根積千宙の下積み
星花女子学園ソフトボール部は新チーム体制となり、夏休み中も秋の新人大会兼全国選抜大会予選に向けて練習を重ねていた。
夏休み期間の初期は夏期講習があるので午前中は自主練習、昼食休憩を挟んで全体練習が行われる。夏期講習は希望者のみの受講だがソフトボール部員で受講者は一名もおらず、監督だけが授業で不在という状況だった。それでもみんな真面目に練習に取り組んでいた。
しかし、昼食後の休憩時間中のことである。
「チューちゃん、東先輩が今から10分後に来いって」
ソフトボール部マネージャーの小野寺恵夢に声をかけられた「チュー」こと根積千宙が「今行きまーす!」と元気よく返事すると、ロッカールームに駆け足で向かった。
「あっ、ちょっと待って! 10分後! 今はダメだって!」
引き止める声は届かなかった。
「失礼しまーす!」
「あうっ……」
千宙は入るなり、色っぽい声を耳にしてしまった。ベンチの上で色白のイケメン女子が半裸でうつ伏せになり、色黒のイケメン女子からマッサージを受けていたが、そのいやらしい手つきは誰が見てもメディカルでものではなくセクシュアルなものだ。
「あっ、東先輩! 何やってんすかー!」
「何やってんすか、じゃねえ。10分後に来いっつったはずだろ。それとも何か? 根積もオレのテクニックを味わいに来たのか?」
「ちちち、違います!」
東忍はニタアと笑ったが、うつ伏せのイケメン、草薙麗は千宙をにらみつけた。
「せっかく気持ちよくなってたのに何邪魔してんの? さっさと出ていけよ」
「はいっ、失礼しました!」
「おい待て、用があるから呼んだんだ」
忍が引き止めると、自分のロッカーから500円玉を取り出した。立成20年鋳造の新品だ。
「チルタイム買ってこい。フツーのとカロリーゼロ一本ずつな。きちんと10分後に帰ってこいよ」
「了解です!」
さっさと退室した途端、麗の切ない声が聞こえてきたので早足で外に出ていった。
「チューちゃん、何だか目の焦点あってないけど、見ちゃったんだね?」
「うん、がっつり見た」
「だから先輩は『10分後に来い』って言ったの。慌ててよく聞かないからだよ」
「そもそもクソ暑い真っ昼間から部室であんなことするのおかしいじゃん!」
「いや、私に抗議されても困るし」
「そりゃそうだな。は~、あの二人は本当に……」
「あっそうだ、さっき加瀬先輩と吉川先輩がチョコモビ買ってきてって。私他に抱えてる雑用あるからお願いできる?」
「あいよ、いつものやつね」
「じゃ、先輩のお金渡しとくね」
恵夢からは400円を渡された。するとそこに別の先輩二人が寄ってきた。二人ともまったく同じ顔、まったく同じ背丈をしている。
「チュー、今からお使い行くの?」
「ちょうどよかった。ついでに私らにもコーヒー買ってきてよ」
声もまったく同じである。一卵性双生児の久能佑季と久能佐季が150円ずつ出して千宙の手に握らせた。
「行ってきまーす!」
「「はい行ってこーい」」
ステレオ音声で見送られると、千宙は猛ダッシュで正門を出た。そのままスピードを緩めることなく、近くのコンビニエンスストア、ニアマート星花女子学園東店に駆け込んだ。温かい音色の入店チャイムが出迎える。鼻歌を歌いながら買い物カゴを手にとって、頼まれた品物を探す。まずはドリンクコーナーへ。
「チルタイム、フツーのとカロリーゼロっと」
チルタイムというのは最近流行りのリラクゼーションドリンクで、全てのコンビニで買えるわけではないが、ニアマートでは全店舗が販売している。忍と麗が好んで飲んでいて、カロリーゼロを飲むのは決まって麗の方だ。
「コーヒーっと」
細かい指示は受けていないが、久能姉妹が言うコーヒーとはマキシマムコーヒーのことだ。マキシマムコーヒーはかつて千葉県や茨城県でしか見かけなかった製品で、練乳がたっぷり入っているためとてつもなく甘い味がするという特徴がある。これもS県では手に入りにくいが、ニアマートでは全店舗が販売している。ちなみに久能姉妹は茨城出身でマキシマムコーヒーをこよなく愛しており、空の宮市でもソウルドリンクが手に入ることを知って感激したそうだ。ちなみに千宙も一度飲んだことがあるが、甘すぎて口に合わずそれっきり飲むのをやめた。
