第30話 書状に込められたるは父母の愛
天文二十一年も暮れようかという頃。駿府へ来た時を彷彿とさせる雪をチラリと見やりながら、竹千代は源応尼の庵にてくつろいでいた。そこへ、すべての雑音をかき消す足音が近づいてくる。
「殿、田原御前さまよりの書状にございます」
「なに、継母上より書状とな。与七郎、見せよ」
竹千代から見せろと言われて拒む理由のない書状をうやうやしく捧げる石川与七郎数正。こうして時折届く岡崎からの書状は竹千代の駿府での日々において楽しみの一つであった。
「うむ、妹らは岡崎にて元気にしておるとのことじゃ」
「矢田姫さま、市場姫さま、共にご健勝とは喜ばしい限りにございまする」
矢田姫は竹千代の五ツ下、六歳の少女である。生母は平原勘之丞正次の娘のため、異母妹にあたる。もう一人の妹、市場姫も同じく平原勘之丞正次の娘との間に生まれた娘であった。
竹千代と父を同じくする貴重な妹たち。そんな彼女らが岡崎にて元気に過ごしている。その事実は、竹千代にとって何より喜ばしいこと。
しかし、書状を送ってきた当人は父・広忠との間に子宝に恵まれることはついになかった。されど、正室としての役割である子供たちの養育にあたってくれているとのこと。
「殿、田原の御前さまは――」
「うむ、妹らの養育に当たってくれておるとのこと。継母上は教養豊かな方ゆえ、二人とも立派な教養を身につけられるであろう」
自身が駿府へ発った頃には三歳だった矢田姫も、今や六歳となっている。そう考えるだけで、時の流れというものを感じる。なにせ、竹千代自身も十一歳となっているのであるから。
「おお、竹千代殿。その書状は?」
「岡崎におられる田原の継母上からにございます。妹らは息災にしておると、書状に記されておりました」
「そうでしたか。今日は母からよく書状が届く日にございますなぁ」
そういう源応尼の手に握られているのは竹千代にとってもう一人の母親からの書状。竹千代が三歳の折に生き別れた実の母からであると、竹千代はとっさに理解することができなかった。
それほどまでに産みの親と疎遠になってしまっていたのである。だが、源応尼からの言葉で生母・於大の方からの書状であることに気づくことはできた。
「そうか、母上からの書状であると」
「妾へ宛てた書状に、竹千代殿宛の書状を紛れ込ませておったのです」
「つまるところ、娘から母に宛てた書状と見せかけ、もう一通、母から子に宛てた書状を忍ばせておったと」
源応尼と水野妙茂の間に生まれた娘・於大の方。彼女こそ、竹千代の生母なのである。母の子を想う願いが通じてか、緒川水野家とともに織田方である久松佐渡守俊勝の正室という立場の人物からの書状が、こうして竹千代の元へ届いたのであった。
「これが母上からの……」
実の母からの書状。そう思うだけで、手に取った紙が重みを増したように感じられる。実母からどのような書状が届いたというのか。心の臓が鼓動を速めていく。
寒さで手が小さく震える中、達筆な字で記された文を読み進めていった。
そこには、我が子・竹千代の身を案じていること、かつての夫・松平広忠の訃報に心を痛めていること、久松佐渡守俊勝に嫁いだ自分も不自由なく暮らしていること、この年二人の男が生まれたことなどが記されていたのだ。
「やはり母というものは我が子を案じるものなのでしょうや」
「竹千代殿も、いつしか御子が生まれれば分かる日が来るやもしれませぬ」
「おばば様、竹千代は十一にございます。そのような話は遠く先の事かと」
「いえいえ、竹千代殿は数年のうちに元服することとなりましょう。婚儀もそう間を明けずに行われることになりましょうゆえ、あと十年もすればお子の一人や二人はこしらえておるのではないかと」
あと十年もすれば。源応尼の言葉はそう遠くないという意味で発されたものであるが、竹千代にとっては今まで生きてきた人生の倍はある。長い長い時間のように感じてしまっていた。
「岡崎の老臣より聞く限り、父母は仲睦まじかったそうな」
