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不屈の葵  作者: ヌマサン
第2章 水沫泡焔の章
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第34話 五郎と竹千代と助五郎と

 水野家、斎藤家と織田信長の周囲では転換点となる出来事が新年から立て続けに起こった天文二十三年。


 この年の七月は竹千代のいる駿府、今川家にとっても喜ばしい出来事があった。それは昨年、父より長文の教訓状を与えられた今川五郎氏真と北条氏康の四女・春姫の婚姻が行われたのである。


 花嫁・春姫の受け渡しは、今川家と北条家の境目にあたる三島で行われた。この日はことのほか天気が良かったという。


 これにより、俗に言う甲斐の武田晴信、相模の北条氏康、駿河の今川義元の三者による甲相駿三国同盟が締結されたのだ。


 この春姫の生母は今川義元の姉妹であることから、この二人は従兄弟同士でもあったのだ。この年、今川五郎氏真は十七歳、春姫は八歳であった。


 まだ春姫は子供を産める年齢ではないことから、二人の縁談が成立した時から北条家から今川家へ人質に出されていたとある少年――北条氏康の四男・助五郎は引き続き駿府に留められ、今川義元の母・寿桂尼によって養育されることとなっていた。


 春から夏へと季節は移り、暑さが日に日に増してくる七月の某日。


 今川治部太輔義元は甲相駿三国同盟の立役者ともいえる太原崇孚、嫡男・氏真、氏真の元へ輿入れした春姫、母・寿桂尼、寿桂尼に養育されている北条助五郎といった面々を集めていた。


「皆の衆、よくぞ集まってくれた。此度、太原崇孚が奔走してくれた甲斐もあり、武田・北条との婚姻同盟が成せた。まこと、喜ばしい限りである。さすがは予の右腕じゃ」


「あ、ありがたき御言葉。老骨に鞭打った甲斐があったというもの」


「うむ、これからも予を、今川の家を支えてくれよ」


「無論にございます」


 未だ顔色が悪い太原崇孚。五十九歳と老齢であることを鑑みれば、気遣わずにはいられない。しかし、この老僧は義元に気遣われるほどに肩の力が抜けないのだ。


 だが、そこは長年ともに乱世の荒波を乗り越えてきた今川家当主である。長居させては体調にも影響しそうなことを考慮し、今後の忠節のためにも今は体調の回復に努めるよう懇ろに諭し、太原崇孚を退出させた。


「義元殿、此度の春姫の輿入れの際、北条家から供奉した家臣はきらめくような武具で婚姻行列を飾り、沿道は見物人で前代未聞というほどの賑わいを見せたそうですね」


「母上も耳にいたしましたか。今なお関東管領である上杉憲政を擁する越後守護代の長尾景虎と戦い続ける中、それだけの武威を示せるとは頼もしい同盟国ではありませんか」


「ええ、さすがは相模の獅子といったところでしょうか。あの傑物を娘婿としておいたは正解でした」


「この今川治部太輔義元と北条左京大夫氏康殿は義兄弟。此度の縁組によって、五郎は北条左京大夫殿が娘婿となったのだ。これにて当家も盤石といえましょうぞ」


 義元の言葉を聞き、嬉しそうに首を何度も縦に振る寿桂尼。今川義元の母として、今川氏真の祖母として、自らの子と孫の代が盤石になりつつあることが何よりも喜ばしいのであろう。


 その場に居合わせる者らはそう解釈していたし、何より間違っていなかった。


 夫・今川氏親が病床に臥せった折から、長男・氏輝、四男・義元と三人の今川家当主を支える姿から尼御台と呼ばれ、政務にて優秀な手腕を発揮してきた女傑。それが寿桂尼という女性なのだ。


 そんな彼女を安心させることは今川家当主として安心感のあることであり、何より母を持つ子として孝の精神がそれを望んでいるのであった。


「父上、これにて当家は本格的に尾張侵攻を実施できるのでは!」


「うむ、五郎もよく分かっておるではないか。武田と北条の両者と同盟が成立したことにより、我らは東よりの憂いを払拭することができた。ゆえに、尾張と三河のある西へと兵力を集中させることができるようになったのじゃ」