「んで、チョコモビっと」
チョコモビはチョコモナカビッグアイスのことで、これを冷凍ショーケースから二袋取り出して買い物カゴに入れた。チョコモビの特徴はなんといってもパリパリ食感が楽しめることである。加瀬みりなと吉川さくら両先輩はほぼ毎日のように食べているが、千宙はいつもよく太らないな、といつも失礼なことを思っている。
「いらっしゃいませ」
制服に「糸崎もみじ」という名札をつけた、マスクをした店員がレジに立っていた。星花女子学園東店のオーナーの娘で、かつて県庁職員だったが二年前から実家で働くようになったとのことである。
「暑いのに先輩のお使い、大変じゃない?」
店員から話しかけてきた。彼女は星花の生徒に対しては気さくに接しており、客として来る生徒の顔と名前、特徴を覚えているという。千宙がソフトボール部員ということも当然知っている。
「高三が引退したから少しだけ楽になりましたよ」
「でも、今の高二って結構バリバリの体育会系タイプが多いって聞くよ? いじめられたりしてない?」
「全然そんなことないです! ちょっとアレだけどいい人ばっかだし」
「アレって何よー?」
店員はマスク越しに笑った。いくら冷房が効いているとはいえ、真夏にマスクをつけている理由が千宙にはよくわからないが、わざわざ聞くのも失礼だと思ってそのままにしていた。
新チームの主軸である高等部二年生はかのスラッガー、下村紀香がキャプテンだった頃に入学している。同期には有原はじめと加治屋帆乃花の黄金バッテリーがいて、彼女たちはインターハイ初出場に導いた伝説の先輩として崇められていた。
そのためか、ニ年生は下村紀香の影響を色濃く受け継いでいる。紀香はお嬢様学校の生徒らしからぬ汗と泥と涙が似合う豪放磊落な性格だったが、今のソフトボール部の気風もそれに近いものになっていた。
「1,000円になります。袋はおつけしますか?」
千宙は「レジ袋3円」の文字を見て少し躊躇した。
「うーん、中途半端になっちゃうな……ま、いいか。一枚ください」
「3円頂戴します」
千宙は自分の小銭入れから3円出し、先輩からもらった500円玉と100円玉5枚を添えて支払った。
「1,003円ちょうどお預かりします」
もみじからレシートと袋詰めされた商品を受け取った。残りの100円玉と50円玉2枚はお駄賃としてそのまま千宙の懐に入る。お嬢様学校の生徒らしからぬ先輩たちとはいえやはり裕福な家庭の生まれが多く、後輩に使い走りで買い物をさせる場合は余分に金を持たせ、お釣りはお駄賃として取らせていた。かなり機嫌が良いときは140円のジュースを買わせるのにお札を渡してくることもある。
今回は200円の儲けだが、それでも小腹を満たすちょっとした食べ物や飲み物ぐらいなら買える。だから千宙は使い走りを頼まれても嫌な顔をせず引き受ける。千宙の実家は居酒屋でお嬢様というわけではなく、それでも並の家庭よりは稼いでいるとはいえ、おこづかいの額はチームメイトに比べると少なめなので少しでも格差を埋めたいから、という理由もあった。
「じゃ、暑いけど頑張ってね。熱中症で倒れないように水分はよく取ってね」
「はい、ありがとうございます!」
店を出ようとしたが、自動ドアの前で石のように固まってしまった。
「根積さん、どうしたの」
「ねっ、ねっ、猫が入り口のところに……」
黒猫がどっしりと座り込んで、じーっと店内の中を見ている。千宙は全身から冷や汗が流れるのを感じた。そう、彼女は猫が大の苦手なのだ。その理由はわからないが、生まれたときから生理的に受け付けない体質だった。
