第224話 子弟に過ぎたる宝なし
明けて永禄十一年正月。武田信玄が敵対する上杉弾正少弼輝虎を苦しめるべく仕掛けてきた調略が少しずつ、されど着実に成果を上げつつあった。
「御屋形様、会津よりの書状にございまする」
「おう、三郎兵衛尉か。その手にある書状は誰からじゃ」
「はっ、会津よりの書状にございますれば」
「会津からか。蘆名修理大夫盛氏殿、いや今は嫡男に家督を譲って隠居し、止々斎と号しておったか」
山県三郎兵衛尉昌景が持参した会津を治める蘆名止々斎からの書状を受け取った信玄はすぐに開封し、内容に目を通していく。はじめはいかなる感情も表さぬ強張った表情のままであったが、次第に口元が喜びに歪んでいく。
「御屋形様、良き返事にございましたか」
「うむ。儂から提案した越後攻めの密約じゃが、喜んで受諾するとの返答が書かれておる」
「それは祝着至極にございます。まこと、おめでとうございまする」
「ははは、めでたくはないぞ、三郎兵衛尉。越後攻めはこれからじゃ。目下、北越後の揚北衆・本庄繁長を調略しておるところじゃが、この調略が成せれば北越後は大いに荒れることとなろう」
嬉々として北越後を荒らす渉外について語る武田信玄。事実、会津の蘆名氏との密約に続き、揚北衆の本庄繁長調略が成せれば、輝虎は本国越後での内乱鎮圧に迫られ、武田や北条との戦どころではなくなる。
加えて、信玄は越中一向一揆とも水面下で連携を図っており、同時に越中も荒らすことによって上杉勢の目を北信濃や上野から逸らすことにも繋がるのである。
「我らと蘆名が支援するとの旨を伝えたところ、本庄繁長の心は大いに揺れておったと報告を受けてもおる。ましてや、越中一向一揆だけでなく、輝虎が関東へ出陣する際に春日山城の留守を任せるほど絶大な信頼を寄せる椎名右衛門大夫康胤も内通してきておる」
「なんと!椎名までも上杉を離反するとなれば、さしもの軍神も越後と越中への処置に追われることとなり、北信濃や上野を顧みる余裕もなくなりましょうぞ」
「その通りよ。じゃが、近ごろ駿府に越後からの僧が頻繁に出入りしておるとも耳にしておる。ゆえ、その内実を探り、真実であったならば……」
「駿河進攻、にございまするな」
山県三郎兵衛尉の言葉に静かに頷く信玄。松姫の駿河帰国が来月に迫る中、彼女の実家である今川家にて怪しげな動きがみられる。信玄としても由々しき事であり、これを放置するわけにはいかなかった。
「近々、伯耆守を岐阜城へ派遣するつもりでおる」
「それは某も耳にいたしました。松姫様との婚約が成せたことへの賀詞を述べに参ると」
「ははは、それは表向きのこと。用件は他にも二つある」
「二つ、にございまするか?」
――さあ、その二つの用件とは何か、当ててみよ。
そう挑戦するかのような主君の眼差しに山県三郎兵衛尉は顎に手を当てて考える素振りをする。今の主家の情勢、何より織田家が関わる内容でなくてはならないはず。そうして考えられる事柄を整理していくと、自ずと用件が何であるのか、推測することができた。
「まず一つは足利義秋様ご上洛のことにございましょうか」
「その通りじゃ。してもう一つは何であると思うか」
「今川家と関わりのあること、とまでしか分かりませぬ」
申し訳なさそうに話す山県三郎兵衛尉に対し、信玄は腕を組んだ巌のような態度で静かに首肯する。
「うむ。今川領国を攻めるにあたり、遠江の今川領と隣接する織田殿と話を付けておかねばなるまい」
「御屋形様、遠江の今川領と隣接しておるのは織田ではなく、徳川にございますれば」
「ははは、三州など所詮は国衆あがりに過ぎぬ」
「されど織田と徳川は清洲同盟を結んだ間柄にございますれば、ここは徳川と直に話すべきではございますまいか」
「あの三郎兵衛尉がこのような寝言を申すとは驚いた。三河岡崎の国衆と織田殿が対等な同盟など結ぶはずがなかろう。松平は織田の従属国衆に過ぎぬ、我らで言うところの三河先方衆のようなもの。ゆえに、岐阜城の織田殿と直に話をするに限る」
主君・信玄と家臣・山県三郎兵衛尉との間には三河を治める大名についての認識に齟齬があった。