「ええ、仰せの通りにございます。されど、この戦の世は仲睦まじい夫婦を引き裂いてしまったのです。於大も広忠殿と二度と会うことができなかったことを悔やんでおりましょう」
「ふむ、我が子と夫への愛情。それはこの書状より窺い知ることができまする」
いつくしみ深き愛。母の、いや、女子の愛する者へかける想いはいつの世も変わらず深いものであるのかもしれない。
「確か、久松佐渡守は先妻との間に久松弥九郎なる子がおりましたな」
「ええ、於大よりそう聞いております。その弥九郎がいかがなされましたか」
「いえ、竹千代と齢が近かったことを思い出しまして。それ以上、何か意味があるわけではございませぬ」
生母・於大の方も久松佐渡守へ嫁いだ際、久松弥九郎と対面したという。竹千代はふと、継母・田原御前にとって自身と同じ関係。久松家の居城・尾張国阿古居城で暮らす母も扱いに困ったのではないかなど、頭に浮かんできたのである。
「さてしも、この竹千代にも弟が生まれておったとは。兄の方は三郎太郎、弟の方は源三郎というそうな」
「この尼にとっても孫、死ぬまでに会うてみたいものじゃ」
「おばば様、気の弱いことを申してはなりませぬ。おばば様には長生きしていただかねばなりませぬゆえ」
「竹千代殿、妾は六十一じゃ。無理を言うてはなりませぬぞ」
竹千代とは生きてきた長さが半世紀も違う。そう考えれば、かなりの年の差である。されど、源応尼は年の事もあって体調を崩すこともあったが、竹千代が思い描く六十一歳よりも元気に日々を送っている。
何より、自分の養育にあたってくれている老いた祖母が一年でも、一日でも長生きしてくれることを願うのは、孫として当然の心の動きといえよう。
こうして天文二十一年も刻々と過ぎてゆく。
年の瀬に竹千代は今後の松平家のこと、母の実家や再嫁先の久松家。駿府にて大変世話になっている今川家のこと。織田弾正忠家を継承し、尾張一統を目指す知己・織田上総介信長のこと――
様々なことに想いを巡らせているうちに、年が明けた天文二十二年。正月には武田晴信の長女・梅姫と北条氏康の嫡男・氏政の婚約が成立。着々と甲相駿三国同盟の下準備が進められていた。
そんな武田晴信にとって相婿であり、梅姫の生母・三条夫人の姉婿である細川晴元の反撃により京周辺の政情が不安定になると、反三好派の幕臣が長慶排除のために策動するようになっていった。
畿内は相も変わらず幕臣同士で親三好派と反三好派の対立が続き、政情不安が継続していたが、天文二十二年閏一月十五日には将軍・足利義藤と三好長慶が和解。ようやく戦乱が続く京も落ち着くかに見えた。
そんな足利義藤と三好長慶が和解する二日前。尾張では一つ、とんでもない事件が起こってしまっていたのである。
それは織田信秀死後も後継者たる織田信長を傅役として支え続けた平手政秀が自害してしまったのである。享年六十二。
「爺……」
平手中務が自害して果てた寝所を訪れた織田上総介信長。彼が手にする書状の上書きの二字にはこう記されていた。「諫状」と。
家人どもが寝静まった夜、一人硯を引き寄せて墨をすり、この遺書を認めている。そんな傅役の姿が目を閉じれば自然と浮かんでくる。
「何が、『たびたびの諫言おん用いなきこと政秀が身の不肖、よって腹かき切って自害いたし候ものなり』じゃ。爺の不肖であろうはずもなかろうに」
ぬくもりを宿した雫が信長の頬を伝って落ちていく。幼少の頃より自らの傍にあった育ての親ともいうべき老人が自害してしまった。信長にとって涙を流さずにはいられない、辛い別れであった。
父・織田信秀の覇業を支えた功臣の末路が、後継者の奇行を諫めるための自刃。このような薄暗い部屋で刀の切っ先を自らの腹に突き立てて果てたというのだから、やりきれない気持ちで一杯であった。
末期の水になり損ねた涙を拭った信長であったが、その後も奇行が改まることはなく、衆人は傅役の諫死すらも意に介さないとは真のうつけ、大うつけであるように映った。
されど、まことに彼の死を悼んでいなかったのであろうか。いや、そのようなことはなかった。嘆き悲しんだ信長は沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立し、政秀の霊を弔っている。
