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不屈の葵  作者: ヌマサン
第4章 苦海の章
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第132話 小坂井東岡の戦い

 随念院との別れを済ませた松平蔵人佐元康は永禄四年八月、東三河へと出兵。その道中、半年経過してなお頑強に抵抗を続ける長沢の鳥屋ヶ根城へ立ち寄ったのである。


「おお、殿!」


「これは蔵人佐殿!御自らのお越しとは驚きましたぞ!」


 元康を出迎えたのは鳥屋ヶ根城を包囲している家老・石川彦五郎と藤井松平家当主・勘四郎信一であった。


 齢二十八の石川彦五郎に二十三歳の松平勘四郎と若手が中心となって鳥屋ヶ根城攻囲は続けられていた。


「此度は二千を率いて東三河へ出兵なされるとのこと」


「いかにも。この鳥屋ヶ根城が落ちればより多くの兵力を回せるのじゃが、そうは参らなかったゆえな。なに、お主らを攻めておるのではない」


 てっきり城が未だ落とせずにいることを叱られたのだと思い、しょぼくれた表情をする石川彦五郎の肩を叩き、そうではないのだということを必死に伝える元康。そんな従兄弟でもある主従の様子を見て笑う松平勘四郎の姿があった。


「して、蔵人佐殿。東条城の方はよろしいので」


「うむ。目下、本多豊後守や松井左近らに命じて付城を築き、包囲を進めておるところじゃ。今しばらくは東条城の者らも身動きが取れぬであろうで、今のうちに東三河へ援軍に向かおうというのが此度の出陣じゃ」


「なるほど。されど、菅沼新八郎殿の野田城はすでに陥落したとのこと。今さら援軍へ赴こうとも不利な状況を打破するには至らぬのでは」


「勘四郎殿もさように考えられるか。わしもそう思うが、援軍に一度も向かわぬのでは東三河で我らに味方することを決めた国衆らを見捨てる行為じゃ。やっておることが駿府の者共と代わらぬ」


「いや、いかにも仰る通りにございまするな。この松平勘四郎、蔵人佐殿の達見に感服いたしました」


 元康の考えを認めた藤井松平勘四郎はそれ以上東三河へ出兵することは無意味であると主張することはなかった。それを見計らって、元康は石川彦五郎へと言葉を発する対象を変更していく。


「そうじゃ、彦五郎。先月十八日はそなたの兄、伝太郎一政の十三回忌であったろう」


「はい。殿が未だ織田の人質であらせられた頃、長兄の諫止も聞かずに小川の地にて織田軍と戦い、討ち死にしたのでございまする」


「そうであった。じゃが、わしの奪還が成功せぬ中で今川軍に業を煮やしての行いであったと聞く。わしはその忠義に生前報いてやれなんだことが悔やまれる」


「兄も今の殿の御言葉を聞き、感涙にむせんでおりましょう」


「ははは、そうであろうかの」


 自分が尾張にて織田家の人質であった頃に亡くなった家臣の十三回忌が行われた――


 それほど時が経過したのだという不思議な感覚と、それほど時が経過しようとも戦は無くなっていない現状とが混ざり合い、何とも言えない気分であった。


「して、殿。此度の戦、わずか二千数百で何を成されようとしておられるのでしょうや」


「何を成す、か。無論、東三河で我らに味方し、今なお今川勢と戦う者共を救うことが第一じゃ。そして、そのために四月よつき前に落とせなんだ牛久保城を攻め落とす」


「殿!それは浅はかと申すもの」


「なんじゃと!彦五郎、今一度申してみよ!」


 信頼している腹心からの一言に怒りが漏れ出る元康。そんな八ツ下の若き主君に対して、臆することなく石川彦五郎は己の意見をぶつけていく。


「先般の牛久保城攻めは奇襲であり、此度よりも千は多い数で攻囲したにもかかわらず、陥落させること叶わず撤退となったのです」


「それは豊川三人衆らの攻めが手ぬるかったまでにこと。わしならば、そのような生温い城攻めはせぬ」


「それゆえに浅はかだと申したのです!殿は少々思い上がっておられる!殿は初陣よりこの方、負けなしじゃ。それゆえに心のうちにお味方を見下す傲慢さが身についてしまっておられる!その傲慢さを捨てきれずに東三河へ行くというのならば、この石川彦五郎、出兵には断固反対でござる!」


 石川彦五郎は言い終えてからハッとした。言い過ぎたであろうことは、目の前の元康が顔を真っ赤にして今にも拳を振り上げそうになっていることからも分かる。だが、それはいつか、誰かが指摘しなければならなかったこと。


