第116話 合縁奇縁
松平蔵人佐元康連戦連勝の報せは父・今川三河守義元を失った今川治部太輔氏真の心傷を癒やしつつあった。だが、それだけで氏真の不安が完全に消え去ったわけではなかったのである。
「見よ、またもや蔵人佐が勝利したとのことぞ。水野も加茂郡西部の中条や三宅も大したことないではないか」
氏真が広間に集めた重臣らにも見えるように放った書状は、他でもない元康自身の筆跡で記された戦果報告文書であった。
「まこと、さすがは義兄上にございます。舅殿も見てくだされ」
「う、うむ。まこと、松平蔵人佐殿は単身で織田方の国衆らと渡り合っておりますな」
真っ先に書状を拾い上げたのは元康にとっては相婿にあたる北条助五郎氏規。続いて、関口刑部少輔氏純の手に渡った。
実の兄が戦で勝ち続けているかのように喜ぶ十六の北条助五郎とは対照的に、四十を目前に控えた関口刑部少輔の表情はどこか陰りを見せていた。
「されど、そう長くは続きますまい。松平蔵人佐殿がこうも勝ち続けておれば、次は織田上総介自らが出向いてくることも考えられよう」
「ははは、丹波守殿は未だ織田軍の猛攻が恐ろしいのであろうが、少々こざかしい奇襲を得意とする信長なんぞ松平蔵人佐殿で十分防ぎ得よう」
暗い顔をしたままの関口刑部少輔から文書を受け取り、考えられる可能性を口にした朝比奈丹波守親徳に対し、信長を過小評価する言葉を発したのは朝比奈備中守泰朝であった。
またもや対立する意見を発した両名は今にも口喧嘩を始めそうな雰囲気であったが、関口刑部少輔は彼らを視線で制しながら、上座の氏真へと己の考えを述べてゆく。
「御屋形様。ここは速やかに三河へ援軍を派兵するべきかと。松平はよく粘っておりまするが、このように積極的に攻めに回って西三河を防衛しておることは、守勢のみではいつまでも守り切れぬと訴えているように思えてなりませぬ」
「う、うむ。送りたいのはやまやまであるが、まだ遠江国衆らの跡目相続を認める判物の発給は半分も終わっておらぬ。そのような状態で援軍を送ることも叶わぬ。何より長尾弾正少弼による関東侵攻も気がかりではある」
重臣らにとって、このやり取りは何回目かと思うほど繰り返されてきたものである。
娘婿を救うためにも援軍を送ってほしいと嘆願する関口刑部少輔に、長尾景虎の関東侵攻や安堵状の発給などが完了していないことを理由に援軍を送ろうとしない今川氏真。
「加えて、今月十九日には関白である近衛前嗣公が長尾弾正少弼を頼り、越後国府中へ下向したというではないか。関東管領だけでなく、関白まで擁立してきたとあっては、舅の北条左京大夫殿は官軍を相手に戦をせねばならなくなる。そうなれば、当家とて黙ってはおれぬのだ。分かってくれ、関口刑部少輔」
口調としては突き放すかのような冷たさは一切感じられない。そう、やむにやまれぬ事情があり、それを誰しもが理解しているからこそ、何も言えなくなってしまう冷たさがそこにはあった。
泣きたくなる気持ちを抑えながら、その日の評定を終えた関口刑部少輔の胸中は心配事で満たされていた。今月には体調が落ち着いたこともあり、娘の駿河御前と孫娘の亀姫が駿府を旅立ち、岡崎へと向かったのである。
仮に、このまま援軍が送られることなく、織田方によって岡崎が制圧されてしまったらどうなるのか。関口刑部少輔としては、考えるだけで寒気がしてくる。
「すまぬ、元康殿。すまぬ、瀬名――」
空しく空を見上げながら、消え入るような声で呼んだ娘婿と愛娘の名前。
関口刑部少輔が駿府で悲嘆に暮れている頃、駿河御前は亀姫を抱きかかえながら元康の故郷である岡崎の地を自らの足で踏みしめていた。
籠より降り立った最愛の妻とその胸に抱かれたままの娘を出迎えたのは、他ならぬ元康自身であった。
「瀬名、それに於亀。よくぞ、よくぞ岡崎へ参った」
「殿……!」
実に四カ月近く会うことも叶わなかった夫婦の再会。いつ死ぬとも分からない乱世において、再び会うことが叶ったことに、元康も駿河御前も涙して喜んでいた。
「そうじゃ、二人がこちらへ参ると舅殿より便りをいただいてより、急ぎ作らせた屋敷があるのじゃ。積もる話はそちらでするとしようぞ」