「ならば、尾張攻めの総大将はぜひ、この五郎めに御命じくださいませ!必ずや織田上総介が首、挙げてご覧にいれまするゆえ!」


「たわけ!そなたは次の今川を担う者。何より戦経験もなく、文武に特段優れているわけではないお主に任せられようはずもない」


 嫁いできたばかりの花嫁の眼前で父親から総大将には役不足と言われた今川五郎氏真。すっかり意気消沈してしまっていた。


「お義父上さま、五郎さまをそう叱らないでくださいまし」


「おお、春姫。五郎を労わってくれておるのか。うむ、その純真な心に免じ、今日はここまでと致そう」


「お聞き届けくださり、ありがとう存じます」


「うむ。じゃがな、姫。こやつはいずれ今川を背負って立たねばならぬ者。さような時に今のままでは、東の京として栄えておる駿府も戦火に呑まれることになるのじゃ。それゆえに二度と怒らぬと約束はできぬ。それは分かってくれるな?」


 太原崇孚を退出させた時以上に、懇ろに姪っ子・春姫を諭す義元。その民を戦火に巻き込ませたくないという想いを宿した真っ直ぐな瞳に、春姫はそれ以上は何も言うことはなかった。


「義元殿。これなるは北条左京大夫殿が四男にして、妾の外孫。北条助五郎にございます」


 寿桂尼よりの紹介に、義元の視線が春姫から兄・北条助五郎へと移された。凛とした雰囲気を身に纏う少年。烏帽子が似合いそうな貴公子らしさが感じられる。


「北条助五郎にございます。何卒よしなに願い申し上げ候」


「か、堅苦しいのぅ。じゃが、礼儀作法は見事なものぞ。五郎にも見習わせたいものじゃ」


「あ、ありがとう存じまする。尼御台さまが御指導の賜物にございまする」


 とても十歳の少年とは思えない助五郎の態度に、義元は感心しきりであった。そして、しっかりした助五郎を見ているうちに、そんな童がもう一人いたことを想い出した。


「助五郎、そちは三河の松平竹千代を存じておるか」


「はい。五郎さまより幾度かお話を伺ったことがございます」


「左様か。あの者はお許の三ツ上の十三じゃ。五郎と助五郎の間に位置する年頃の者である」


 今川五郎氏真は十七歳、松平竹千代は十三歳、北条助五郎は十歳と、ちょうど氏真と助五郎の間に収まる。


「五郎さまからも面白い方であると聞いておりますゆえ、ぜひ一度お会いいたしとうございます」


「左様かの。時折登城してくるで、会うこともあろう。その折にはじっくり話してみるがよい」


「はい!そうさせていただきまする!」


 義元と助五郎が今川に従属する三河の一国衆の話で盛り上がっていると、コホンと一つ咳払いが差し挟まれる。その咳払いの主は寿桂尼であった。その話題に氏真までもが乗ろうとしていたことを受け、急きょ遮る動きを取ったものであった。


「義元殿、三河の国衆の小倅の話はそのあたりでおやめなされ。君臣のいらざる交わりは国を乱すもととお心得なされませ」


「分かっておりますぞ、母上。このあたりで竹千代が話はよすとしましょう。予は母上と話があるゆえな、五郎は春姫と助五郎を連れて少将之宮の町まで行ってくるがよい」


 駿府の地に不慣れな助五郎と春姫には何のことやら、皆目見当もつかない義元の言葉。しかし、これまでのやり取りと少将之宮の町と聞いて、氏真には閃くものがあった。


「助五郎、姫。父上はおばあ様と何やら話があるそうな。予とともに少将之宮の町へ向かおうぞ」


 そう言って、二人の手を引いてその場を退出してゆくのである。義元はチラリと三人を見やると、何事もなかったような顔つきで寿桂尼と政の話を繰り広げていくのであった。


「五郎さま、腰に乗っていずこへ向かわれるおつもりで……」


「よいか、これから助五郎が会いたがっておった者の元へ向かう。父上がお計らいくださったのだぞ」


 自分が会いたがっていた者。氏真からそれを聞いた助五郎はようやく誰の元へ向かおうとしているのか、状況を飲み込むことができた。だが、依然として春姫は困惑した様子のままである。


 こうして一行は駿府の館から少将之宮の町、中でも松平竹千代に与えられた屋敷へと辿り着いたのであった。


 突然の訪問に慌てたのは松平側。粗相があってはならぬと丁重に応対し、竹千代のいる書院へ通していく。何より、駿河今川氏の嫡男が妻と従兄弟を連れてやってきたと聞かされた竹千代の驚きようも並大抵でなかった。


