第169話 続・上和田砦をめぐる攻防戦
永禄七年一月十一日に勃発した上和田砦をめぐる攻防戦は一向一揆勢が針崎へと退却していったことによって決着。上和田砦の防衛に成功した家康方に軍配の上がる結果となった。
そんな家康は味方と合流したうえで一度、上和田砦へ入った。
「殿、此度は援軍いただき、感謝いたしまする」
「そう畏まらずとも良い。味方から救援要請があったから助けに動いたまでのこと。至極当然のことであろう」
砦に入った家康を出迎えたのは留守居を務めた大久保平右衛門忠員であった。老将からの労いに対し、当然のことと笑って返す家康の姿に奮戦した大久保党の者たちは感涙している。
家康は大久保党の中でも片目を射られた大久保七郎左衛門忠勝と腰を撃たれて歩行が困難となった大久保主水忠行の両名を特に労わった。
「七郎左衛門、眼は見えぬか」
「はっ、身体は動かせまするが、何分にも視界が悪く、これまでのような槍働きはできませぬ。ゆえに、以後は殿の御伽衆として召し使っていただければ幸いに存じます」
「そうか。他でもないそなたからの願いじゃ、聞き入れるとしようぞ。されど、今後の大久保党の指揮は誰が執るぞ」
「その儀ならば従弟の七郎右衛門に一任したく。七郎右衛門、前へ」
隻眼となった大久保七郎左衛門に差し招かれて家康の面前へやって来たのは無精ひげを蓄えた大久保七郎右衛門忠世であった。
「殿、大久保七郎右衛門忠世にございます」
「うむ。そなたの指揮は見事であったと皆も申しておったことゆえ、以後の大久保党の采配は七郎右衛門。そなたに一任することとしようぞ」
「はっ!ご期待に沿えますよう、粉骨砕身働いて参りまする!」
「頼むぞ、七郎右衛門!」
大久保七郎右衛門は蟹江七本槍に数えられるほどの抜群の働きをした猛将。そんな彼が率いていくというならば、大久保党は衰えることなく、精鋭部隊であり続けるだろうと家康も感じていた。
そして、次は七郎左衛門の右隣に控える大久保主水へと家康は視線を流していく。
「主水、腰は大事ないか」
「はっ、傷口は塞ぐことが叶いましたが、殿の御前であるというに着座することも叶いませぬ。これでは戦場へ出たとて足手まといにしかなりませぬ。ゆえに、お暇を頂戴したく」
「そうか……。やむを得まい。ならば、暇を与えよう。じゃが、これからどうするつもりじゃ。妻子も養わねばなるまいに」
「はっ、某は菓子を作ることができまするゆえ、作った菓子を売って生計を立てるつもりにございます」
「左様であったか。そなたの菓子はわしも食べてみたい。此度の一向一揆が片付きし後、作った者を献上してはくれぬか」
「喜んで献上させていただきまする!」
武勇に優れる大久保党から軍役を免じなければならないほどの傷を負った者が二名。両名ともに武勇に秀でていたがゆえに、戦場へ連れていくことのできないもどかしさを家康は抱えることとなった。
「殿、一つお願いしたきことが」
「おお、主水。頼みとはなんじゃ」
「はい。そこで大人しく正座しておる七郎左衛門の嫡子、兵蔵はまだ元服しておりませぬ。今ここで、殿に烏帽子親となっていただくことはできませぬか」
大久保主水からの願い。それは大甥の大久保平蔵の元服であった。無理を言っていることは大久保主水は百も承知であったが、その願いを家康はあっさり聞き入れた。
「よかろう。兵蔵の元服後の諱はわしの『康』の一字を与えよう。そこに大久保家の通字である『忠』を宛がい、『康忠』とするがよい」
「あ、ありがとうございまする!兵蔵、しかと礼を申せ!」
「殿、ありがとうございまする!偏諱をいただいた者として、恥じぬ手柄を立てられるよう精進して参りまする!」
「うむ、期待しておるぞ」
自分よりも七ツ下の若武者へ偏諱した家康。これもまた、今日の大久保党の奮戦へ報いる褒美の一つであった。
何はともあれ、家康は大久保党にゆめゆめ油断してはならぬと固く申し付けたうえで、その日は岡崎城へと帰還した。
「ふう……」
近侍たちに手伝わせながら重い金陀美具足を脱ぐと、何かが落ちる音が二つ聞こえる。小さな金属が床板へ落ちる音がしたため、足元を見てみれば、鉛玉が二つ床の上に転がっていたのである。
