格も上昇するというもの。


「それは光栄の極み。太守様からの仰せとあらば受けましょう」


「助五郎殿、かたじけない。されど、助五郎殿はまだ十二歳。まだ数年は先のこととなりましょう」


「なるほど、承知いたしました。婚姻よりも先に元服も控えておりますゆえ、今よりその日を楽しみに待つといたしましょう」


「助五郎殿、尼御台様にもよろしゅうお伝えくだされ」


 婚約成立ということで、北条助五郎と関口刑部少輔は向き合って一礼する。数年後には義理の父子という間柄になるのである。


「次郎三郎殿。つまり、某が関口刑部少輔殿の姫君を娶った暁には相婿の間柄、すなわち義兄弟となるわけですな」


「そうなりしょう。よもや、助五郎殿と義兄弟となる日が来ようとは想像だにしませんでした」


 義理とはいえ、兄弟になる。そのことを満面の笑みで語る助五郎。そんな無邪気な彼の笑顔につられ、元信も不意に笑みがこぼれていた。


 かくして、北条助五郎は関口刑部少輔氏純の次女を娶って婿養子に、元信は長女の瀬名姫を娶ることとなったのである。


「では、次郎三郎殿。婚礼の儀、当日はよろしくお願いいたしますぞ」


「はっ!当日より元信は関口刑部少輔殿の婿、今後とも変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます」


 礼儀正しく両の手を床につき、深々と一礼する元信の姿に、関口刑部少輔は良い婿を迎えられたと喜びに表情を緩ませていた。


 この松平次郎三郎元信と瀬名姫の婚姻。これは元信にとって、大きな意味を持つ。今川家御一家衆の姫を正室に迎えたことで、今川家一門に準じた『親類衆』という立場となる。


 今までは今川氏に従属する三河国衆の当主という立場にすぎなかった。それが、今川家一門に準じる親類衆という立場になる。松平宗家の立場は上昇し、他でもない当主・元信の発言力も高まるというものであった。


 さらには、その立場を活かして駿府で人脈を築いていくことも可能となる。もはや松平家の安泰は揺るぎない。そう、元信は信じ込んでいた。

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