第231話 仕上げが肝心
永禄十一年八月五日。織田尾張守信長は馬廻衆二百五十騎を率いて岐阜城を進発。隣国・近江を目指して西進し、二日後の同月七日に佐和山城に着陣したのである。
佐和山城は浅井家の城であり、城には三つ盛亀甲に唐花菱の旗が翩翻と翻っていた。
「これは尾張守殿、よくぞ美濃よりお越しくださいました!某が浅井備前守長政にございます」
齢四十六となる佐和山城主・磯野丹波守員昌を従え、信長一行を出迎えたのは黒糸縅の鎧を身に着けた齢二十四の若き浅井家当主・浅井備前守長政その人であった。
「これは備前守殿。わざわざのお出迎え、かたじけない。織田尾張守信長にござる。こうして妹婿殿とお会いできたこと、恐悦至極に存ずる」
この日、初めて同母妹であるお市の方の夫・浅井備前守と対面した信長は、あふれ出る若武者の才覚の片鱗を言語態度から感じながら佐和山城へと入城した。
「尾張守殿がこうして参られたということは、いよいよ来月には上洛戦をとのお考えにございますか」
「いかにも。来月七日に岐阜城を出陣するつもりよ」
「然らば、参集地は高宮はいかがでございましょう。今後の進軍経路などを思案いたしますに、ここで合流するが得策かと」
「備前守殿の考え、この信長と割符を合わせたように一致したことゆえ、近江国高宮を参集地といたす。されど、義昭様からのご意向もあり、まずは六角家へ降伏を勧告する使者を派遣した」
降伏を勧告する使者と聞き、義兄・信長と参集地の意見が合致して内心では小躍りしていた浅井備前守の表情が引き締められる。足利義昭の意向とあっては、並々ならぬ使者であることに違いないと察知したのである。
「して、使者にはどなたが向かわれるのでしょうか?」
「うむ、幕臣の和田伊賀守殿に当家の家臣三名を附属させて向かわせることが決まっておる。まもなく観音寺城へ向かて出立する頃合いであろう」
「然らば、明日にも伊賀守殿は戻って参られましょう。尾張守殿はいかがなされるご所存で?」
「某は七日間を目途に当城へ滞在するつもりでおる。近江国の地理も心得ておらぬゆえ、進軍のことなどを備前守殿にもご意見いただきたいと思っておる」
「なるほど、近江は某の庭にございますれば、お役に立てましょう」
浅井長政からの心強い返事を受けて、信長はすぐにも進軍路などを綿密に打ち合わせしていく。
「然らば、備前守殿は観音寺城の制圧は容易であると見込んでおられるのか」
「はい。六角家に従属したこともあり、戦ったこともある某ならば分かりまする。最前線となる和田山城や箕作城の方がよほど堅牢で、こちらをいかに手早く攻略するかにかかっておりましょう」
「なるほど、そうであったか」
六角家はいざ戦うとなれば、本拠地・観音寺城での籠城ではなく、最前線となる和田山城や箕作城を死守することで上洛してくる軍勢を足止めするつもりでいる。その六角家側の思惑を知ることが出来ただけでも、信長は戦略を練るのには大いに役立つ。
「加えて、あくまでも観音寺城は守護所として機能しておるのみで、守りは堅牢とは言えませぬ。その観音寺城が最後に攻められたのは明応五年となりますゆえ、七十年近く前となります」
「つまるところ、当主の六角右衛門督はおろか、隠居の承禎殿が生まれた前から観音寺城は攻められたことがない、ということになるか」
「はい。そのことを誇りであり、此度もそれで凌げると自負しておりましょうし、降伏勧告は拒絶されるのではありますまいか」
「ふむ、備前守殿の話を聞き、近江の内情が掴めた。改めて礼を申すぞ」
信長は浅井備前守の解説を受け、近江の内情を把握したうえで戦略を練り直すこととした。そして、その翌日のことである。観音寺城へ使者として向かっていた和田伊賀守惟政が佐和山城へ帰還したのは。
「お、尾張守殿!一大事にございます!」
広間へ駆け込んだ和田伊賀守は厳めしく髭を蓄えた顔立ちからは想像もできないほど、今にも泣きだしそうな顔をしていた。そんな和田伊賀守に一瞥もくれず、信長は文机に正対し、何か書状を書き連ねているところであった。
「お、尾張守殿?」