あくまでも信玄は家康のことを朝廷から認められた三河国主・徳川氏ではなく、岡崎の国衆・松平氏と認識していたのである。
その隔絶された認識をさしもの山県三郎兵衛尉では訂正できようはずもなかった。
「伯耆守には越前に逗留されておられる足利義秋様ご上洛について、織田と朝倉の両氏でどのように話が付いているのか、それの確認をさせるのよ」
「なるほど、たしかに上洛なされるご意思があり、そのために各国の諸大名に支援を要請しておられることは存じておりましたが、具体的な話はご当家にまで伝わってきておりませぬ」
まさしく山県三郎兵衛尉の申す通りであった。それゆえに、わざわざ岐阜城まで織田信長との甲尾同盟締結にあたって取次を務めたことのある信州飯田城の秋山伯耆守虎繁を隣国の岐阜城まで派遣して確認させようというのだ。
「されど、御屋形様のことです。よもや情勢を確認するためだけではございますまい」
「うむ。それゆえ、その場で今川領国を攻めることについて連携を持ちかけるのじゃ」
「なるほど、さすれば織田軍の先鋒を徳川が命じられる、というわけですな」
「そうなるであろう。じゃが、織田の援軍なしでは何もできぬ松平では遠江侵攻に手間取ろう。加えて、その織田は上洛にかかりきりと来れば、最も利を得るのは我らよ」
「まさしく。松平が手こずる間に、我らが駿河、そして遠江東部を支配下に置くのでございますな」
「さすがは三郎兵衛尉、話が早い。それゆえ、あとは攻め入る口実を得るべく、駿河に透波を潜らせ、領内に異変がないか探らせておるのじゃ」
山県三郎兵衛尉は主君・信玄の念には念を入れた、緻密な戦略にただただ感服するのみであった。
宿敵である上杉弾正少弼輝虎の本拠地・越後で叛乱を起こさせ、それに加えて越中一向一揆とも手を結ぶことで北信濃や上野といった自領へ侵攻するどころではなくす。
そのうえで同盟先の織田家が足利義秋の上洛をいつ頃と定め、どのように動いていくつもりなのか、探りを入れつつ駿河進攻の機を窺う。
――外交を通して、ここまで隙のない、完璧ともいえる事前準備を整えられる大名は御屋形様をおいて他にはいない。
山県三郎兵衛尉にそこまで思わしめた信玄は不敵な笑みを浮かべ、こう呟いた。
――良いか、三郎兵衛尉。勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。これが戦の鉄則じゃ。決して忘れるでないぞ。
そうして信玄が次なる獲物を駿河・遠江と定め、着々と戦支度を進めている頃。武田家と甲尾同盟を結んでいる織田家は北伊勢支配をより盤石なものとするべく、信長が身を切る決断を下そうとしていた。
永禄十一年二月、岐阜城。信長は身に沁みる冷たさを帯びた床の上で正座する齢十一となった三男・三七、齢二十六の同母弟・織田三十郎信包を上座より睥睨していた。
「兄上、此度は平定した北伊勢のことでお話があるとのことにございましたが、一体いかなることにございましょうか」
「うむ。北伊勢の豪族である神戸氏と長野工藤氏、この両氏へそなたらを遣わすこととした」
「と申されますと、すでに決定事項なのでございますな」
「そうじゃ。異論は認めぬ」
元よりこの兄に何を申しても覆ることはないと理解している織田三十郎は不平不満一つこぼすことなく、これを了承。
まだ齢十一の織田三七に至っては養子入りが一体どういうことを意味するのか、それを理解する間もなく、話を進展させられていく。
「三七」
「はい」
「そなたには神戸蔵人大夫具盛の娘である鈴与姫を正室に迎えることとなる」
「なんと、某に妻が……!?」
齢十一の織田三七にとって妻を持つということはまだまだ先のことのように思えてならなかった。それだけに、父の命とはいえ、妻を持つことに驚きを隠せなかった。
「その鈴与姫は関一利なる者と婚約していたそうだが、それを破談としたうえでそなたに娶わせることとなっておる」
「そ、そのような強引な手法を取っては関氏が黙っておらぬのでは……?」
「ははは、関一族如きに何ができようものぞ。それこそ、歯向かおうものなら滅亡に追い込むまでのこと。案ずるには及ばぬ」