そうして、尾張では織田信長が宿老・平手政秀の死に心を痛める閏一月も過ぎていく。
一方で駿府に在って人質生活を送る竹千代は二月七日、龍王丸改め今川五郎氏真の屋敷を訪問していた。
犬や鳥の声で満ちた空間を奥へと進んでいくと、難しい顔をして父から与えられた長文の教訓状とにらみ合う今川五郎の姿があった。
「おお、竹千代。よくぞ参った」
「氏真さま、ご機嫌麗しゅうございますか」
「ははは、そう畏まらずともよい。それよりも見よ、父上より賜った教訓状を」
「教訓状……にございまするか?」
氏真より手渡された長文の教訓状。今川五郎いわく、父・今川治部太輔義元から与えられたとのことだが、竹千代は何よりその文章の量に圧倒されてしまっていた。
――何とも考えがない。行く末に何になるつもりなのか。
そんな痛烈な内容から始まる教訓状。父親から考えがない、将来何になるつもりだと言われるところから始まる手紙など、よく読めたものだと竹千代は感心しながら教訓状を読み進めていく。
――大方人は五、六歳から出家になるつもりか俗人になるつもりか推量するものである。十五、六歳になるまでいろいろなことに分別が付くかと見守っていたけれども、ますます考えのない遊びなどしているのが目に入るので、筆に任せて書き立てて遣わす。念入りに読みなさい。
実際に駿府館で今川治部太輔義元という人と対面したことのある竹千代。そんな竹千代にとって、この教訓状を義元から口頭で伝えられる様子も容易に想像できてしまう。
それはさておき、竹千代が気になってやまないのは『ますます考えのない遊びなどしているのが目に入る』という点であった。一体、考えのない遊びとはどのようなものなのか……?
――鶏を集め、子犬を引き回す事は、一五、六では無益である。それも犬・鶏好きであれば、いい犬・鶏二、三を嗜むのであれば慰みにもなるので、我慢できる。捨てられた子犬まで集めて、屋敷内での犬・鶏の声は耳も潰れるほどである。
現に今も犬や鶏の鳴き声で屋敷は満ちており、義元が耳も潰れるほどだと言いたくなるのも無理はないと竹千代は思った。
「氏真さま、捨てられた子犬を集めたとは真のことにございまするか」
「真じゃ。ほれ、あそこにおる子犬がそうじゃ」
そう言って、座敷から飛び出し、中庭を駆けまわる子犬を指さす氏真。なんでも出かけている最中に衰弱しているのを見かねて屋敷へ連れ帰ってきたのだそうな。
捨てられていた子犬にまで憐憫の情を抱くとはなんとも優しい心の持ち主である。されど、次期今川家当主としては褒められた行いではない。そのことを義元も言っているのである。
教訓状には犬や鶏のことが記されているだけではない。武士にとって欠かすことのできない武芸の鍛錬についても厳しく記されているのであった。
――去年であったろうか、条目でせめて夏中に稽古しなさいと言ったけれども、他にすべき事が多かったので、まだ続けていないということなので大方省略した。義元の気持ちは、多くの年月をかければ二、三は続けられる事もあると思い、合間を置かずに書き立てた。まだ続けていないというので、それはそうだろうと思ったので、五日も続かないのは誰かの意見で止めたのか。数日のうちで物の稽古が終わることはない。できていることが見当たらない。弓馬は男子の技芸である。器用も不器用も関係ない。稽古しなければならない事である。
「う、氏真さま。稽古についても手厳しい言葉が綴られておりまするな」
「ははは、そうであろうそうであろう。じゃがな、竹千代。人というものには向き不向きがある。予は弓馬の稽古など微塵もやる意義が感じられぬ。戦場に出るなど、家臣のすること。今川家の嫡男がすべきことではなかろうが」
確かに総大将自らが先頭きって敵陣へ突入するなど、よほどのことがない限りはあり得ない。しかし、逆となれば話は別。敵兵が本陣まで乱入してきたならば、同じことが言えるのだろうか。
そこを考えていないのではないかと感じてしまう竹千代なのであった。