星花女子学園の敷地内には野良猫がよく出没するが、このニアマートも野良猫の出没スポットとなっている。特にニアマートはなぜか猫グッズが充実しているため、星花の生徒たちがニアマートで買った猫用おもちゃで遊んだりするので、遊んで貰えると思ってわざわざ待ち伏せする猫もいるのだ。恐らく、この黒猫も千宙と一緒に遊びたいのだろう。
「シュヴァルツちゃんだ。ちょっと待ってね」
もみじが自動ドアを開けると、シュヴァルツと名前をつけられている黒猫をひょいと抱え上げた。野良とはいえ人慣れしているようで、もみじの手の中で大人しくしている。
「はーい、いいこいいこ。根積さん、今のうちにどうぞ」
「すみません!」
千宙は礼を言うと、シュヴァルツを見ないようにして駆け出した。千宙の足を持ってすれば学校まではすぐだ。
「久能先輩、おまたせしました!」
「「おかえりー」」
佑季と佐季にマキシマムコーヒーを渡して、みりなとさくらを探す。
二人はバックネット裏で体育座りをしながらいちゃついていた。二人の練習着のシャツが多少乱れていた。
「おっ、お取り込み中失礼します……アイス買ってきました」
「おー、サンキュー」
「ありがと」
みりなとさくらは咎めず、チョコモナカアイスを受け取った。もう一度失礼します、と頭を下げて駆け足でソフトボール部室へ。もう10分経っているが、今度はロッカールームにいきなり入らず、ドアをコンコンと叩いた。
「お楽しみ中失礼します。チルタイム買ってきましたよ」
「入れ」
忍の低い声が返ってきた。
「失礼します……」
ロッカールームはエアコンが利いているはずだが、二人とも汗だくのまま息を切らしてベンチの上にお互い寄り添って座っていた。忍はひと仕事終えたようなすっきりした顔つきで、麗は下着姿のままで目がトロンとしている。
「ど、どうぞ」
「おう、ひと汗かいた後にこれ飲むとうめえんだよな」
「でも、今日はチルタイムぐらいで昂りを抑えられそうにないや。どう忍? ボクのルームメイト、今日から実家に帰っていないんだけど今晩はもう一回ゆっくりと……」
「本当にこいつは上品な顔の割に体の方は逆だな。いいぜ、明日はオフだし丸一日かわいがってやんよ」
「ああ、もうなんでもしてよ……」
千宙は小声で失礼しました、と告げてそっと去っていった。
「みんな、軍曹がいないからって好き放題やりすぎだろ……」
昼休憩なのに、精神的な疲労ががっつり溜まってしまった。
星花女子学園には須賀野守という、軍曹と呼ばれ恐れられている名物風紀委員がいるが、国際科の短期英語研修のためにオーストラリアに飛んでおり、夏休みが終わる直前まで帰ってこない。そのため鬼の居ぬ間に洗濯状態で、恋人どうしはここぞとばかりに校内でいちゃつきまくっていた。特にソフトボール部の二年生は部員間でデキているカップルが複数おり、練習の合間にいちゃつくのはしょっちゅうで忍と麗のように盛りあう者まで出る始末である。
生まれてから今まで彼女も彼氏もできたことがない千宙にとっては、いろんな意味で刺激が強すぎる場所である。それでもチームの雰囲気は良いし、下村世代の活躍により良い選手が次々と入学してきたため、今では全国を狙える程の力があり、来春の全国選抜大会出場有力候補に挙げられていた。
今の千宙はというとまだ控えの身だが、いずれ急成長中のチームの幹となるべく努力しているのである。
一息つくべく、先輩からもらった200円で自販機のジュースを買いに行こうとしてグラウンドを出たら、さっきの久能姉妹もがグラウンド外に出て並木の下で涼んでいた。
二人はマキシマムコーヒーで甘ったるくなったお互いの唇を味見するかのように、キスを交わしていた。性別はおろか血縁関係をも超越した愛の現場を目の当たりにした千宙は、やむなく旧校舎前の水飲み場に向かったのであった。
「マジですごすぎるわ、ここは……」
下村紀香の活躍を描いた作品も合わせてご覧ください。
『Get One Chance!!』
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