 百戦百勝は素晴らしいことではあるが、今の元康にとってはそれが弱点であり、下手をすれば致命傷となることもあり得る。普段からそれを感じていた石川彦五郎は、面と向かって発言できるこの機会を逃すことなく、心のうちに貯め込んでいたものを吐き出してしまったのだ。


「殿、申し訳――」


「すまぬ、彦五郎。お主の言う通りじゃ。この元康は思い上がっておったのやもしれぬ」


「と、殿?」


「これまでの戦で勝ち続けてきたことで慢心しておった。じゃが、この慢心で戦に敗れ、真っ先に犠牲となるのはわしに従う家臣らじゃ。わしを信じて付いてきてくれる者らに対し、この慢心は無礼千万じゃ」


 元康と石川彦五郎のやり取りを傍らで見守っていた松平勘四郎はよもや主君が家臣に詫びるなどとは微塵も考えていなかった。それゆえに、目の前の光景はまこと現実であるのか、疑いたくもなる。


「此度の東三河への出兵は傲慢さを横へ置き、純真な気持ちで当たろうと思う」


「殿……!」


「それとな、此度の東三河出兵で必ずや戦うこととなるのは牧野民部丞成定じゃ」


「それはもう、皆が存じておることにございましょう」


 そう言う石川彦五郎へ視線を送りながら首肯すると、元康は次なる言葉を発していく。


「うむ。おそらく、わしが東海道を進んできたと知れば、あの気性じゃ、必ず牛久保城外に打って出てきて野戦となろう。じゃが、案ずることはない。すでに調略も済んでおることゆえ、牧野勢との野戦で不覚を取ることはない。危惧せねばならぬのは、援軍の方じゃ」


「援軍にございまするか。豊川以西であれば、伊奈城の本多助太夫忠俊、上之郷城の鵜殿藤太郎長照は考えられましょう」


「そうじゃ。豊川を渡河してまで駆け付けるであろう敵は吉田城代の大原肥前守資良や二連木城の戸田主殿助重貞殿であろう。じゃが、戸田主殿助殿は人質として母が吉田城におるゆえ、人質が処刑されたくないがために今川へ従っておることは明白。おそらく、豊川を渡ってまで救援に駆け付けることはあるまい」


 そう冷静に分析していくと、牛久保牧野氏からの援軍要請を受けて馳せ参じるであろう今川方は吉田城代・大原肥前守と上之郷城の鵜殿藤太郎長照といった忠義に厚い者らが濃厚であった。


「兵数の上では牧野勢に鵜殿勢、吉田城に詰めておる今川勢が加わればほぼ同数にございまするな」


「そうじゃ。中でも、吉田城から援軍が駆けつけては牛久保城を落とすことは難しいであろうし、下手をすれば撤退すら危ういやもしれぬ」


「それは仰せの通りかと。となれば、豊川以東の援軍が駆けつけるまでに、当家がどれだけ戦を有利に進められるか。これにすべてがかかっておりまするな」


 石川彦五郎、松平勘四郎といった面々とよくよく協議した末、元康は両名に鳥屋ヶ根城包囲を委ね、東海道を東へ進発。一路、牛久保城を目指したのである。


 この松平勢の東海道進軍は斥候によって牛久保城の牧野民部丞成定のもとへすぐにも報告された。


「なにっ!元康自ら東海道を進軍し、この牛久保城を目指してきておるか!」


「はいっ!先頭に厭離穢土欣求浄土の気味の悪い文言が記された旗を押し立てており、まず間違いございませぬ!」


「よしっ!平右衛門!ただちに吉田城の大原肥前守殿はじめ、上之郷城の鵜殿藤太郎殿、伊奈城の本多助太夫殿に援軍要請の使者を出せっ!城におる者らをかき集めれば千にはなろう。城外へ布陣し、迎え撃つことといたす!」


 ――あの気性じゃ、必ず牛久保城外に打って出てきて野戦となろう。


 元康の予感は的中していた。案の定、牧野民部丞成定は牧野山城守定成や稲垣重宗・平右衛門長茂父子、稲垣重宗の弟・氏連といった重臣らを引き連れて牛久保城より出陣していく。元康が見たのは、すでに布陣を終えて丸に三つ柏の旗が林立している様であった。


「殿、敵はすでに布陣を終えておる様子。我らの進軍を早いうちから知っておったようですな」


「そのようじゃ。さすがに東海道に草の者を伏せさせてあったか。今頃は四方八方へ援軍要請の使者が向かっておろう。敵の来援到着まで寸刻の猶予もない」


 前線の様子を報告する夏目次郎左衛門尉広次を爪を噛みながら応対する元康。先代に焦っている時の様子がそっくりだと笑いそうになりながら、夏目次郎左衛門尉は静かに下知を待った。