「はい。されど、まずはこの岡崎の城を見てみとうございます。まだ、殿のご親族の方々にも挨拶が済んでおりませぬし、折を見て大樹寺にも参って殿のご先祖へも挨拶をいたしたく」
「そうか。うむ、ならば城を案内いたそう。さっ、こちらへ参るがよい」
城の大手門前にて再会を果たした元康は妻子に己の居城を見せて回る。まさか瀬名に岡崎城を案内できる日が来ようとは、数カ月前の元康自身にも想像だにできなかったことである。
「殿。岡崎の地は、まこと長閑な地にございまする。駿府は栄えておりましたが、ここにあるものすべて、駿府にはない素晴らしいものばかりにございます」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいのぅ。ほれ、後ろで爺どもが泣いておろうが」
そう言われ、元康が顎でしゃくった先を見る駿河御前。すると、夫の言う通り、後ろで静かに控えていた鳥居伊賀守忠吉や石川安芸守忠成、出家して常源と号している大久保新八郎忠俊に、その弟の平右衛門忠員といった強面の老将らが揃いも揃って号泣しているのである。
そんな松平家中の重鎮たちの様子に、駿河御前はくすりと笑みがこぼれる。堅苦しい今川家中よりも、こちらの方が親しみの情が湧いてくるのである。
「まったく、年寄りは涙もろいものじゃ。ははは……」
「されど、殿も泣いておられるではありませんか」
老臣らの涙を笑う夫もまた涙を流していることを指摘する駿河御前。すると、元康は気恥ずかしくなったのか、そっぽを向いてしまう。
「ふふふ、面白いお人。さっ、まだ瀬名も於亀も本丸までたどり着いてはおりませぬ。案内を続けてくださいませ」
「うむ、そうじゃな。案内を続けるといたそう」
次に瀬名に顔を見せた頃には元康の眼から涙は零れてなどいなかった。しかし、擦って赤くなっているのを、妻が見逃すはずもなかったのだが、あえて指摘することもなく、そのまま城内の案内が続けられていく。
そうして本丸までたどり着くと、そこには元康からの報せを受けて四人の女性が駿河御前と亀姫の到着を今か今かと待ちわびていた。
「殿、こちらの方々は――」
「うむ。わしの数少ない親族じゃ」
元康が着座したのに合わせて、駿河御前もすぐ傍へ座する。御前が一体誰なのかと年代も様々な女性たちを流し見ていると、元康より紹介がなされる。
「まず、こちらにおられるのがわしの大叔母にあたる随念院じゃ」
「遠く駿河よりよくぞお越しくださいました。松平蔵人佐元康が大叔母、随念院にございまする」
「これはご丁寧なあいさつを。関口刑部少輔氏純が娘、瀬名にございます。随念院さま、今後ともよろしくお願いいたします」
丁重に礼に礼を重ねる随念院と駿河御前。駿河御前としては、元康から随念院の名と育ての母親のような存在であることは幾度か聞いたことがあった。それが今日対面してみて、初めて顔と名前が一致した。
「その左隣におるのが、今年で十四となった妹の矢田。そのもう一つ隣が於市じゃ」
「や、矢田にございます」
「於市にございます……!」
「これはこれは。瀬名と申します。おふたりとは今後、姉妹として接していけたらと思うております。何卒、仲良うしてくださいませ」
元康に紹介されてハッとしたのか、緊張が解けぬまま駿河御前へと挨拶する矢田姫と市場姫。そんな彼女らの視線は瀬名に向けられていたが、関心は瀬名の乳母が抱きかかえている亀姫の方へ向けられていた。
「矢田殿、於市殿」
「は、はい!」
「はい!」
「お二人とも於亀のことが気になっておるのでしょう?よろしければ、もっと近くで見てくださいな」
駿河御前は優しく微笑みながら矢田姫と市場姫に語り掛けながら、乳母の方へと目くばせをする。その目くばせと彼女が発した言葉から意図をくみ取った乳母は亀姫を抱きかかえて二人の姫の元へ。
そんな駿河御前と乳母の様子からすべてを察した元康は、内心で妹らに次にかける言葉を定めた。
「矢田、於市。於亀は二人にとって姪にもあたる。瀬名もこう申していることゆえ、もっと近づいて見て参るがよい」