和田伊賀守が信長の手元を覗き込むと、近江の寺院や町に発給する濫妨狼藉、陣取放火、竹木伐採などを禁じる禁制をしたためていたのである。そして、そこに記載された署名にはこのように記されていた。
――織田弾正忠信長、と。
「これは申し訳ござらぬ。尾張守より弾正忠へと改められたのですか」
「で、ある。以後は織田弾正忠信長と書すこととしたゆえ、そのことは後ほど義昭様にもお伝えすることといたす。して、伊賀守殿。一大事とは?」
「そのことにございますが、六角承禎殿、六角右衛門督殿は入洛支援の要請を拒絶すると仰せに」
「で、あるか」
浅井備前守の見立て通りの返答でもあったことから、信長の驚きは皆無であった。それだけに、和田伊賀守が受けた衝撃の方が大きかった。
「な、何故そうまで平静でいられるのですか!」
「あくまでも戦わずに済むならば戦いを避けたい。その願いで某と義昭様の意見が一致したゆえ、降伏勧告を入れてやったまで。戦って勝てぬ相手でもなし、そうも恐れおののくこともあるまい。抗うというならば、幕府に抗う逆賊として討伐するまで」
――六角家など恐れるべくもなし。
信長の発言は棘があったが、和田伊賀守はその通りやもしれぬと思い、反論することはしなかった。
「然らば、弾正忠殿は開戦もやむなしとして、岐阜城へご帰還なされるご所存でしょうや」
「いかにも。じゃが、二、三日空けて今一度使者を立てることとしたい」
「されど、降伏を受け入れはすまいかと。城内の者らが耳にしておったことなのですが、昨日一昨日にも三好三人衆と篠原長房が観音寺城へ入り、六角父子と軍議を開いておったとのこと。此度の申し入れを断ったのも、三好の援軍が入ると見越してのことではなかろうかと」
「ゆえに再度使者を立てようとも同じこと。拒絶されるだけであると仰りたいのであろう」
和田伊賀守は信長の言葉に静かに頷く。わざわざ三好家の首脳陣が近江国観音寺城へ足を運んでまで評議に及んでいるのである。必ずや、何か策を講じているに違いないのだ。ともすれば、三好家の支援があると六角家も自信をもって降伏勧告を突っぱねたことの説明がつく。
「案ずるに及ばず。この使者は表向きは降伏勧告を促す使者にござる。されど、その実は敵を慢心させるための使者でござる」
「ま、慢心させると……?」
「で、ある。最後の降伏勧告と言いながらなおも降伏を促す使者を送ってくるとは信長め、それほどまでに我らと戦うのを恐れているのだ、と」
「たしかにそう思うやもしれませぬが、万が一三好の援軍が参った折にはどういたしまする?」
「十把一絡げに葬り去るまで。雁首並べて義昭様の行く手を阻むというならば、これすべて討ち果たすのみ。逆賊の首を京へかけ並べてご覧に入れん」
信長の中ですでに策は定まっていた。そして、それは極めて勝率の高いものであると和田伊賀守も悟った。
「然らば、使者には某は不要にございましょう。義昭様からの最後通告は昨日のこと。次は弾正忠殿個人の意向としておけば、より敵も思い上がりましょう」
「さすがは老練な伊賀守殿。では、申し出の通りにさせていただくとする」
にやりと不気味な笑みを浮かべた信長は数日のうちに観音寺城へ使者を立てた。そして、その目論見通り、当主・六角右衛門督義治は三好勢の来援を見込んでいるのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまったのである。
「備前守殿、六角の者らは義昭様に恭順するつもりはないようじゃ」
「そのようでございます。然らば、あとは戦場にて相まみえるのみにございましょう」
「で、ある。某は一度美濃へ帰国し、軍備を整えし後、再び近江へ参るゆえ、備前守殿も抜かりなきよう、お願いいたす」
信長は六角家の対応を受けてすぐに動いた。慌てた様子で佐和山城を出て、居城・岐阜城へと帰還する様は六角家の返答に恐れおののいているようにも見受けられた。
そうして信長が上洛戦における第一の障害を六角家と定め、戦支度を整えている頃。徳川家康と協同での今川領経略に向けて密約の内容をすり合わせ、起請文交換をせんとしている武田信玄のもとへ、本国甲斐から在陣中の北信濃へ早馬が入っていた。