 そこへ、本多肥後守忠真や本多平八郎忠勝、渡辺半蔵守綱といった血の気の多い武闘派の面々も続々と集結し、開戦待ったなしの状況となりつつあった。


「よし、法螺貝を吹け!開戦じゃ!」


「おうっ!」


「本陣より狼煙を上げる。それまで攻勢に出ることは控えよ!負けてもならぬが、勝ってもならぬ!」


 最後の元康の命令に一様に首を傾げながら総員が配置につき、松平勢と牧野勢による小坂井東岡の戦いは開戦となった。


「弓隊、構えっ!放てっ!」


 夏目次郎左衛門尉の掛け声で引き絞られた弓より矢が弦を放れていく。牧野勢は犠牲者を出しながらも、それを木楯で防ぎきると、突撃してくる松平勢に向けてお返しとばかりに矢を射返していく。


 それからは両軍入り乱れての白兵戦となり、兵数の多い松平勢が圧勝するかに思われた。しかし、牧野配下の牛久保六騎の奮戦もあり、松平勢の攻勢を見事に持ちこたえていた。


「我こそは稲垣平右衛門長茂であるぞ!腕に覚えのある者はかかって参れ!」


 馬上で槍を振り回し、松平兵を突き伏せながら名乗る稲垣平右衛門の前に、槍を担いだ一人の若武者が現れる。


「某は松平蔵人佐元康が家臣!渡辺半蔵守綱と申す!槍合わせ願おう!」


「おう!少しは骨のある奴が出てきたかっ!いざ、尋常に勝負!」


 かたや齢二十三の稲垣平右衛門、かたや弱冠二十歳の渡辺半蔵。戦場で出会った両名が一歩も譲らぬ死闘を繰り広げる一方で、夏目次郎左衛門尉も指揮を執りながら太刀を振るって奮戦していた。


 そうして開戦から一刻が経過した頃。元康のいる本陣目がけて土煙をあげて接近してくる一団があった。


「殿、あれは丸に三つ石!鵜殿の旗にございます!」


「おう、まことじゃ。陣形を突撃してくる鵜殿勢を迎撃するべく、変更する!平八郎!そなたはその間に狼煙をあげよ!肥後守は鵜殿勢への迎撃を頼むぞ!」


「承知!」


「はっ、お任せくだされ!」


 本多平八郎が走り去り、叔父の肥後守も愛用の槍を引っ提げて鵜殿勢を迎え撃つべく動き出す。鵜殿勢が駆けつけた場合、挟撃されることになると予想はできていた。


 それゆえに、牧野勢へぶつけるのは全軍の半数以下に抑え、残る隊は鵜殿勢が来援した場合には矛先を転じられるように備えは済んでいる。鵜殿勢来援を聞いてなお落ち着き払った様子の松平勢から突撃してくる鵜殿勢目がけて容赦なく矢が射かけられる。


「太守様から受けた御恩を仇で返す賊将を討つは今ぞ!進めっ!」


 憎悪で目が血走っている鵜殿藤太郎の号令で松平勢へ明確な殺意をもってぶつかっていく鵜殿勢。これを真正面から受けたのは本多肥後守であった。 


「者共!殿の御命を狙う不届き者を一人たりとて本陣へ寄せ付けてはならぬ!数こそ少ないが、織田家より分け与えられた火縄銃!使うは今ぞ!」


 信長が熱田商人らから入手した火縄銃。それを火薬や鉛玉ともども援助してもらっていた元康は鵜殿勢に対し、それを使用することを決めた。


「鉄炮隊、構えっ!今じゃ、放てっ!」


 耳をつんざくような轟音が辺りに響き渡る。その轟音が響くとともに、バタバタと倒れていく鵜殿勢。弓矢の射程外だと油断していた鵜殿勢の足が止まった。


「よしっ!敵の足が止まったぞ!総掛かりじゃ!」


 号令を下した当人が真っ先に槍を引っ提げて敵中へ突っ込んでいく有様であったが、鉄炮で敵の勢いを挫いたとあって、松平勢の指揮はうなぎ登りに高まっていく。そんな中で、元康本陣から上がった狼煙を合図に牧野勢と対峙している松平勢も攻勢に転じる。


「これは一体どういうことじゃ!急に味方が押され出しておる!」


 騎乗し、戦の成り行きをじっと見ていた牧野民部丞であったが、そこへ驚くべき報せが飛び込んでくる。


「殿、一大事にございます!」


「なんじゃ、騒々しい」


「い、い、い、稲垣氏連様が敵方へ寝返りました!」


「そうか、稲垣氏連が寝返ったか。なっ、寝返ったじゃと!」


 あまりの衝撃で素通りしかけた情報。しかし、それは牧野民部丞が素っ頓狂な声を上げるほど、とんでもない報せであったのだ。

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