兄夫婦より正式に許しを得て、嬉しさに目を輝かせて亀姫のもとへ駆け寄る矢田姫と市場姫。そんな二人を随念院と田原御前は目を細めて見守る。
「瀬名、最後になったが、こちらが我が継母の田原御前じゃ」
「田原御前にございます。こうして、元康殿のご正室と言葉を交わせる日が来ようとは夢にも思いませんでした」
「こちらこそ、殿の御母上とこうして直に話すことが叶うとは感慨無量にございます。至らぬ娘ではございますが、今後ともよろしくお願い申し上げます」
駿河御前に田原御前。ようやく対面を果たした二人はにこやかに対話していく。気性が合わず、口論にでもなればどうしたものかと秘かに気をもんでいた元康であったが、見事に取り越し苦労に終わったのである。
「そうじゃ、殿。桶狭間合戦以後、戦続きにございますが、お怪我などはしておりませぬか」
「ええ、一つたりとも怪我などしておりませぬ。大叔母上こそ、体調が優れぬ日が多いと承っておりまする。何卒、ご自愛下さいませ」
「ほほほ、そういたしましょう。可愛い弟の孫の言葉を聞かねばなりませぬな。そうじゃ、未だうつけな倅が殿に従おうとせぬと耳にしましたが――」
随念院が口にする『うつけな倅』が誰を意味するのか、元康は瞬時に理解できた。
「ええ、大給の松平和泉守親乗殿からはあまり快く思われておらぬようで。されど、敵対しているわけではございませぬゆえ、ご案じなさらず。それに、和泉守殿の嫡子で某にとっても再従兄弟にあたる源次郎殿からはなぜだか慕われておりまするゆえ、代替わりすれば片付く間柄にございますれば」
必死に随念院の息子が悪いのではないと言いたい元康であったが、今の説明ではむしろ逆効果であることを口にしてから気づいてしまった。
元康の言葉に随念院はがっかりした様子を隠し切れない様子。無理もないことである。自分が腹を痛めて産んだ子が、我が子のように可愛がり育ててきた弟の孫と手を取り合って困難に立ち向かおうとしないのであるから。
「もし、大給松平が織田方へ寝返ったならば、これを討伐せねばならぬのは元康殿。そうなれば、妾はあの世で清康殿にどう詫びればよいのやら」
「大叔母上、そのような不吉なことは申されないでくださいませ。ご案じなさいますな、和泉守殿は某に負けず劣らず今川家への忠誠心を抱いておられる御方。天地がひっくり返ろうとも、今川離反など考えぬかと」
「元康殿。それはそうやもしれぬが、何が起こるか分からぬのが、この世というものでしょう」
「そ、それは仰る通りではありますが……」
やはり目の前にいる大叔母は聡明である。元康が随念院を諭すことは、弟子が師を打ち倒すようなもので、並みの事では実現できないことである。
そんな随念院と元康の気まずい空気を察知してか、田原御前は話題転換を図り、元康へ話しかけていく。
「そうです、先日甥の主殿助より書状がございました」
「ほう、二連木の戸田主殿助殿から書状にございますか」
「はい。先日は元康殿と共に戦うことができたこと、まこと喜ばしい限りであると。また、岡崎城にて妾と面会したことを妾の弟の甚五郎にも話したところ、そのように取り計らっていただいた殿に御礼を申したいと口にしていたとのこと」
「左様でありましたか。然らば、二連木へ赴くことがあらば、立ち寄り某の口から直接援軍のお礼を伝えに参りに行くといたしましょう」
父・広忠が水野と手切れに及んだ際に選択した戸田家との婚姻同盟。これが父の死後も思いがけないところで縁を結んでいるのだと考えると、面白いものだと元康は感じていた。
「まこと、縁と申すものはどこでどう繋がって参るか、分からぬものでございますな」
「ほんに。今後とも松平と戸田が手を取り合っていけるよう、妾も橋渡し役になりとう存じます」
「継母上はすでに橋渡し役になっております」
「いえいえ、妾が生きている間は言うに及ばず、亡くなった後も、ずっと続いていくように、今できることを最大限せねばならぬのです」
最後に田原御前が口にした言葉は、聞いていた元康にも、そして随念院にも深く心に残る言葉となったのである。