「ちっ、上総介め」
信玄は甲斐に残留していた栗原伊豆守信重から届けられた書状を怒りを抑えきれずに握りつぶす。その様子に、側で控えていた娘婿・穴山左衛門大夫信君が何事かと緊張を帯びた眼差しを向ける。
「御屋形様、いかがなされましたか。なんぞ伊豆守よりの報せに無礼なことでもございましたか」
「そのようなことではない。どうやら駿河にて陣触れがなされたそうな」
「なっ!?今川から甲斐へ攻め込んで参ると!?」
「さしづめ弾正少弼より儂が北信濃へ在陣していると聞き、長尾を支援するためにも背後を突かんとしておるのではないか」
すでに信玄をはじめ、武田重臣の間では今川上総介氏真と上杉弾正少弼輝虎と結ぶべく、駿越交渉をしていることは共通認識となっていた。穴山左衛門大夫も、駿河で陣触れと聞いて真っ先に上杉勢を援護するための動きではないかということが脳裏をよぎった。
「加えて、甲斐と駿河の国境も今川方によって封鎖されてもおる。陣触れといい、国境の封鎖といい、儂を怒らせたいらしいな」
国境封鎖も陣触れも敵対行為として捉えられても仕方ない行為であり、信玄が憤るのは無理もなかった。だが、甲斐の虎が放つ殺気は比類ないものであり、まだ若い穴山左衛門大夫は呑まれそうになる。
「御屋形様。先日、富士郡の佐野一族をはじめ、国境沿いの国衆らはご当家の軍が動くと同時に従属する旨を誓約してもおります。今さら、駿州が何をしようとも、無駄な足掻きというもの。せめて、今世の最期くらいは好きにやらせてやってはいかがでしょうか」
「ふっ、それもそうか。すでに瀬名源五郎氏詮、朝比奈兵衛大夫元長、葛山中務少輔氏元らは当家に内通してもおる。今川譜代の過半を切り崩した今、何が出来ようものぞ」
「まさしく。瀬名源五郎殿は御屋形様の異母弟にあたられる左京亮信友様へ姉妹を嫁がせてもおります。そして、その瀬名源五郎殿は葛山中務少輔殿の娘婿にございますれば。加えて、朝比奈兵衛大夫殿は亡き今川義元公より『元』の一字を与えられたほどの武士にございます」
「うむ。駿府におる我が弟左京亮とその子で儂の甥にあたる左衛門佐信堯も帰属を訴えて来ておる。この分では駿府制圧など半月ほどで成し遂げられよう」
今川上総介氏真の敵対行為とも呼べる好意に憤怒しながらも、信玄もまた駿河の今川方の調略を大方完了させており、あとは攻め込むだけという情勢にまで持っていっていた。
「御屋形様。然らば、徳川へ提出する起請文はこれでよろしいのですか」
「構わぬ。駿府を占領した際、松平へ従う遠江衆らの人質を返すことであろう。それしきのこと、認めてやらぬでどうする。人質がこともそうよ」
「はっ!では、このまま起請文を徳川方へ届けさせまする!あとは徳川方からの起請文と約束の人質が提出されれば、晴れて同盟締結となりまするな」
「うむ。それと左衛門大夫、酒井が娘の預かり先は思案しておるところじゃが、蔵人が弟はそなたの本拠である下山にて預かっておいてはくれぬか」
「しかと承りましてございます!」
穴山左衛門大夫は徳川家へ送る信玄の起請文を受け取るとこれをただちに三河国岡崎へと送る手配を進めていく。
「いよいよ今川領経略か。調略も大方済んでおる。あとは、今川領へ攻め込むことを同盟先の小田原へいかに説明するかじゃが、これは駿越の交渉を暴露しておけば問題あるまいか」
今川上総介氏真がすでに信玄に察知されているとは露知らず、現在も交渉を続けている上杉弾正少弼輝虎との同盟交渉。これは明確な甲相駿三国同盟の盟約違反であるため、北条家としても沈黙せざるを得まい、というのが信玄の考えであった。
「駿州めに戦の何たるかを教えに参る日も近い。まずは長沼城普請。これが成せねば南に矛を向けることもできぬか……」
本庄繫長を離反させ、越中一向一揆や椎名康胤、神保長職といった越中先方衆に越後へ攻め入ることを命じた信玄。
後顧の憂いとなる越後の龍・上杉弾正少弼輝虎を封じた甲斐の虎の眼は駿河へと向けられていた――