さらっと滅亡に追い込むという父の発言に幼い織田三七は恐怖した。何より、彼はただ一人見知らぬ地へ、見知らぬ人が数多くいるところへ送り込まれるという不安から生じる感情であった。
「ゆえに三七、そなたは以後、神戸三七郎と名乗るがよい。時期に神戸氏の家督を継承することにもなる。いつまでも蔵人大夫が家督を譲らぬようならばおれからも説得するゆえ、心を強く、毅然とした態度で臨むのじゃぞ」
「はっ、はいっ!されど、某一人では心細うございます」
「ははは、案ずるな。何も我が子をたった一人で他家に送り込むはずがなかろう。そなたの乳兄弟である幸田彦右衛門を傳役とし、そなたの母方の縁者である岡本太郎右衛門良勝、他にも坂仙斎、三宅権右衛門、坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門といった家臣を附属させるゆえ案ずるな」
「それは頼もしゅうございます!それならばこの神戸三七郎、神戸家の養嗣子として父上の北伊勢支配に力添えして参りまする!」
「それでよい。良いか、先ほど名の挙がった関をはじめ、そなたの舅の説得で我らに従うこととなった国府、峯、鹿伏兎、稲生といった諸家もそなたの与力とするゆえ、励むがよい」
織田三七改め神戸三七郎は父の心配りに感謝し一礼する。それを満足げに見やると、信長は続けて弟・織田三十郎へと視線を移す。
「三十郎、そなたは長野工藤氏へ養子入りすることとなる」
「はい。心得ておりまする」
「すでに長野工藤氏はおれへ降伏する旨を願い出ておる」
「たしか家中は当家との和睦を望む一派が主導権を握っておると耳にしております」
「その通りよ。加えて当主の長野具藤は長野氏一族の細野藤敦と対立し、内紛に敗れて逃亡してもおる」
「つまり、当主不在ということになりますか」
弟の察しの良い返答に信長は大きく頷いて見せる。そして、信長は寒さで凍り付きそうな口を開き、伝えなければならないことを伝えていく。
「その長野具藤は北畠具教の次男で、現当主の弟にあたる者。ゆえに北畠家は我らが北畠出の当主を追い払って長野工藤家を乗っ取ったと思っておろう」
「ともすれば、北畠家との戦は避けられぬものとなりましょう。長野工藤氏の所領は三七郎殿が養子入りした神戸氏よりも北畠家の所領に近うございます。ゆえに、一層支配を盤石なものとする必要がある。そう兄上は申されたいのでしょう?」
「いかにも。そして、長野具藤は妻を残して逃亡したとのことゆえ、その妻を三十郎の正室とすることで話はついておる」
「何と……!たしか、その北畠具藤が正室は長野藤定の娘と聞いておりますが」
「そうじゃ。北畠具藤は婿養子にあたるゆえな。名を吉子というそうじゃ。その姫を娶ったうえで名実ともに長野工藤氏の当主となるのだ」
長野工藤氏の嫡流筋にあたる姫を娶ったうえで養子に入り、家督を継承する。神戸氏に対して行った押入聟よりは幾分かましな方ではあるが、強引であるという点は否めなかった。
「加えて、長野工藤氏の分家にあたる雲林院氏を継承している雲林院祐基も臣従を誓う旨をこうして誓約してきておるゆえ、安心して長野工藤領へ向かうがよい」
「ありがとう存じまする。たしか雲林院祐基殿は某の妻から見れば叔父にあたる者にございましたな」
「その通りよ。長野工藤一門とも呼べる雲林院祐基が臣従を誓っているのであらば、そなたの家督継承に異議を申す者はおるまい。あとは伊勢国司でもある北畠家の動向に注視してもらいたい」
「そのことは言うまでもございませぬ!何か怪しげな動きあらば、すぐにも兄上のもとへ注進いたしまする!」
「頼むぞ、三十郎」
かくして、信長は三男・神戸三七郎を神戸氏の婿養子に、同母弟・三十郎信包も同じく長野工藤氏の姫を正室とさせることで家督を継承させ、北伊勢を支配する豪族への支配力を大幅に強化した。
「北伊勢はこれで良い。これにて心置きなく義秋様を擁しての上洛に臨めるというもの。それに向けて、越前の朝倉とも話を付けねばならぬか」
信玄が想像している以上に、信長は着実に上洛のための準備を整えつつあった。
しかし、同月中に足利義秋を驚愕させる出来事が畿内で勃発することとなる――