 台所へ食事の手配を命じるべく酒井雅楽助と石川与七郎が走り、酒井左衛門尉は平岩七之助・善十郎の兄弟とともに門や廊下の清掃を取り急ぎ進めさせる。


 そうして、当の竹千代は朝から的場にて五十射、それから木刀を汗だくになるまで振っていたこともあり、汗を流そうと湯浴みをしていた。


 そこへ、大物三名の来訪を鳥居彦右衛門尉、天野三郎兵衛景能、阿部徳千代らから知らされ、衣服のきかえを済ませて書院へ遅れて出向いた。


「五郎さま。大変長らくお待たせいたしました」


「おお、竹千代。突然の訪問、さぞかし驚いたことであろう」


「はい――いいえ」


「ははは、先に漏れたが本心であろう。いやいや無理もない」


 ――『はい』などと答えてしまった。


 そう悔やむ竹千代をよそに、氏真は横に座る少年少女たちの紹介を始めていく。その紹介を聞き漏らしてはならぬと、竹千代は意識を切り替えて氏真の言葉に耳を傾ける。


「こちらは先日、我が妻となった春姫じゃ」


「春と申します。以後、お見知りおきを」


 礼儀正しく、床に左右の手をついて一礼する春姫。そんな彼女から竹千代も育ちの良さを感じ取れる。それだけでなく、駿豆の国境を賑わせた行列の中心人物はこの方であったかなどと思ったりもした。


「この見目麗しい公達は助五郎じゃ。我が舅、北条左京大夫が四男にして、予の従弟にあたる者。あと数年で相模に帰ってしまうことともなろうが、この助五郎たっての希望でそちに会いに来たのじゃ」


「これはわざわざ、相州小田原の大大名の御子息にまで某のことを存じておられたとは、まこと喜ばしい限り。此度は足を運んでいただき、まこと感謝申し上げる」


「ご丁寧なあいさつ、痛み入ります。実は竹千代殿のことはかねてより五郎さまから伺っておりました。それゆえに、一度お会いしたいと思い、此度の訪問へ至ったのでございます」


 挨拶を交わす中、竹千代としては目の前にいる北条助五郎という少年に、今川五郎氏真という男がどのような話をしたのか。そちらが気になって仕方なかったのであるが。


「竹千代、こうしてみると我ら三人は兄弟のようではないか」


「言われてみれば三兄弟のようです。されど、五郎さまは次期今川家当主、助五郎殿は北条左京大夫殿が四男。竹千代は不釣り合いにございましょう」


 氏真の口から出た言葉を即座に打ち消し、辞退する竹千代。他の二名は大名の子、自分は三河の国衆出身。釣り合わないと本心から思っての言葉であったが、なかなか氏真は受け入れようとはしない。


「なんの、気にすることはない。予が勝手に申したまでのこと。あくまで兄弟のようだと申しただけではないか。心の内でそう思っておればよい」


「いえ、それはなりませぬ。そのような思い上がりを心のうちに抱くようでは、いつか必ず専横な振る舞いをすることでしょう」


「ははは、竹千代に限ってそのようなことをするはずはない」


「そうまで竹千代のことを信頼してくださること、恐悦至極に存じます。なればこそ、兄弟のようだなどと口にしてはなりませぬ」


「む、竹千代がそこまで言うのであればこれ以上は何も言わぬ」


 その氏真の言葉に胸を撫でおろす竹千代であった。しかし、屋敷の庭にひっそり佇む樹木を見上げる氏真は兄弟を匂わせる様な発言をしてくる。


「今が桃の咲く季節であったならば、桃園の誓いであったものを」


「たしか『我ら三人、生まれし日、時は違えども』から始まる誓いにございましたか」


「おお、助五郎は知っておったか。どうじゃ、竹千代。そなたも存じておったか」


「無論にございます。遠く海の向こうの話ではございますが、これほどまでに信の置ける者らと義兄弟の盃をかわしてみたい。そう思ってしまうほどに、魅力あふれる逸話にございます」


 竹千代にそこまで言わせると、氏真は口角を上げて竹千代を見やる。


「竹千代、本心では義兄弟の契りとやらに憧れておるのであろう」


「憧れてはおりまするが、此度の件は別儀にございます」


 そこまで言ってようやく兄弟兄弟と言わなくなる氏真なのであった。だが、竹千代は二人を嫌って否と申しているのではない。それが伝わっただけでも喜ばしい。氏真はそれでよしとすることとしたのであった。

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