「殿、お怪我は!」
落下した鉛玉は鉄砲の弾丸に用いられるもの。それが鎧から落ちてきたということは家康が二度も銃弾を浴びていたことを意味している。それゆえに、鎧を外すのを手伝っていた本多平八郎忠勝や榊原小平太が顔色を変えるのは無理もないことであった。
「案ずるな、どこも怪我などしておらぬ。すべて今川義元公より賜りしこの金陀美具足が防いでくれておる。あの世から義元公がお守りくだされたのじゃ。ありがたいことよ」
金陀美具足と呼ばれる金箔押しや金漆塗りで仕上げられた金色の甲冑は今は亡き今川義元より賜った具足である。その具足のおかげで、銃撃されても生きているということを、家康は今川義元が守ってくれたと述懐しているのであった。
もう今世では二度と会うことの叶わない大恩人の顔を思い浮かべているのか、家康は今にも泣きだしそうな顔をしている。
「そうじゃ、彦五郎はおるか」
「ははっ、これに」
「留守居ご苦労であった。そなたに一つ頼みたいことがある」
「殿からの頼みとあらば、何でもいたしましょう。して、その頼みとは?」
「うむ。乱戦の最中、一揆方に与しながらわしを庇って討たれた土屋惣兵衛の亡骸を探し求め、丁重に弔ってもらいたい」
「承知いたしました。これで惣兵衛も浮かばれましょう。では、家人どもに命じて急ぎ探させまする」
石川彦五郎家成は家康より土屋惣兵衛重治の亡骸を弔うように命じられると、一礼して退出していく。
それから家康は具足を外すと食事を取り、その日は疲れを癒やすように早々と寝所へ入っていった。
そして、夜が明けて一月十二日。その日も上和田砦より昨日と同じく竹の筒の貝の音が鳴り響く――
「殿!」
「分かっておる!隼之助、法螺貝を吹け!出陣じゃ!」
「ははっ!」
胴丸姿で家康のもとへ上和田砦の危急を報せに来た榊原隼之助忠政は、主命で法螺貝を吹くべく、再び駆け出す。そうして家康もまた、あらかじめ着用していた金陀美具足越しに陽の光を浴びながら馬へ飛び乗り、城外へ駆け出していく。
昨日の敵襲もあり、昨日よりも迅速に軍勢を招集した家康は乙川を渡河し、明大寺・六名を経由して昨日とは比べ物にならない迅速な進軍で上和田砦へと到着したのである。
「殿!昨日と同じく、大久保党は野戦にて一揆勢と戦っておりまする!」
「おお、まことじゃ。されど、両者ともに昨日ほどの覇気は感じられぬ。やはり昨日の今日ではお互いに疲れが取れず残っておるのであろう。今こそ好機じゃ、ただちに一向一揆勢を蹴散らし、大久保党を救出するのだ!全軍、進めっ!」
陣刀を鞘から引き抜き、馬上から高らかに号令する家康。その若き君主の号令を受けて、黒田半平や植村庄右衛門正勝といった若者輩が我先にと敵中へ斬り込んでいく。
「むっ、お主は渡辺半蔵ではないか!」
「おう、いかにも某が槍半蔵こと渡辺半蔵じゃ!お主は黒田半平であろうが!」
「いかにも!これは主君に背きし逆賊を討つ好機!大人しく首を差し出されるがよい!昨日のような父を担いでの無様な撤退だけはさせぬと心得よ!」
「ほざいたなっ!あの後、父は矢傷がもとで亡くなったのだ!その父の最期の槍働きを侮辱した貴様だけは断じて許さぬ!」
黒田半平が口にした言葉を亡き父・高綱への侮辱として受け取った渡辺半蔵守綱は憤怒を露わにし、槍で突きかかる。
風を斬り裂いて繰り出される渡辺半蔵の怒涛の連撃。黒田半平とて武芸の心得がないわけではなく、始めのうちは攻撃を右へ左へと捌いていたが、次第に対応が追いつかず、瞬く間に手足は槍で突かれ、傷だらけとなる。
「くそっ、これが槍半蔵!昨日の合戦で手傷を負ったと聞いておったが、とてもそうとは思えぬ……!」
刹那。肉薄した渡辺半蔵渾身の一突きが黒田半平の腹部を穿った。渡辺半蔵が父を侮辱されたことへの恨みを晴らし、辺りを見回すと、家康出陣に少々遅れた援軍が続々と到着し、一向一揆勢の陣形を突き崩していた。
意気軒昂な援軍が続々と参戦する状況に、団結を欠く一向一揆勢はついに裏崩れ、すなわち交戦中の部隊より先に後方の部隊が動揺して陣形を崩し始めたのである。中には、我先に南へ逃げ出す者の姿もあった。
そんな味方が早くも崩れ出したことに渡辺半蔵が地団太を踏む頃、黒田半平とともに真っ先に一向一揆勢へ斬り込んだ植村庄右衛門と蜂屋半之丞貞次の一騎打ちも一つの区切りがつけられていた。
「さすがは蜂屋半之丞……!ますます腕を上げたか」
「当たり前よ!生まれてこの方、武芸の鍛錬を怠ったことなど一日とてないわ!」
浄土真宗から浄土宗に改宗してまで家康に味方した植村庄右衛門だが、さすがに勇将・蜂屋半之丞が相手ではいささか分が悪かった。さりとて、ここまで蜂屋半之丞と戦って討ち取られずにいる植村庄右衛門もさすがというほかなかった。
「へっ、やめじゃやめじゃ。味方も逃亡が相次いでおる。ここらで引き揚げさせてもらおう」
「待てっ、逃げるか!」
後を追いかけ、蜂屋半之丞との一騎打ちを続けようとする植村庄右衛門であったが、これまでの戦いで消耗した体力では、余裕綽々な蜂屋半之丞の足に追いつくことはできず、見る見るうちに姿が小さくなっていくのであった。
そうして形勢不利と見て退却し始めた蜂屋半之丞は占部川を渡り、上和田砦の南南東にある柱縄手へ退却する途中で、同じく退却途中の渡辺半蔵と出くわした。
「おう、半之丞!無事であったか!」
「半蔵も無事で何よりぞ。されど、不甲斐ない味方じゃ。あれしきの合戦で陣形を崩して逃げ出すとは!殿が指揮を執られておれば、あ奴らもあれほど脆く崩れることもなかろうに」
「よせやい、半之丞。我らが戦っておるのがそれこそ殿じゃ。言うておることがあべこべじゃぞ!しっかりせぬか」
そこまで口にすると、蜂屋半之丞、渡辺半蔵の両者は口をつぐんだ。今戦っているのはその主君であるというのに、主君が采配を執っていればこのような無様な撤退にはならないなどと口にするのは、一体どういうことなのか。本人たちも心の内では戸惑っている様子であった。
「まあよい、半蔵。そなたはこのまま進め。この半之丞は後から落ちてくる味方を収容しながら撤収するゆえな」
「よし、承知した!では、先に寺へ戻っておるゆえ、早く戻って参れよ」
歯を見せて笑いながら渡辺半蔵は槍を担いで南へと駆けだしていく。渡辺半蔵をはじめとする味方が撤退していく背を幾人か見送った頃、蜂屋半之丞は再び退却するべく走り出す。しかし、そこへ水野藤十郎忠重が槍を引っ提げて蜂屋半之丞へと追いすがる。
「半之丞!逃げるとはきたなし、返せ!」
そう呼ばわりながら追走してくる水野藤十郎を捨て置けぬと判断した蜂屋半之丞は反転。向かってくる水野藤十郎を迎え撃つことに決めた。
「おう、この新参者めっ!我が白樫三間柄の槍の餌食にしてくれる!」
そう言って水野藤十郎へ向けた蜂屋半之丞の槍先には研ぎ澄ました四寸ばかりの長吉の刃をはめ込んでいた。そうして半之丞が普段から豪語するには、半之丞の槍先に誰が向かってこれようか、と。
並の槍とは比べるべくもない長槍を持ち前の長身と怪力でもって操る蜂屋半之丞の豪快な槍技に、体格でも純粋な力勝負でも劣る水野藤十郎では手も足も出なかった。
無論、水野藤十郎とて腕に覚えのある強者。さりとて今回は相手が悪かった。水野藤十郎の突きを蜂屋半之丞は易々と払いのけてしまうが、水野藤十郎は蜂屋半之丞の力の籠った一突きを薙ぎ払えなかったのだから。
「ぐっ!」
「へっ、口ほどにもない!失せろ、雑魚が!」
水野藤十郎を一蹴すると、蜂屋半之丞は見向きもせず再び南へ退却していく。そんな蜂屋半之丞の身の丈六尺近い巨躯を見逃さず、今度は馬を飛ばして単騎駆けつける者があった。
「半之丞!止まらぬか!」
「誰じゃ、某を呼び捨てにする者はっ!」
蜂屋半之丞は振り返りざまに自慢の槍を声のした方へ突きつけると、目の前にいたのは他でもない松平家康その人であった。
「どうした半之丞!突いて来ぬのか!」
「ぐぬぬ……」
「とんだ腰抜けじゃ!うぬはそれでも松平の武士か!」
眼前に鈍い光を放つ槍先を向けられてなお、眼を見開いて自分を睨みつける家康に、蜂屋半之丞はついに一歩、二歩と下がり始め、次の瞬間には背を見せて彼方へと走り去っていくのであった。